野島孝介
「どうした孝介。さっさと立ち上がって来なさいよ。」
「そうは…言いますがね…これは…無理ですよ…!」
鳩尾の痛みに転げ回って叫びたい気持ちを何とか抑え、片膝立ちになる。
だが、それが精一杯だ。
「仮にも私を娶りたいというのなら、もう少し根性見せてもらいたいところなんだけど。」
「根性の問題というか…人間の構造的問題というか…」
「ごちゃごちゃうるさいわねっ!」
黒い艶やかな長い髪を後ろで束ね、キリッと締まった眉を上げ、切れ長のつり目をさらに吊り上げる。
淡麗な容姿ではあるものの、気の強さが顔からにじみ出てくるよう。
近隣からは『春の白鬼』と呼ばれる女。
それが自分の前に立つ少女、海山春だ。
◆ ◇ ◆ ◇
俺の名は野島孝介。
海山家に仕える家老、野島孝臣の一人息子だ。
とは言うものの、自分には前世?の記憶がある。
そして、その記憶によるとこの世界は前世の自分がハマって居た戦略シミュレーションゲームとやらの世界のようだ。
尤も、その記憶によると父上に息子は居ないようだが…。
前の世界の言葉を使うのであれば、異世界転生というもので新たに生まれた存在ではないか。
俺はそう考えている。
まぁ正直俺が誰かなどはどうでもいい。ただここに居て、生きている。それだけだ。
同年代の主君の一人娘と同じ乳母によって仲良く育てられた俺は、その娘、春に恋をした。
所詮は小家、家老の一人息子ともなると主君の姫の婚約相手としては家格的にも問題はない。
この縁談、容易に結ばれるだろうと切りだした私は春の手によってどうしようもないくらいにボッコボコにされた。
その時に春が俺に吐き捨てた言葉がこれだ。
「私は自分より弱い男とは結婚しないわ。」
そして全治数日の怪我を負った自分は、そのショックからか前世の記憶を思い出したのだ。
同時に春がこの世界二位の武力99の強さを誇ると知ることになる。
俺は絶望した。武力99ともなると、もはや鬼神レベルの強さだ。春の白鬼というあだ名も伊達ではない。
だが、恋とは不思議なもので、それでも諦めはつかなかった。
そして、今日も春に戦いを挑み、こうしてこてんぱんにやられている。
「なっさけないわねえ…。ちっとも強くならないうえに根性までないの?」
「春姫が強すぎて俺が強くなってるのがわからないだけですよ…。」
事実、自分は最初にボコボコにされてからずっと鍛錬を積んできた。
そして剣術の師匠にもかなり強くなったとお墨付きをもらった。
とはいえ、その師匠にも「師匠は春に勝てますか?」と聞けば「いやー、本気で来られたら10秒保たないだろうね…はは…」と苦笑いされていたくらいなのだ、春は。
俺はぷりぷり怒る春を横目に気にせず休息を取っていると、一人の人影が近寄ってくる。
「なんじゃ孝介。今日も春姫にやられておったのか。」
「父上、お勤めご苦労様です。」
「あら家老殿。こんにちは。」
野島孝臣。俺の父上だ。
ゲームの能力値通りこれといって秀でた所はなく、平々凡々な力しかない。
だが、人柄は大変よくできており、自分にとっては立派な父親だと尊敬している。
「今日はなるべく早よう帰ってさっさと飯を食えと母さんが言っとったぞ。」
「わかりました。もう一度姫に挑んでから帰ると致します。」
「あら、まだ掛かってくるの?大丈夫?」
「はっはっは、挑む相手に心配されていたら世話無いわな。」
「それは言わんでくださいよ父上…」
父上は愉快そうに笑うと、先に家に帰ると去ってゆく。
休息は充分だとばかりに俺は立ち上がる。
「さて、もう一つお相手お願いします。姫。」
「良いわよ。次は根性見せて欲しいわね。」
そして俺たちの日常は今日も平穏無事に過ぎ去ってゆく。
すぐそこにまで戦乱の渦が迫って居るとも知らずに。