第109話:熱と静けさの間で
冷房の効いた部屋が、やけに遠く感じる。
視界が滲んでいるのは熱のせいか、疲労のせいか。和夢は咳をひとつこぼしながらスマホを手に取った。
(完全にキャッスルの帰り道で雨に降られたせいだな)
カードは無事だったが、すぐにシャワーを浴びるべきだった。
(通話は……ちょっと無理だな。喉がヒリヒリして、まともに声が出せそうにない)
和夢はぼやけた視界でライソを開く。今日バロックで遊ぶはずだったエレナには、ひと言だけでも伝えなければいけない。
(すみません。熱が出てしまって今日は行けそうにありません)
打ち終えた指が、タッチパネルの上でぐったりと沈んでいく。スマホを伏せて、和夢は浅く目を閉じた。
このまま眠ってしまえたら、きっと楽なのに――そう思っても、喉が痛くて、咳が止まらなくて、息が浅く、ただただ、苦しい。
(風邪って、今まで全然ひいたことなかったんだけどな……)
そのときだった。ふと、過去の記憶がよみがえった。
実家。幼い頃の夏。同じように熱を出して寝込んだ日。布団の横には、母親がいた。けれどそれはあまり優しい記憶ではなかった。
「塾、今週は三日も休んでるのよ。来週には戻れるようにしないと」
看病はしてくれた。食事も、薬も、冷えピタも、タオルの取り替えも。でもそれは、心配よりも焦りだったのかもしれない。
小学生の頃から、友達と遊ぶことは禁止されていた。遊びより、勉強。ゲームより、塾。
「子ども時代は、将来のために使いなさい」――そんな口癖を、何度も聞かされた。
それでも、あの時の母は、普段より少しだけ優しくしてくれた気がする。
温かいおかゆの味。苦い薬。そして、ほんの一瞬だけ握ってくれた手のぬくもり。
それが勉学の為とはいえ――あの頃の自分には、間違いなく救いだった。
厳しい両親だった。だが良いも悪いも自分を第一に考えてくれていた。今ならそう理解できる。
一人暮らしの部屋に、熱のこもった呼吸音だけが響いている。
「……ひとりって、しんどいな」
一人暮らしを始めて、今までそれなりに上手く生活を出来ていたと思う。だがひとたび崩れてしまうと、こうも脆いとは思わなかった。
家にはスポーツ飲料も氷枕もない。冷凍食品の買い置きはまだあるが、あまり食欲はわかなかった。
頭はぼんやりして、身体は思うように動かず、時間だけがじわじわと進んでいく。
頭が熱でうなされるなか、ふと、チャイムの音が鳴った。
「……ん……誰……?」
反応が遅れる。二度、三度、チャイムが鳴ったあと、玄関のドア越しに、聞き覚えのある声がした。
「和夢さん? わたくし、エレナですわ! ご無事ですか?」
その言葉で、和夢は反射的に動いた。体を支えながら、壁づたいに立ち上がる。玄関までの数メートルが、ひどく長く感じられる。
ふらつく脚でようやくドアに手をかける。鍵を外し、重たい扉をゆっくりと開けた。
そこにはエレナがいた。
きっと走ってここまで来たのだろう。金色の髪は少し乱れ、涼しげなワンピースの襟元には、うっすらと汗がにじんでいる。
エレナは和夢の顔を見た瞬間、その表情を凍らせた。
「まぁ……っ!」
エレナは素早く一歩を踏み出し、和夢の額に手を当てた。その手のひらから伝わった熱に、彼女の瞳が大きく見開かれる。
「……すごい熱!」
しばらく絶句したあと、エレナは顔を近づけて、真剣な表情で言った。
「無理にお出迎えさせしまって申し訳ありません。立っているのもやっとでしょう? さあ、お部屋へ戻りましょう。支えますわ」
そう言って和夢の腕を軽く取る。細くしなやかな指が、意外なほどしっかりと彼を支えてくれた。
そのまま、和夢はエレナに導かれながら寝室へ戻る。ベッドに倒れ込むように身体を横たえた直後、彼女は素早く持参のリュックからタオルと水を取り出した。
「ここに来る前に一通り揃えてきました。スポーツドリンクと冷たいお水、それに冷えピタも二箱ほどあります。お薬も持ってまいりましたけれど……今はまず、水分補給ですわね」
