第56話:息をひそめて、息を合わせて
そのまま廊下を移動すると沙良はうつ伏せに横になる。沙良に習い和夢もうつ伏せになると、庭越しに離れの部屋の様子が見えた。
先にある窓から、蓮が着物を着て静かに茶道の作法をしている姿が見える。風に揺れる木々の葉の音が心地よく、庭越しに漂う静けさの中で、蓮の動きだけがまるで時間を止めたかのように際立っていた。
和夢は蓮がお茶を点てている姿を見て、驚きと感心の入り混じった表情を浮かべる。庭越しに見る蓮の姿はすべて無駄なく、緩急のつけ方が見事で、まるで流れる水のように心地よかった。
「でもこの雰囲気……どこかで……いや、まさか……そうか! カードをしてる時の蓮先輩だ‼」
小さく息を呑み、和夢の目が見開かれる。
あの気迫、あの集中。普段は猫背で人との距離をとるような彼女が、カードバトルの場に立つときだけは誰よりも凛とした姿勢で向き合う。一本の芯が通ったような、美しく、妥協のない立ち姿。
それが今、目の前にあった。茶道の所作に溶け込むように、緩やかでいて寸分の乱れもない動き。流れる水のようで、同時に刃のような緊張感すら漂わせる。
和夢は、まるで秘密を見つけたように胸が高鳴るのを感じた。蓮の強さの裏に、こんな世界があったんだ。彼女を形づくる静謐な時間と、積み重ねてきた日々。その一端にそっと触れられたような気がして、心が温かくなった。
「ふふん、今日は特別ですからね。感謝してくださいね、高坂さん」
得意げに鼻を鳴らす沙良の横顔に、和夢は思わず笑みをこぼす。
「うん、本当にありがとう、沙良ちゃん」
その言葉には、心からの感謝と敬意が込められていた。
二人は黙って頷き合い、再び目を蓮へと戻す。
淡い光が射す庭の向こう。静寂を湛えたその空間に、蓮の存在だけがゆっくりと浮かび上がっていく。ひとつひとつの所作がまるで儀式のように神聖で、目を離すのが惜しかった。
まるで芝居の幕が上がったかのように――二人は息をひそめ、最後の一手を打つまで、じっと蓮の姿を見守り続けた。
◆
「…………何で二人共息があがってるんだ?」
客室の扉を開けた蓮が、ぜいぜいと肩で息をする和夢と沙良の姿を見て目を丸くした。二人の様子に気圧されたのか、戸口の影に一歩引きそうになる。
「ちょ、ちょっと駆けっこをしてただけだよね沙良ちゃん」
「ええ、そうですね高坂さん」
互いに顔を見合わせ、無言の共犯者のような笑みを浮かべて――ガツン! と拳をぶつけ合う。なぜそんな呼吸になるのか説明になっていないことは明白だが、本人たちはそれで満足らしい。
蓮は、あきれたように小さく首を振ると、「いったい何なんやら」と呟きながら、静かに羊羹を机に置いた。
「ろくに説明も出来なくて悪かったな和夢後輩」
「いえ、全然。でも商店街で蓮先輩を見た時は本当に驚きましたよ」
和夢は息を整えつつ、改めて蓮の姿を見つめる。着物を纏い、髪も整えられ、まるで別人のように整った佇まい。
だが蓮はそんな視線に気づいたのか、ふっとため息をついて小さく肩をすくめた。
「あたしは背格好もないしあんまし似合ってねえだろ。大丈夫、それはあたしが一番分かってるからさ」
どこか突き放すように言いながらも、その声の端にはわずかな照れと自嘲が混じっている。
しかし――和夢と沙良は、瞬間的に顔を見合わせ、同時に「は?」とでも言いたげに眉をひそめた。まるで不可解な言語を聞いたかのような目で、二人は一斉に蓮を見つめる。
「何を言ってるんですか蓮先輩??」
「何言ってるの蓮姉さま??」
否定ではない。全力のツッコミだった。
まったくもって納得がいかないとばかりに、二人は表情豊かに眉を上げて、真剣に返す。
「蓮先輩の着物姿、物凄くカッコいいですよ。蓮先輩って普段から大人っぽい雰囲気が凄いですけど、今日はいつにも増して年上オーラが凄かったです」
「それに蓮姉さまがお茶を点てているときの姿は誰よりも美しいんですから!」
沙良はそのまま、蓮の隣にぴたりと座り込む。小動物のように瞳を輝かせ、尊敬と憧れが溶け合った声音で言葉を紡ぐ。
