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第32話:『楽しい』と『本気』のあいだで

 木曜日の放課後、和夢は学校から帰宅すると、制服を着替えることもなく、そのままベッドに倒れ込んだ。


 重力に身を任せるように沈み込むと、天井をじっと見つめる。目に映るのは、見慣れた部屋の天井。ただ、それが今日はやけに遠く、ぼんやりとした雲のように霞んで見えた。


(……三人とも、大会の準備で忙しいだろうし、邪魔しちゃ悪いよな)


 独り言のような思考が、頭の中を低く流れていく。そう、ここ三日間、和夢はいつものようにバロックへ足を運んでいなかった。


 ほぼ毎日通っていたはずの場所。それなのに、どこか身体が重く、結果的に顔を出さずにいた。


 理由は――自分でもよく分からなかった。ただ、何かが胸に引っかかっていた。その何かに名前をつけることができず、ずっと動けずにいた。


 ただ楽しければいい。そう思っていた。けれど。


(やっぱり……エレナ先輩の言ってたことが、頭から離れないんだよな……)


 思い返すのは、あの真剣な瞳。強さと覚悟を持った言葉。そのひとつひとつが、和夢の中で、小さな楔として残り続けていた。


 カードゲームをするのは楽しい。自分の好きなカードで戦い、仲間たちと笑い合える時間は宝物だった。けれど、それだけでいいのか――。三人がそれぞれ明確な目標を持ち、自らの意思で努力を積み重ねている姿が、まぶしすぎて、同時にどこか距離を感じてしまう。


(僕はブラックブレイズドラゴンが好きで、三人が考えてくれたデッキで遊んでいるだけ……エレナ先輩みたいに、勝つことに本気でこだわったことなんてなかった。勝ち負けよりも、ただカードゲームができればそれでいいって、ずっと思ってた。でも、それでいいのかな?)


 問いかけの答えは、すぐには見つからない。ただ、じわじわと心の奥でモヤが広がっていく。答えが出せないまま、空白がゆっくりと胸を締めつけてくる。


 過去の対戦を思い返す。三人と過ごした時間を、ひとつひとつ脳裏に浮かべる。その全てが楽しかった。でも――。


(だけど、楽しいだけじゃなくてもっと真剣にならなくちゃ、三人みたいに僕も何か目標を持たないと)


 その想いが強くなるほど、同時に自分が立っている場所が見えなくなっていくようだった。自分が何をしたいのか、どうなりたいのか。それすら見えず、ただ心の中で黒い靄が渦を巻く。


(僕は、大好きなカードゲームを始めることが出来て――それでどうしたいんだろう?)


 ふと、ベッドの上で身体を少し丸めて目を閉じる。心の中に問いかけても、返ってくるのは沈黙ばかり。気づけば長いため息をついていた。


(エレナ先輩、蓮先輩、明日香さん……みんな、カードに対してすごく真剣だ。だからこそ、あんなに楽しそうに、そして自信を持って戦っているんだろうな。僕はどうなんだろう……)


 思考がぐるぐると同じところを回る。「好きなカードで勝つことの意味」。そのフレーズが、心のどこかに引っかかって離れない。


(僕にとっての「理由」って、なんなんだろう?)


 目を閉じたまま、意識が内側へ沈んでいくような感覚。心がふわふわと浮かび、まるで黒い靄に包まれていくような気がした。その瞬間。


 ――――ピンポーン。


 家のチャイムが響いた。和夢はびくりと肩を揺らす。親が何かを送ってきたのかと最初は思ったが、すぐに首を傾げる。配達の予定などなかったはずだ。


 とにかく玄関へ向かうと、慎重にドアノブを回した。


「すみません、お待たせしました!」


 そう声をかけて扉を開ける。誰もいない――と思った次の瞬間、視線を少し下ろした先に、見覚えのある姿があった。


「蓮先輩……?」


 そこに立っていたのは蓮だった。猫背気味の姿勢は普段どおりだが、その瞳は和夢の顔をしっかりと捉えていた。


「よっ、いきなり押しかけて悪いな」


「いえ全然、特に何かしてたわけじゃないですし」


「そうか…………じゃあどうして最近はバロックに来ないんだ」


「――――あっ⁉」


 鋭く、でもどこか優しく突き刺さるような一言に、和夢はしまったと思わず口元を押さえた。


 どう言い訳すればいいか迷っていると、蓮はじっとこちらを見つめていた。その眉がわずかに寄っている。心配している、それが痛いほど伝わってくる。


「とりあえず上がってもいいか?」


「えっ、あの、その…………」


 二人きりで、しかもこのタイミングで部屋に入られるのは、正直心の準備ができていなかった。断る口実を探していると、蓮がさらりと言葉を重ねる。


「確かエレナと明日香とはデートしたんだよな」


「いや、あれはデートというか、ただ出かけただけといいますか」


「どっちも一緒だ。だからさ、あたしともデートしてもらうぞ。エレナや明日香風に言えば、おうちデートってやつかな。ほら、決定。それじゃあ中に入らせてもらうぞ~」


 にこりともせず、冗談とも本気ともつかないトーンでそう言うと、蓮はするりと玄関を通り抜けた。その後ろ姿を見つめながら、和夢は咄嗟に手を伸ばそうとして――やめた。


 無理に引き止めることはできた。だけど、それをしなかったのは、どうしてだろうか。


 和夢はそっと玄関の扉を閉め、蓮の後を追って静かに歩き出した。

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