ベアトリス
「ようこそ、陽埋めの丘へ」
放心していたシルフを正気に戻したのはどこからともなく聞こえる女性の声だった。
「あなたは、どなたですか」
シルフは頭を巡らせながら声の出所を探したが、それが何処なのか分らないようだった。
「申し遅れました。わたくしは、ベアトリスと申します。理由あって声だけの挨拶となる失礼をお許し下さい」
「こちらこそ失礼しました。わたしはシルフといいます。ところで、あなたがこの、けもの、達に此処を護るように命令したのでしょうか」
シルフはまず、ベアトリスと名乗る女性がどういう立場の人なのか知ろうと思ったのだ。
「いえ、命令した訳ではありません。彼らは自発的にこの地を護って下さっています。ちなみに彼らはディノスといいます」
どうやら、ディノス達のボスでは無いらしいと分かったシルフは、実は一番知りたいと思っていた事を口にする。
「……ディノス達はこの石板を護っているのだと思いますが、それはあの石板が多元世界間を橋渡しする、いわゆる通信装置だから、で合ってますでしょうか」
通信装置にしては大掛かりな回路パターンに戸惑いながらも確認するシルフに対し、ベアトリスの発言は更に驚くものだった。
「その通りです。通信装置というより、世界間を繋ぐ門扉と言った方が良いでしょう」
「繋ぐ、と言うのは、あの石板、門を通して物が行き来できる、という事ですか……まさか、そんな」
シルフは彼女の研究の何歩も先を行く、遺物にしか見えない石板に、呆れた様な、感嘆した様な視線を向けた。彼女の研究では、二つの世界に同種の装置がある事が前提で、単純な信号をやり取りする事が限界だったのだ。
「もっと詳しくお聞きしたいところですが、今はこれだけ確認させて下さい。この装置を開発したのは、ベアトリスさん、あなたでしょうか」
シルフとて研究者だ。この方面の論文は何編も読み込んでいる。誰がどの様な研究を行っているか知悉している。しかし、彼女の記憶にある研究者のリストに、ベアトリスという名前は無かった。
「ええ、そうです。わたくしが研究開発しました。そしてもうお気付きでしょうが、わたくしはシルフさん、あなたの世界の人ではありません」
シルフの思った通りだった。
「ディノス達は、何故わたしをここへ連れて来てくれたんでしょうか」
シルフは彼女を案内したディノスを見た。
「それはあなたが、わたくしと瓜二つだからでしょうね」
ついで石像を見る。
「では、あの石像はあなたを象ったものなのですね」
「ええ。ちょっと、いえ大変困った方が居て、その方があの場所に彫刻してしまったのです」
「わたしはこの方面は素人ですが、素晴しい技倆をお持ちの方なんでしょうね」
「それは否定しませんが、わたくしの事となると見境いの無くなる方で、とても困惑しております」
その雰囲気で何となくシルフにも察せれらた。おそらく重度の付き纏いなのだろう。自身の経験からそうだろうと想像したシルフだった。
「ちなみにその方は今此方にいらっしゃるのですか」
ただの興味本位の質問だった。しかしベアトリスの答えは、シルフの関心を大いに引くものだった。
「ええ。こちらでは何と名乗っているのか分りませんが、彼はマイケルといいます」
マイケルと言う名前とベアトリスの語る特徴を聞いて、シルフの脳裏にある顔が浮んだ。彼女の属する研究所の所長ミシェル・ラグランジュだ。もし、彼がマイケルだったら。所長は、シルフがベアトリスと瓜二つだったからこの作戦に彼女を参加させたのではないか、とシルフは疑いを抱いたのだった。
「また来ます」
再度の訪いをベアトリスに告げたシルフは、ディノス達と共に登山道を降りていた。
2Qと3Qの中間に辿り着くと、先導役のディノスが道を外れた場所に彼女を連れていった。一本の樹木の陰に着く。そこには彼女が身に付けていた武器が隠されていた。再びそれらを身に付けたシルフは登山道へと戻る。
登山道を降りようと歩を進めたシルフは、ディノス達がついて来ていない事に気付いた。振り返るシルフの目に、先導役のディノスを先頭にディノス達が待ての姿勢で整列する姿が映る。
「ここ迄のお見送り、ありがとう。また来るからその時はよろしくね」
監視かも知れなかったが、良い方に解釈したシルフは、ディノス達に一時の別れを告げたのだった。
2Q地点を通り過ぎるシルフは、辺りに人影は見えなかった事で、ここからも撤退したのだと察した。
「1Qもかしら」
その予想通り1Qも既に撤退した後だった。
登山口まで降りて来たシルフを迎える者は誰も居なかった。
「これじゃ、ルーサー迄届かないし。あし、どうやって確保しよう」
一応持たされている携帯型通信機を見ながら疲れた様に呟く。
「ハファ迄走って行くとして、充電持つかな。それに装備を着けたまま街中をうろうろする訳にもいかないし」
暫く悩んだシルフは、無線機を手に取り周波数を変えていく。
「届くか届かないか、ギリギリのところね。届いたとしても先輩が聞いているとは限らないし……先輩、アクラム先輩、聞こえてますか。シルフです。聞こえたたら応答お願いします」
何度か同じ事を繰り返すシルフだったが、応答は返ってこなかった。
「やっぱり無理だったか。元々ギリギリの距離だったし、周波数も変わってるかもしれないし……」
諦めて次にどうしようかと考えている時、無線機から雑音交じりの声が発せられた。
『……ルフか……うした……今どこ……』
「先輩っ。サフュネの登山口に居ます。ちょっと置いてきぼりにされてしまいまして。もしお時間があるようでしたら、迎えに来てもらえないかと」
『サフュ……口だな。……ぐ行く……待って……』
「助かります。待機してます」
ブッといって切れた交信に、ほっと安堵の息を吐くシルフ。帰れる目処がつくと今度はどうやって先輩に説明するか、頭を悩ませるのだった。
数十分後、幌仕様のオフロード四輪駆動車を駆って来たアクラムがサフュネ登山口に現れた。彼はシルフを見付けると腹を抱えて笑い出した。
「おーい、どうした。随分といかれた格好してるけど、サバイバルごっこでもしたくなったか」
PSを装着し銃を背負った彼女を見て冷やかすアクラムにシルフはむくれた顔を突き出した。
「先輩、酷いです。現役時代いかれてたのは先輩の方じゃないですか」
そりゃそうだ、となおも笑い続けるアクラムに、処置なし、とシルフも苦笑を漏らすのだった。
「それはそれとして、来てくださってありがとうございます。本当に助かりました」
アクラムの笑いも一段落ついた頃、シルフは改めて礼を述べた。
「いいって。まずは乗ってくれ。ああ、その物騒な物は、後ろに積んでくれ」
言われた通り銃やPSを幌の中に仕舞い込んだシルフは、助手席へと乗り込んだ。やっと帰れると安心した彼女は、聞かれる前にとアクラムへと事情を説明しはじめたのだった。
装備を見られた以上、どう取り繕ったところで、誤魔化し切る事は出来ないと判っていたシルフは、洞穴の事以外、全てをアクラムに話した。
「先輩の口の固さを信頼して、全てお話ししました。守秘義務に抵触する内容も含まれますので他言無用でお願いします」
「ああ、分った。その死なない獸の話も気になるけど、それよりもっと気になる事がある」
ハンドルを握り、前方を向いたアクラムは真剣な表情をしていた。
「その所長は、何でお前を参加させたんだ。お前が兵士として優秀だったというのは理由にならんだろう。このまま戻って大丈夫なのか」
考えまいとしていた事実を突かれて黙り込むシルフだった。