疫病神と恋する男
その日の朝川裕翔はとにかくツいていなかった。
完成間近だったカラーイラストの上にコーヒーをぶちかまし、手違いで来週だと伝えていた締め切りは実は明後日だったと担当から悲報が入った。お気に入りのカップは割ってしまったし、おまけにその破片で足を切ってしまった。
こう自分が不調に見舞われる時、朝川の頭の上をとある予感がよぎっていく。
やつだ、やつが来る。
背筋を流れる脂汗の嫌な感触に朝川がぎゅっと歯を食いしばったのと同時に、無情にもインターホンの音が鳴り響いた。
「おーい朝川、遊びにきたぞ」
間延びした、それでいて良く通るやたら高貴な声。
突然の疫病神の来訪に、朝川は反射的に机の下に体を隠した。
おい、聞いてない、聞いてないぞ!なんでこんな時に!
「朝川、外は寒いぞ。いれてくれないか?」
「……」
「……留守か。まぁいい、合鍵を使うとするか……」
いや!なんで!そんなもんがあるんだよ!
最悪の驚きとともに凡庸な金属の扉が開く音が聞こえる。
ああ全く、こいつに勝てたためしなんかない。
降参の意を示すしかないと判断した朝川は、両手を高く上げてしぶしぶ玄関に向かった。
「何だ朝川、留守かと思ったぞ」
「ついさっきまで留守だったはずなんだよ。いつ合鍵なんて作ったんだ?」
朝川の質問に、疫病神は微笑みを浮かべるだけで答えようともしない。
朝川はこの美しい顔にめっぽう弱かった。
帳真夜は、朝川の大学時代からの友人だった。
地方の旧家から一人で上京してきたという身の上が同じだったせいか、会話のテンポが妙に合い、その付き合いがずるずる続いて今に至る。
しかし気が合うとはいえ、二人の生活能力には天と地ほどの差があった。
大抵の家事はそつなくこなせる朝川とは違って、帳の方は一人で電子レンジを正しく使えるかさえ定かではなかった。
お互いイラストレーターと小説家なんていう不規則極まりない生活を送っているが、暖かい飯が恋しいとかなんとかいって、帳はこうやって定期的に朝川宅に転がり込んでくる。
「で、今日の夕餉の献立は何だ?」
「当然食ってくつもりなのか……まぁ別にいいけど」
小さくため息をついてから、朝川はふと考え込んだ。
……今日のメニューなんてまだ考えてすらいない!
いつも有り合わせでなんとかしてしまうせいで、まともにレシピのある料理なんてご無沙汰もいいところだった。しかし今日ばかりはそうもいかない。今日ばかりは、いつものような適当な料理をつくれない理由があった。
朝川裕翔は、帳真夜に恋をしているのである。
これは長い長い恋煩いだった。大学の頃から、自分とはまた違った意味で奔放な帳に憧れを抱いていた。
高貴で、かっこよくて、美しい帳。多少の葛藤はあったものの、諦めてしまえばあっという間だった。
いつもはいいのだ。帳は自宅を出るときに決まって連絡をいれてくる。
何故かそれは間違いなく朝川の調子がすこぶる悪い日であり、元凶はこいつなのではないかと朝川は密かに思っていた。なんにせよ帳が来るとわかってからそれなりのブランクがあるため、朝川もそれなりの準備をもって迎えられる。
しかし今回はあまりに唐突すぎた。重い足取りで台所に向かい、冷蔵庫を開ける。案の定中はほとんど空。締切明けにむさぼり食べようと思っていたお気に入りのちょっとお高いサラミしか見当たらない。ああもう、徹頭徹尾最悪だ!
