第94話:真剣な眼差しと小さな手
夏休み目前のこの時期、学校は午前授業だけになっていた。昼休みもなく、終わればそのまま下校。生徒たちは開放感に包まれ、それぞれ思い思いの午後を過ごしに行く。
和夢も例外なくその一人なのだが、今は一人寂しく電車に揺られていた。
本当ならバロックで誰かとカードを楽しみたいところだったが、今日はエレナも蓮も明日香も、それぞれ用事があるようだ。
(そういえば……今日の明日香さん、なんか変だったな)
朝のホームルームの時から、明日香の様子はどこか元気がなかった。声をかけようと思ったが、話しかけられる雰囲気ではなくて、結局そのまま別れてしまった。
エレナや蓮にも相談する機会がないまま、和夢は胸の奥にもやもやしたものを抱えて、ひとり午後を迎えていた。このまま家にいては思い悩んで一日が終わってしまいそうだ。
気がつけば、和夢の足は自然とカードキャッスルへ向かっていた。
(カードを見てれば少しは気晴らしになるかな――――うんっ?)
店の前まで来たところで、不意に目の端に小さな後ろ姿が映る。
小柄な体格。肩まで伸びた黒髪は丁寧にまとめられ、風にそっと揺れていた。
ベージュのブラウスに紺のスカート、年相応ながらきちんとした印象の私服。その後ろ姿を和夢は確かに覚えていた。
(……あれ、もしかして)
和夢は足を止め、声をかける。
「沙良さん?」
その声に、少女の肩が小さく跳ねる。彼女はゆっくりとこちらに振り返ると、和夢の顔を見て明らかに表情を明るくした。
「こ、高坂さん、こんにちは」
沙良は少しはにかんだように笑って、和夢を見上げる。その落ち着いた口調は、まるで年齢以上にしっかりとした印象を与えた。
和夢は沙良とカードキャッスルの看板を交互に見て話を続ける。
「沙良さんはどうしてここに?」
沙良は一瞬、考えるように顔をしかめたが、すぐに和夢を見上げて言った。
「実は……」
少し間を置いた後、沙良は小さな声で続ける。
「わたし、カードゲームを覚えたいんです。ここで出会えたのも何かの縁です。高坂さん、どうかわたしにレジェンドレコードを教えてもらえませんか」
そう言葉にする沙良の目は真剣そのものだ。だからこそ和夢は深く困惑した。
「僕が教えるのはもちろん構わないんだけど、えっと、でもそれなら蓮先輩に教わった方がずっと、もっといいと思うよ。知識も経験もデッキの構築力も僕は蓮先輩の足元にも及ばないし……」
沙良はそれを否定するように、少し顔を曇らせた。
「それが……いくら蓮姉様に頼んでも、わたしにLRを教えてくれないんです……」
和夢は沙良のまっすぐな瞳に、一瞬言葉を詰まらせた。けれど、胸の奥にひっかかるものがあって、そっと尋ねる。
「でも、蓮先輩って、沙良さんのことすごく大事にしてると思うんだ。だから、教えたくないわけじゃないんじゃないかなって」
その言葉に、沙良はふっと俯いた。小さな手でスカートの裾をぎゅっとつまみ、しばらく黙り込む。少しだけ震えているようにも見えた。
「……わかんないんです」
ぽつりと、沙良は呟いた。
「わたし、蓮姉様にカードゲーム教えて欲しいって何度もお願いしました。でも、姉様はいつも、沙良にはまだ早いとか、他に楽しいことがあるだろう、とか……そうやって、ちゃんと教えてくれないんです」
沙良は静かに顔を上げ、和夢を見つめた。その瞳は、少しだけ不安そうに揺れている。
「もしかして、蓮姉様は……わたしに、入ってきてほしくないんじゃないかなって、最近、少し思ってて……」
和夢は驚いた。沙良の声は穏やかで落ち着いているのに、その言葉の奥に、静かだけど切ない寂しさが滲んでいた。
「わたしは、ただ、姉様と同じことをして、一緒に遊びたかっただけなのに。どうしてもダメなのかなって……それが、ずっとわからないんです」
沙良は小さく息を呑んで、けれど必死に笑顔を作った。
