蜻蛉
去年の秋。父方の祖母が亡くなった。しかし、孫の私は大好きであったおばあちゃんのお葬式には行く事ができなかった。
私の物心がついた頃。父方の祖父は既に亡くなっていた。さらに母は19歳の時に両親に勘当されたと聞いた。何でも母方の祖父母が父との結婚をどうしても認めなかったそうで駆け落ち同然で家を出たのだという。それ以降一切の連絡を取っていないらしい。母方の祖父母は私が産まれた事すら知るはずもなく、今現在生きているかどうかも分からない。写真では見た事があるが、私は何の愛着も無く、会いたいと思った事も無かった。
だからかどうか分からないが父方のおばあちゃんは孫娘である私を溺愛しており私はとても甘やかされ、私もそんな優しいおばあちゃんが大好きだった。私は都会住みでおばあちゃんは田舎暮らし。毎年の盆正月に電車で3時間かけて父の実家であるおばあちゃんの家にまで行き、お泊りしてべったりおばあちゃんに甘えるのが年2回の恒例行事となっていた。いつもは厳格で怖い父ではあったが、おばあちゃんの前では息子(当たり前)であり、そんなおばあちゃんと仲の良い私がおばあちゃんの家では一番発言力を持っていたのだ。
両親はおばあちゃんが田舎で独り暮らしをしている事を心配していた。部屋は余っているのだから都会で一緒に住もうとおばあちゃんに提案しており、私もそれに大賛成していた。しかしおばあちゃんは頑なに田舎の家から離れようとしなかった。
私が中学3年のお盆。おばあちゃんの家に行く直前の段階になって両親に外せない用事が入る。おばあちゃんの家に行けなくなりそうになったが、私は両親と交渉し一人でおばあちゃんの家に行く権利を勝ち取った。
電車を乗り継ぎ、バスに乗り、随分歩く。そしておばあちゃんの家に着くと、おばあちゃんは家の前で出迎えてくれた。
「いらっしゃい。おっきくなったねぇ。」
中学3年の私の方が背が高くなっていた。久しぶりにおばあちゃんに会えた喜びが溢れる。そして荷を解き、一緒におやつを食べて、冷たい麦茶を飲む。料理をして、食事して、お風呂に入り、布団でお話をしつつ夜更かしをして、、、
家では「受験の年なんだから」と厳しく言われるが、ここには両親がいない。おばあちゃんの家では都会の喧騒や責務から解放されとても楽しい時間を過ごせた。
そして一泊して二日目も私はおばあちゃんについて回り、部活の話。学校の友達の話。気になる男の子の話。受験の話など取り留めの無い話をしていた。おばあちゃんは私の話にしっかりと耳を傾けてくれて、私に寄り添って会話をしてくれていた。
お昼過ぎになり、都会へと帰らないといけない時間が近づく。私は寂しさや名残惜しさを感じていた。お正月は受験がかなり近い事もあり田舎に来れないだろうからだ。残り僅かの時間を縁側でおばあちゃんと一緒に冷たい麦茶を飲み、スイカにかぶりつきながら話をしていた。
「おばあちゃんって田舎に住んでいたい理由でもあるの?」
「そうだねぇ。」
「私は会った事無いけど亡くなったおじいちゃんが住んでた家だから離れたくない…とか?」
「あはは。そんなたいそうなもんじゃないよ。おじいちゃんに関係する理由ではあるんだけどねぇ。」
「う~ん。そうなんだ。教えてよ!おばあちゃん。」
「蜻蛉かね。」
「蜻蛉?」
おばあちゃんが突然、蜻蛉と言ったので私はあの昆虫の蜻蛉かと聞き返す。そしておばあちゃんは言う。
「そう。蜻蛉。この地域に住んでても若い子はもうたぶん知らないかなぁ。この地域には戦国時代から続く蜻蛉への信仰があってねぇ。戦国武将の前田利家をはじめ多くの武将の甲冑に勝ち虫として蜻蛉の絵柄を入れていたのよ。前にしか進まないことから不退転の決意を示してたんだって。
ふふふ。