エレナは冷えピタを和夢の額にのせた。じわりと冷たさが広がり、焼けた肌が少しだけ楽になる。次にグラスにスポーツドリンクを注ぎ、そっと差し出してきた。
「喉が痛いでしょうけれど……少しずつで構いませんわ。無理なさらず、ゆっくりと」
その声音も、所作も、いつもの気高く余裕のあるエレナではなく、ただ目の前の和夢のことだけを案じている少女のものだった。和夢はそんな彼女を見て申し訳なく俯く。
「……今日はすみません、エレナ先輩」
「そんな、謝ることなんて一つもございませんわ」
「……でも、正直……心細かったんで……来てくれて……嬉しかったです」
体調が悪く頭も回らない。故に和夢は心の本音を真っ直ぐ言葉にする。
和夢のかすれた声を聞くと、エレナは小さく微笑んだ。
「当然のことですわ……和夢さんが困っているのに、黙っていられるわけがございませんもの」
その微笑みは、熱に浮かされた意識の中でも、やけに鮮やかに見えた。
◆
ふと気がつくと、視界が薄暗かった。
窓から差し込む光がほんの少し傾いている。時計を見る余裕はないが、どうやら少し眠っていたらしい。身体の重さは相変わらずだが、意識だけは先ほどより幾分はっきりしていた。
その時、台所の方から小さな音が聞こえてきた。包丁とまな板が打ち合う、遠慮がちな音。やや不規則で、ぎこちない手つきが目に浮かぶ。
和夢は寝返りを打つようにして首を傾け、力なく声を出した。
「……エレナ先輩……?」
すると、すぐに返事がある。静かな音にかぶさらないよう、やや小声で。
「あら、起こしてしまいましたかしら。申し訳ありません、和夢さん。わたくし、少しだけ台所をお借りしていますの」
エレナはどこか気恥ずかしそうに続ける。
「ちょっと……調理に、手こずってしまって……慣れていないものですから」
音はまた少し続き、やがて電気ケトルの湯が沸く音、コンロの火がふっと吹かれる音、食器が軽くぶつかる音へと変わっていく。
和夢はベッドの中で、ぼんやりと天井を見つめながらその音に耳を傾けていた。
(わざわざ、僕のために……)
頭の奥がまだぼんやりしている。けれど、胸の奥のあたたかさは、風邪の熱とは別のものだとわかる。
しばらくして、ふわりと部屋に優しい香りが満ちた。米の炊ける匂いに、生姜の風味がほんのり混じっている。
「お待たせしましたわ。わたくしなりにはうまくできたと思いますわ」
トレーを両手に持って、エレナが和夢のもとに戻ってきた。白いおかゆが湯気を立てたまま、陶器の器に注がれている。
エレナの頬には、さきほどよりもはっきりと汗がにじんでいた。おそらく換気扇の前でも、火元の熱に包まれていたのだろう。和夢はベッドから降りるとテーブルの前に座る。
「すみません、こんな……せっかくの休日なのに」
「なにをおっしゃいますの。和夢さんがちゃんと食べて、元気になることが、わたくしにとっていちばん有意義な休日の使い方ですわ」
どこか不器用な笑顔を見せて、エレナはスプーンを手に取る。
「はい、和夢さん。あーん」
普段の和夢なら気恥ずかしさで頬を染めていただろう。だが今の和夢はエレナの好意に甘えるがままに口を開いた。
あたたかなおかゆは、口に含んだ瞬間にじんわりとした優しさが広がる。
「……おいしい、です」
潰れた声でそう告げると、エレナは安心したように表情を緩める。
「正直、かなり手間取ってしまいましたけど……そう言っていただけて一安心ですわ」
彼女はそっと胸に手を当てて、安堵の吐息を漏らす。その仕草は、どこかいつもの凛とした姿ではなく、年相応の、どこにでもいる女の子のようだった。
「本当に……すっごく、おいしいです」
「ふふ……ありがとうございます。和夢さんがそう言ってくださるなら、すべて報われますわ。和夢さん、はい、あーん」
「あーん」
そうして、ひとさじ、またひとさじと、おかゆが和夢の口に運ばれていく。
エレナの動作はぎこちないながらも丁寧で、どこか必死さがにじんでいた。それが妙に胸に沁みて、和夢は何度も「おいしい」と繰り返した。
言葉で礼を伝えることしかできないのが、もどかしいくらいだった。