冷蔵庫の隣の棚を横目で見る。仕方ない、今日はこの手しかあるまい。
「すまん帳……今日はボンカレーでもいいか」
なら帰る、と言われるのを覚悟してそう声をかけた。
今までこれだけ餌付けしてきたのだ。今日くらい期待に添えずに帰られたところで何も変わるまい。半ば自分に言い聞かせるように朝川はそう考えていた。
だからこそ、帳が微笑みながら「おおそうか、楽しみだな」と答えた時、「おおそうか気をつけて……食べるのか!?」と、本人としても不満の残る月並みなノリ突っ込みをしてしまったのである。
驚いて口をあんぐり開けている朝川を尻目に、この美しい男はただにこにことこちらを見ている。
目の前がちかちかする。相手が発光しているわけでもないのに。
別室にある浮かれて買った二〇〇一年サングラスが欲しいと朝川は思った。
帳のことはよく分からない。長い付き合いになっても、それは変わらなかった。
今回もまったく想定外だと毒づきつつ、胸がほかほかと温まるのを朝川は止められなかった。
まったく、しょうのないやつめ。にやけそうになる頬を必死に引き締めつつ、朝川は帳の皿にとっておきのサラミを5切れものせてしまった。我ながら恐ろしい盲目ぶりだと思う。
「またせたな」
皿をテーブルに乗せると、帳はやっぱり花のように笑う。
まったく美しい疫病神だな、と朝川は小さくため息をついた。
ちゃぶ台に腰をおろし、向かい合わせになる。
手を合わせた瞬間にちらりと帳の方を見ると、彼はいつもと何ら変わらず目をつむっている。二人で息を合わせて挨拶をするのもある意味習慣だ。野郎二人のがさつな食事にしては見上げた礼儀の精神だと思う。
それも済んで、いつもの通り食事が始まる。
舌の肥えた彼にはボンカレーはあまりにお粗末なのではないかと心配していたが、杞憂に過ぎなかったようだった。美味しそうにカレーを頬張る帳に、思わずふっと笑みがこぼれる。
意外にも意地汚いところのある帳は、何か食べている最中は周りが見えなくなるらしい。食事中はこちらが黙っていると二人の食卓は無言のうちに終わってしまう。
長い睫毛の下、凡庸なLED電球の明かりで済んだ瞳が揺れている。
その様子をただぼんやりと眺める、それはそれで悪くないのだが、朝川は彼との時間をなるべく大切にしたかった。せっかく一緒にいるのに、食べ物ばかりに構われたのでは癪にさわる。福神漬けを加えるついでに、浅川は帳にさりげなく話しかけた。
「お前さんもそれなりに稼いでるだろ、お手伝いさんでも雇えば良いのに」
ほんとはこんなこと、聞きたくないいんだけどなぁ。
揺れる帳の瞳の中の海につられて、朝川の心も女々しく揺れる。帳は鈍感だから、きっと大丈夫。
問われた帳本人は、一度目をぱちくりさせた。
「いやぁ、いるにはいるんだがなぁ」
帳の返答に朝川は思わず箸を止める。
「いるってお前……じゃあわざわざ俺の家に来なくてもあったかい飯にありつけるだろ!」
声を荒げる朝川に、帳はなんでそんなこと聞くんだというように素っ頓狂な声で答えた。
「いや、俺はお前と暖かい飯が食べたくてな」
わお。
ぽかんと大口を開けた間抜け顔が笑えてくるくらいに熱くなるのを、まるで他人事のように朝川は感じた。
やめてくれ、俺は自分が驚かされると本当にまいってしまう。
もっと、好きになってしまうではないか。
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「おお、あったあった」
朝川が皿を台所に運んでいる間、帳はコンセントの金具を見つけて中身を取り出していた。
盗聴器と小型カメラ。最近どうにも調子が悪かったから、取り替えどきだと考えていたのだ。
「かわいそうに……綺麗な足に傷をつくって」
朝川には聞こえないような小さな声で帳はそう呟いた。
最悪な日の最悪な出来事は、自分で上塗りしなくてはならない。
帳は自分の鞄から、新しいカメラをそっと取り出した。




