意地悪な悪魔
女は美しくなければならない。
愛でて楽しむための可憐な花でなければ。
そうでないのなら、生まれた意味などないだろう――
「美しさを求める人間が悪魔に魂を売る。そんな物語は古今東西問わず多い。それが何故かわかるか? ――悪魔は不平等だからだ。偏ったものを選べる。天使のように何もかもが尊いなどと綺麗事は言わない。美しくない者に『あなたの顔立ちだって美しいですよ』など間違っても口にしない。醜いものは醜いと認める。だからこそ美しいものがわかるのだ。美しさを知っているから美を求める人間は悪魔と契約する。道理だ。だが悪魔との契約は禁忌とされる。そこまでして美を求めることを浅ましいとされている。実に愚かだ。それで人は心が大事だからと抜かすから笑えるね。美しさを求めない心こそ、最も醜いではないか」
マティーニのグラスが空になった頃、別の常連客の相手をしていたマスターが俺のところへやってきた。俺は美について見解を述べた。今日、後わずかで契約しかけた女がいたのに、父親が邪魔しに来たのだ。思い出しただけでも腹立たしく、そのことを愚痴った。
「そうかもしれませんね」
すると、マスターの静かな声が返ってきた。
魔界、第七十四区画にあるバー「ボナシュ」。
俺の行きつけの店である。
一年と少し前に出来たばかりだが、元・天使が切り盛りしているというので興味を惹かれて来店したのがきっかけだった。堕天して魔界に落ちる奴がいると噂には聞くがそれまで実物を見たことはなかった。そのときも、どうせ眉唾だろう? と半分疑っていたのだが……来店して彼の右翼の真っ白な羽を見て俺は度肝を抜かれた。ふわふわとした柔らかくて眩い羽は間違いなく天使の証だ。とても気高く、とても美しい。俺は美しいものを愛している。故に、常連となるのは当然の判断だ。
しかし、近頃では魔界の空気のせいで真っ白だった羽が少しずつ黒く変色しはじめている。それがどうにも勿体なく感じられ「羽をしまえば汚れないのではないか?」とつい口にしたことがあった。
「それじゃあこの店の売りである元・天使という証明ができなくなるじゃないですか」
マスターはそう言って笑った。
ここの店のカクテルは味も見た目も絶品だ。そんな売りがなくとも十分やっていけると思うのだが、そこまで口出しをする権利はないので黙った。
「何かお作りしましょうか」
「じゃあ、ギムレットを」
「かしこまりました」
マスターが手際良くシェイカーを振る。
その所作も優美だ。ため息が出るほどに。
淡緑色の液体がカクテル・グラスに注がれる。
「マスターが作るものはいつも素晴らしく美しい」
飲むのがもったいなくて、グラスを傾けていると、
「ロキさんは、本当に美しいものがお好きなのですね」
とマスターが言った。
「ああ、美しさこそ全てだ」
持論だ。俺はこの価値観の元にこれまで生きてきた。自分が美しいと思うもののみを愛でる。
「おお。ロキじゃないか。今日は夜会には行かないのか?」
ふと声がして振り向くとコルーナがいた。ここで知り合った男だ。小柄な体に似合わず大食漢で大酒飲みだが、食事の仕方が優雅で嫌な気持ちにならない。食事のマナーがなっていない奴とは関わらないことにしているが、コルーナは基準を満たしていた。
「これから出かけるところだ」
「なんだ、そうか」
「俺の生き甲斐だから。今宵も楽しませてもらうよ」
「お前も好きだな」
コルーナは目だけを細めた。
生き甲斐――俺がこの世で最も美しいと思うもの、それは人間の女だ。無論、全ての女がそうだというわけではない。美しい女はごく一部。それも一時だ。時が経過すれば醜く老いていく。そうなる前の若く見目麗しい女を愛でるのが俺の楽しみだ。
ありがたいことに、彼女達はこちらが探しまわらなくても頻繁に開かれている夜会に集まってくる。豪華な宝石とドレスに身を包み、地位と名誉と財産を持った男に見初められるのを待っている。俺はそこに出向いて行きさえすればいい。あとは容易い。向こうから俺に言い寄ってくる。俺の美貌が欲しいと合図してくる。無理もなかろう。女どもが見初められようと必死になる男はたいていつまらない容姿をしていたから。将来のためにブサイクな男に嫁ぐ前に、美しい俺に抱かれたい。そう思う気持ちは自然だ。だから俺もそれに応える。実に対等な関係だ。
俺はギムレットを飲みほして店を出た。
さぁ、これからが本番だ。今日はどんな花を手折ろうか。
◇
階段を上がっていくと管弦の音が大きくなっていく。
今宵の夜会はポートガス伯爵の屋敷で行われていた。近頃、財政難であると芳しくない噂が流れているので払拭するため豪華な夜会を催したのだ――が、失敗に終わったようだ。金の切れ目が縁の切れ目。人はまばらで閑散としている。愉快なほどわかりやすい。
ホールをゆっくりと歩く。注目されているのがわかる。
ねっとりとしたため息と視線を投げてくる。一瞥すると頬を染める者、微笑んで誘ってくる者、様々だ。賞賛されて求められるのは悪い気はしない。しかし、相手による。その程度の容姿で俺に目線をよこしてくるなど恥知らずな。やめてくれ。分相応を知らない輩にはうんざりする。身の程を知れというのだ。こみあげてくる笑いを抑えながら、一周りする。
今日ははずれだな。
やはり力ある家が主催する夜会でなければ麗しい女は集まってこないようだ。
まぁこんな日もある。ランクを落としてでも今夜の相手を探す気には到底なれず、俺は早々に引き上げることに決め、先ほど上ってきたばかりの階段へ向かった。
すると、ホールへ入ってくる女がいた。
なんだあれ。
メガネをかけて紺色の地味なドレスに身を包む陰気くさい女。
最初は召使かと思ったが、手には扇がある。客人だ。女は俺とすれ違うとき会釈をした。それも義務的なものだ。普通の女なら、必ず俺を二度見するのに女は振り返ることもしない。俺の美貌を見ても何も感じないのか。美意識というのがないのかもしれない。そうでなければあんな格好で夜会に出向いてきたりしないか。
女はホールに入ると壁際に立った。ダンスの誘いを待つためだ。
誘われると思っているのか?