でも実際はバックをしている蜻蛉をよぉさん見かけるけどねぇ。
あと、それ以外で言ってもほら。蜻蛉って太古の2億年前からずっとこの地球にいたんでしょ。人間の大大大先輩よね。しかも幼体は水棲のエラ呼吸、成体で肺呼吸で空を飛べる。万能な感じが凄いわぁ。
そうそう、英語だとドラゴンフライって言って龍が名前に入ってるのよ。」
「え?そうだったんだ。おばあちゃん物知り~。蜻蛉って凄いね!」
「そうなのよ。しかも蜻蛉は幼生のヤゴでも成体でも生涯肉食でスズメバチを食べちゃう事だってあるのよ。だからか狩猟の信仰の対象としてもこの辺りではずっと崇められているのよ。この地域には秋に一面の蜻蛉を見る事ができて毎年楽しみにしてるの。でも都会に行っちゃったら蜻蛉なんて見かけないでしょう?」
「うーん。確かにちょっと郊外に行かないと蜻蛉って見ないかな。じゃ、おばあちゃんにも蜻蛉への信仰があって蜻蛉が好きなんだね。」
「ううん。別に信仰しているとか好きだとか、そういった事じゃないのよ。」
「え、、、そうなの?どういう事?」
「…うーん。もう中学3年生っていったら大人さんだしね。こっそり話しちゃうわね。…お父さんお母さんには内緒よ。」
「ふふ。分かった。内緒にするね。」
「うん。私の亡くなった旦那。父さまが関係する話なんだけどね。それはそれはひどい男だったのよ。酒やギャンブルはまだ許せたけど、浮気性なのは堪忍ならなかったわ。でもどれだけ父さまに注意しても懇願しても反省もなくあっけらかんとして直してもらえなかったの。うるさい!って何度も叩かれたわ。亡くなった原因もどこの馬の骨とも知れない若い女子と崖から一緒に身を投げて心中したからよ。お葬式での私の肩身の狭さったら、惨めさったら、もうね…。酷く辛いもんだったわ。
それでね。その翌日の事よ。仏壇に父さまの骨壺を入れていて、仏間からふと外を見るとね。交尾する体勢で2匹の蜻蛉がタンデムで飛んでいたのが見えたの。私は咄嗟に思ったわ!この2匹は心中した父さまとそれに集っていた阿婆擦れで汚らわしい蝿だって!すぐにその2匹を捕まえたわ。古典的な方法よ。指をこうやってくるくる回して近づいていって、翅をパって捕まえてね。
その場でまず雌の翅を毟って飛べなくしたわ。雄の蜻蛉は、父さまの残してた煙草に火をつけて、翅から焼いて飛べなくしてから、その後に全身100箇所ぐらい煙草を押し付けてやったの。フライなだけに油で揚げたかったけど、鍋が汚れちゃうじゃない?だから焼くだけにしたわ。その一部始終を雌に見せた後で、雌の方は裁ち鋏で頭から遠い腹から胸にかけて2mm間隔で切断してやったわ。昆虫って凄いのよね。それでもまだどっちも生きてるのよ。まぁその時はそれで胸がす~っとしたから2匹とも庭に捨ててやったわ。翌朝に庭を見たら蟻が群がってたからざまぁ見ろよね。
だけど、、、
やっぱりしばらくするとまた思い出してムカムカしてくるじゃない?庭に出ると蜻蛉を見かけるんだもの。だから私は毎年秋になると私だけの祭りを開催しているの。うふふ。褒められた事じゃないけどね。この蜻蛉の多い地域で蜻蛉を不倶戴天の父さまと阿婆擦れの蝿に見立てて復讐するってお祭り。だって父さまの煙草がまだ何百本も残ってるんだもの。本当は蜻蛉になってからじゃなくて、生前に腹を割って話したかったのだけれどもねぇ。
あなたも私の血を引いてるんだから…この気持ち分かってくれるでしょぉ?」
帰宅の途につく私を家の前で見送りつつおばあちゃんは、私の遥か後方で歌を歌っていた。
「蜻蛉の眼鏡は赤色めがね♪おてんとぉさぁまと飛んだから~♪飛ぉ~んだぁ~かぁ~らぁ~♪」
助詞が1文字違うその歌と声。
おばあちゃんはもう亡くなっている。
しかし私の肌に生涯残り続けるのだろう。