「でも、やっぱり、諦めたくないんです。ちゃんと覚えて、わたしが本気だって、蓮姉様に見せたい。そしたら、きっと――」
声がほんの少し震えた。けれど、沙良は決して泣きそうな顔はしなかった。ただ、その想いをしっかり胸に抱え、まっすぐに和夢を見上げる。
「だから……高坂さん、お願いです。わたしに、レジェンドレコード、教えてください」
和夢は、そのまっすぐさと、少しだけ傷ついた強がりの混ざった笑顔に、胸がぎゅっとなるのを感じた。
「……わかったよ。僕でよければ、力になる。沙良さんが姉様に胸を張って言えるくらい、ちゃんと覚えよう」
「はいっ!」
ぱっと咲いた笑顔は、やっぱりどこか寂しげで、でも強く、眩しかった。
カードキャッスルの店内は、平日の午後とあって静かだった。常連客らしき人が数人、ショーケースを覗いたりデッキの調整をしているくらいだ。
和夢と沙良は、隅の空いたテーブル席に向かい合って座った。
「じゃあ、まずは基本の流れから説明するね。レジェンドレコードは、初めにデッキをシャッフルして――」
和夢が言いかけたところで、沙良が小さく手を挙げた。
「あの……その、ターンの流れなら、すでに覚えています」
「えっ」
「先攻と後攻でのドロールールの違いとか、ライフとレコードの扱い方、フィールドの配置も、全部……それと、主要なキーワード効果もほとんど暗記しました。よくある特例も裁定込みでだいたい覚えてきました」
沙良は静かに、けれど自信を持ってそう口にした。和夢は思わず口をぽかんと開ける。
「え、ええっと……すごいな沙良さん。正直、僕、最初はエレナ先輩にマンツーマンで何時間も教えてもらってたぐらいなのに……」
「ずっと調べてましたから。本も買って、動画も見て、公式のルールブックも何度も読み返して。蓮姉様がやってるゲームですから、わたし、ちゃんと知っておきたかったんです」
沙良は胸元をそっと押さえながら、照れたように笑った。その表情に、和夢は改めて沙良の本気を感じた。
「……ほんとにすごいよ。僕、教えることあるかな……」
「あります!」
沙良はすぐさま身を乗り出し、小さく前のめりになった。その拍子に、少しだけ机の上のカードが揺れる。
「いくら頭でわかっていても、実際にカードを動かしてみないとわからないこともあるって、動画の解説者さんも言ってました。だから、その、私……実際に手を動かしてみたくて……」
「なるほど、じゃあ実戦形式でやってみようか」
和夢は一番回しやすいであろう『エデングリーン』のデッキを取り出す。和夢がデッキを差し出すと、沙良は両手でそれを受け取る。
しかし、カードの束は沙良の小さな手には少し大きいようで、思わずふらつき、数枚がずるっと滑りかけた。
「わっ、ご、ごめんなさい……」
「あっ、大丈夫大丈夫! 最初はみんなそうだよ」
和夢は笑って、落ちかけたカードを押さえる。沙良は少し頬を染めながら、慎重に両手でカードを持ち直した。
「いつも蓮姉様はすごく綺麗にシャフルしていて……わたしも、できるようになりたいんです」
言葉は淡々としていたけれど、その手は少し震えていた。
和夢は沙良のぎこちないシャッフルをじっと見つめながら、胸の奥にじんと温かいものが広がるのを感じた。
「沙良さんはすごく頑張ってると思うよ。大丈夫、きっと蓮先輩にもその想いは伝わるよ!」
「……はい!」
シャッフルし終えたカードを、沙良は少し誇らしげに和夢に返す。まだまだ拙い手つきだけれど、その一生懸命さが伝わってくる。和夢も自身のデッキをシャッフルすると沙良に渡していく。
「じゃあ、軽く試合の流れをやってみようか」
「はい、よろしくお願いします!」
沙良の笑顔は、やっぱり少し寂しげで、でも確かに嬉しそうで――その真剣さと可愛らしさのギャップを見て、和夢は心の中でほっこりしていくのだった。




