『或る旅人』
昔、ある男が大きな目的のために旅をしていた。
途中で旅銀が尽き、飲み水もままならず、腹はものすごく減っていた。男は歩き続けるしかなかった。はるか彼方にある都にたどり着きたかったのだ。
石だらけの長い坂を上っていると、ふと男の目の前に、一匹のウサギが飛び出して来た。
反射的に、男は拳銃で狙いをつけてそのウサギを撃っていた。ウサギから赤い血が流れるのを見て、男はほっとしていた。火を起こして、皮を剥ぎ、焼けたウサギの肉にかぶりついた。
そこへ、襤褸を着たみすぼらしい老人が通りかかった。やせた、汚らしい老人だった。その目が、男のウサギをじっと見つめている。
「ちょっと、分けてくれないか」
老人は弱々しい声で言った。哀れを誘うような感じがした。
見たところ、老人も飢えているのだろう。
ウサギの肉は、少しなら、分けてやれそうなくらい残っている。
しかし、男は老人には答えず肉をむしゃむしゃと食べてしまった。
これは自分が見つけた肉である。老人はそれを何の代償もなしに食べようとしている。
そんなのは、おかしい。肉を見つけられない老人が悪いのである。
久しぶりに食べるウサギの肉はうまかった。男は火を消して、黙って立ち去ろうとした。
老人の眼にみるみると怒りが宿っていくのが見て取れた。
老人は汚い声で叫んだ。
「薄情者。少し分けてくれればよかったのに。少しだけでよかったのに」
男は聞く耳を持たなかった。背を向けて歩き出した。肉を食べたおかげで体は何となく元気である。老人は座り込んで、男に向かってか何か知らないが、喚き散らしている。
何もしない者は馬鹿である。ウサギを探しに行けばよいのに、文句ばかり声高に叫んでいる。
男は止まらずに坂道を上っていく。そのうち老人の声も聞こえなくなった。
それからある時、男は谷間に差し掛かった。
道が狭く、運悪く男は足を滑らせて谷底へと転がっていった。男は気を失った。
次に目を覚ました時、男は見知らぬ村にいた。
広場のようなところで横になって寝かされている。村人たちに話を聞くと、男は助けられたのだという。思わず男は神に感謝した。不信心な男だったが、その時はそう思った。
と、男から少し離れたところに、担架に乗せられた別の人間が下ろされた。
男はその顔に見覚えがあった、あの老人だった。あの時と同じ格好で、血走った目を見開いて死んでいた。
村人たちが、飢え死にだと言っているのが聞こえた。
同じ命の危機でも、男は二度も助けられた。偶然飛び出してきたウサギと、通りかかった村人によって。対して、この老人には何の助けもなかった。老人の目の前にはウサギは飛び出してこなかった。
男はしかし、自分が助けなかったせいだとは思わなかった。自分が助けていれば、この老人は助かったのかもしれないとは考えたが、それはあくまで可能性を想像しただけで、自分が助けなかった事が罪であるわけではなかった。男は、旅の途中でも肉を得られるように、拳銃を持っていた。正真正銘命がかかった瞬間に、ウサギをきちんと仕留められるように、拳銃の腕も磨いていた。だから生きているのだ。運が巡ってくるのだ。
かたや、老人は何も持っていなかった。
そんな事を考えながら、男は村人たちの手で、東の方角にある天幕の中へ運ばれていった。足の治療をするのだという。
さて、男が運ばれていったあと、老人の死体が置かれた広場に、二人の商人がやって来た。この二人もまた旅人である。商人のうち一人が、老人の死体に気付くと、やがてそれが誰かわかって、ひと目はばからず泣き出した。
「一体どうしたというのだ」
もう一人が問うと、
「この人はその昔、私財を投げうって俺と家族を救ってくれたのだ。旅の僧侶となったと聞いていたが、まさかこんなところで」
そうしてまた、商人の一人はおいおいと泣くのだった。もう一人はその肩を軽く叩いてやった。
やがて老人の死体を載せた担架が、村人たちの手によって持ち上げられ、西の方角に向けて運ばれていった。
二人の商人は合掌して、老人がどこかへと運ばれていくのを見送った。
(了)