「背筋がすっと伸びていて、動作のひとつひとつが洗練されていて……見ているだけで感動します!」
和夢も堪らず、うんうんと大きく頷きながら言葉を重ねた。
「それで言うと、カードゲームをしてるときの蓮先輩も本当に美しいですよ! 普段は猫背気味だけど、ゲームを始めた途端に背筋がピンと伸びて、あの集中力がすごい。カードを引いたり、配置したりする動作も、演武を見ているかのように綺麗です!」
二人の賞賛は止まることを知らなかった。まるで堰を切ったように、次々と言葉が溢れ出す。
蓮の頬がほんのりと朱に染まり、耳の先まで赤くなる。ついには片手をぶんぶんと振り回し、明らかに照れ隠しの動きを見せた。
「あ、あー、もうわかった、わかったから! そんな褒めなくていいから‼」
「でも、本当なんですよ蓮姉さま!」
「そうですよ蓮先輩!」
さらなる追撃を受け、蓮はついに顔を両手で覆い隠してしまう。
「……いや、もう、本当にやめてくれ」
声がこもっているのは、顔を隠しているせいだけじゃない。
その仕草の向こうにいる蓮の、照れと戸惑いと、ちょっとだけくすぐったい喜びの混じった心が、ありありと伝わってくるようだった。
だが、そんな蓮の悲鳴もむなしく、二人の熱弁はしばらくのあいだ止まることはなかった。
◆
ようやく熱のこもった褒め殺しタイムが収束し、和夢は出された羊羹をひと口、ふた口と味わって口に運ぶ。甘さがじんわりと舌に広がり、落ち着きを取り戻していく。
蓮がちらりと時計を見ると、何か思い出したように顔を上げ、和夢に視線を向けた。
「四時までまだ時間があるな。あたしは客の見送りの付き添いをしなくちゃいけえねえからな。今日は無理だけどすぐに向かう感じか?」
「えっ? 四時って何の話でしょうか??」
一瞬、和夢の頭の上に疑問符が浮かぶ。蓮はそれに小さく肩をすくめながら言葉を重ねた。
「あれ? 環境の勉強でカードキャッスルの大会でも見に行くんじゃねえのか?」
その一言に、和夢はハッと背筋を伸ばした。
「そ、そうでした! なんかいろんなことがあってすっかり忘れてました。というか、四時から大会があるんですね⁉」
蓮の着物姿に心を奪われ、沙良との交流に笑い、日常の濃密さに埋もれていたことを、ようやく思い出す。
「わりいな。あたしの事情に巻き込んじまって」
「いえいえ、むしろ大会の時間を教えていただきありがとうございます。それにまだ時間は十分すぎるほど余裕がありますしね」
「それでだ……どうする? まだ大会まで時間はあるけど、もし和夢後輩が大丈夫ならさ」
そう言いながら、蓮はさっと懐から取り出したデッキを机の上に置く。その動作には、どこか試すような、それでいて楽しみにしている気配が滲んでいた。
「和夢後輩のことだ。せっかく覚えた環境デッキを回したくて仕方ねえんだろ。二、三試合くらいなら付き合えるぞ」
「――――さっすが蓮先輩! 頭の回転が早いだけでなく本当に周りのことも見えてますね‼」
「流石です蓮姉さま! 沙良は蓮姉さまの妹で鼻が高いです‼」
再び称賛の嵐が吹き荒れるが、蓮は今度こそ乗らない。片手を上げて遮るように言い放った。
「だからそういうのはもういいって。それで返答は」
「もちろんよろしくお願いします!」
その返事とともに、和夢はバッグに手を伸ばす。
いくつかあるデッキケースの中から、ほんの少しだけ悩んで、ひとつを選び取った。
(せっかくだから明日香さんとバトルしたのとは違うデッキにしておこうかな)
彼の目に、微かな闘志の光が宿る。互いにデッキを交換し、丁寧にシャッフルしていくその動作にも、さっきまでの冗談めいた雰囲気はもうない。空気が、変わった。
「和夢後輩、この一週間の頑張り見せてもらうぞ」
「――はいっ! よろしくお願いします‼」
二人は初期手札を構えた。
そして、その熱き対戦の証人となるべく、沙良は少し身を乗り出して見守る。
客室の空気が静かに張り詰め、カードが織りなす物語が、また新たに幕を開けた。




