第85話:和夢君はエッチさんだ
季節は進み、七月の中頃。すべての試験は終わり、答案もすでに返却されていた。教室には、どこか腑抜けたような、気の抜けた空気が漂っている。和夢も、その空気に飲まれる一人だった。
「…………ふぅ」
今回も特に問題のない成績を収め、和夢は胸を撫で下ろす。だが、ワンテンポ遅れてふと前の席に目を向けると、思わず声をかけた。
「あ、明日香さん、その……」
おずおずと伺うように声をかけると、明日香は無言のまま、くるりと振り向く。そして、じっと和夢の目を見つめ――次の瞬間、体を小さく震わせながら、満開の笑顔を咲かせた。
「――ばっちりだよ、和夢君! テスト期間中、本当にありがとう‼」
そう言って、勢いよく和夢の手をぎゅっと握りしめると、ぶんぶん上下に振る。
その手の温かさに、和夢はくすぐったいような恥ずかしさを覚えながらも、自然と笑顔になった。
「でも、明日香さんが一生懸命頑張ったからですよ!」
「ううん、和夢君の教え方が上手だったからだよ!」
「いえいえ、明日香さんが」
「ううん、和夢君が!」
『………………』
いつの間にか、そんなやりとりがループし、気づけばクラス中の視線がふたりに注がれていた。明日香は、にこやかなまま少しだけ表情を引きつらせ、「あははは~」と照れ笑いを浮かべながら、そっと手を放した。
しばらくして、周囲の視線が離れたのを見計らい、明日香は和夢の耳元にそっと唇を寄せる。
「……それで和夢君。今日の放課後、ちゃんと覚えてるかな?」
耳元に甘い声が落ちた瞬間、和夢はブルッとしたむずがゆさに襲われる。和夢は吐息のくすぐったさをこらえながら答える。
「えっと、バロックで集合ですよね。期末試験の打ち上げでもやるんですか?」
口にしてから、少し前にも同じやりとりをしたことを思い出す。明日香はにっこりと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それももちろんだけど、今日は何て言っても――あれだよ、あれがあるんだよ!」
「あれって……?」
「もっちろん、LRの最新情報生配信だよっ!」
そう言って明日香は和夢だけに見えるように控えめに「ブイ」と指を立てていった。
◆
放課後。
ジリジリと照りつける夏の陽射しに焼かれながら、和夢はカードショップ『バロック』の扉を押し開けた。ひんやりとした空気が肌にまとわりつき、火照った身体を一気に冷ましていく。
「ふぅ〜」
和夢がそう息を漏らすと、じんわりと汗ばんだ額に心地よい涼しさが広がった。ふと奥のテーブルを見つめると、すでにエレナ、蓮、明日香の姿があった。
和夢は暑さを紛らわすように涼しげな夏服に身を包んだ三人を見渡した。白い半袖ブラウスに、淡い青と白のチェックが入ったプリーツスカート。そして胸元には、学年ごとに色分けされたリボンタイが揃えられている。
「和夢くーん、こっちこっち!」
一番に手を振ったのは明日香だった。学年カラーの淡いブルーのリボンは少しゆるめで、第一ボタンも外してラフに着こなしている。その姿は明日香の快活さをいっそう引き立てていた。
「ごきげんよう、和夢さん。今日も暑いですわね」
その隣で、エレナが柔らかな微笑みを浮かべる。きっちりと着こなした制服姿は誰が見ても絵になるほど整っていた。リボンの結び目も寸分の乱れなく、赤いリボンタイが金色の髪によく映えている。
もっとも、周りの目がないバロックの中だからだろうか、彼女の金色のロングヘアは軽くまとめられていて、わずかに汗ばんだうなじがちらりと覗いていた。
「おっ、よーやく来たか、和夢後輩。そろそろ始まっちまうぞ」
最後に声をかけたのは蓮だ。当然ながら制服を着ているのだが、和夢は他の二人とはまた違う印象を受けた。リボンタイも第一ボタンもきちんと留め、着こなしの整いぶりはエレナにも引けを取らない。だが、それ以上に目を引いたのは、その身のこなしだ。
蓮は、汗一つかかず、涼しげな表情を崩すこともなく、無駄のない動きで椅子に腰かけていた。まるで、暑さなど最初から存在しないかのように、姿勢も呼吸も乱れない。冷えた室内の空気に、ごく自然に溶け込んでいるようなその佇まいに、和夢は思わず目を留めた。
三者三様の彼女たちを見ていると、蓮がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべる。
「おっ、どうした和夢後輩~、目つきがちょっといやらしいんじゃねえか~」
「えっ⁉ そ、そんなことは……」
「あら、そうなのですか和夢さん?」
蓮の言葉に乗っかるように、エレナがからかうような声音で微笑む。
エレナはどこか楽し気な顔をすると、すっと椅子から腰を浮かせ、両腕を軽く頭の上で組んで左右に揺らしてみせた。まるでファッション誌のモデルがポーズを決めるように、優雅でどこかお茶目な仕草だった。金色の髪がふわりと揺れ、赤いリボンがその動きに合わせてひらひらと踊る。
予想外のエレナの行動に和夢は思わず目を点にして見つめてしまう。エレナはしばらくすると、じっと見つめられる視線に耐え切れず、テレテレと腕を下ろしていった。
「そ、そんなに見られると恥ずかしいですわ……」
「え、あ、ち、違、すみません!」
実際はエレナの突然の行動に呆気にとられていただけだ。だがそれを証明する術などあるはずがない。和夢は兎にも角にも視線を逸らす。するとそんな和夢の様子を逃さないように、明日香が顔を近づけてくる。明日香はじとーっと和夢の目を覗き込む。そして上目遣いで、口を尖らせるようにして、にやにやと笑う。
「あ~、和夢君エッチさんだ~」
「えっ⁉ ち、ちがっ……!」
明日香はくすくすとわざとらしい笑みを浮かべる。そして小さく手で口元を隠して、いたずらっぽく首をかしげる。
「え~、でも和夢君じーっとエレナさんのこと見てたよ~」
「そ、それは突然のことで驚いただけで、えっと、その…………あぅ」
和夢はとうとう耐えきれず、ぷしゅーっと頭から湯気が立ちそうな勢いで、顔を真っ赤にして俯き込んでしまった。そんな和夢の姿をエレナと明日香はどこか嬉しそうに眺めている。
「……わ、わりぃな和夢後輩」
話を振った蓮本人もまさかこんなことになるとは思っていなかった。蓮は和夢をなだめる様に声をかけると、その小さな背中を労わっていった。