お前のような女が?
傑作だ。本当に、今夜はなんという日だろう。
美しい女はいなかったが、最高にみっともない女を見た。女としての人生を謳歌できないみすぼらしさ。男にダンスを申し込まれない女は「壁の花」と呼ばれるが、あの女は壁さえも彩れない。まったく、憐れだ。
衝撃が強くしばらく動けず女を眺めた。案の上女が誘われることはない。
「……」
それは一瞬の閃きだった。戯れ。あるいは暇つぶしだ。
俺が声をかけてやろう。
女はどうするか。俺のような美しい男からの誘いだ、狂喜するにちがない。舞い上がって自惚れるかもしれない。そのまま手を引いてフロアの中央に踊り出て、曲の途中で難癖をつけて置き去りにしてやる。恥をかかせてやろう。己の身の程を知り、二度と夜会に来ようという気にはならないように。
だってそうだろう。美しくない女などなんの価値もない。それどころか、お目汚しだ。迷惑千万。思い知らせてやらなければ。
俺は自分の考えに満足し、実行に移すことにした。
女に近づくために再びホールに入る。
周りが注目してくる。小さなざわめきが鬱陶しい。俺が誰に声をかけるのかへの興味と、もしかしてそれは自分じゃないかという期待。いろんなものが入り混じった眼差しに気持ちが悪くなる。
だがお目当ての女だけは相変わらずまったく俺を見なかった。自分が誘われるとは微塵も思っていないらしい。意外とその辺はまともじゃないか。俺のような男がお前を誘うはずがない。その感覚だけは正しいと誉めてやる。だが今回は特別だ。さぁ、女はどうするか。
「お嬢さん、どうぞ今宵、私のお相手を」
自分に声をかけられていると気づかなかったのか妙な空白が生まれた。
それから女はゆっくりと俺に視線をむけてきた。メガネの奥に隠された瞳が初めて俺を正面から捕らえた。邪念も邪推もない虚をつかれた人間のまっさらな眼差しだった。それから周囲をチラリと見て、やはり他でもなく自分が申し込まれているのだと確認すると、また真っ直ぐに俺を見た。そして、
「あなたのように美しい男性に申し込まれるなんてとても光栄です」
そうだろう。だからこの手をとればいい。そして天国から地獄へ突き落としてやる。
「でしたら、是非、今宵は私と」
念を押すように右手を差し伸べた、が。
「いいえ。今宵だけではダメなのです。これから二週間お付き合いいただける方でないと。ですからあなたのお相手は致しかねます」
「は?」
女は言うと、ニ、三歩離れて身を引いた。そして、まるで何事もなかったようにまた壁の花になる。
俺は一瞬何が起きたかわからなかった。
――断る。
女はそう言ったのか。二週間の間に何があるというのだ。いやそれより、俺の誘いを断るなど。このみすぼらしい女が? とんだ笑い草だ。お前に断る権利などないだろう。許せない。湧き上がってくる激情をどうにか飲み込んで、なるべく優しい声を出し、
「では、二週間、あなたとお付き合いいたしましょう」
「え?」
今度は女が驚いた顔をした。
「ご冗談でしょう?」
「冗談? まさか。私は本気ですよ」
「……信じられません」
「信用できないというのなら、今宵はダンスの誘いを諦めましょう。明日、あなたをお迎えにあがります。それで本気だと受けとってもらえるしょう?」
一日置いて、わざわざ迎えに行き、エスコートして会場まで連れ添う。一人で行くのとはわけが違う。それは「恋人」と周囲に宣言する行為だ。
ああ、付き合ってやるさ。今日、ほんの一時、恥をかかせてやるつもりだったが、この俺を袖にするなどとんでもないことをしてくれた。美しい者が劣っている者にないがしろにされるなどあってたまるか。罰を受けるべきだ。己のしたことの非礼を思い知らせてやる。もっとこっぴどい仕打ちを与えてやる。この二週間の間に、たっぷりと。
申し出に、女は今度は断る理由を思いつかないらしかった。しばし俺の真意を推し量るように見つめていたがやがてうなずいた。
◇
これから二週間、俺の恋人となる女。
名前はカヤ・ウィンター。
そこそこ裕福な商人の娘だったが三年前に両親が相次いで病死。三歳下の妹を無事に嫁がせた後、店をたたみ、町外れの小さな家に引っ越し、得意の裁縫でオートクチュールのドレスを作り生計を立てている。カヤの仕立てるドレスは評判がよく、三ヶ月先まで予約が詰まっているらしい。当の本人はあんなにダサいのに……。
「世の中わからないものだ」
取り寄せた資料を読んで呟きが漏れた。
「何がわからないんですか?」
それがマスターの耳に入ったらしい。まさか聞かれているとは思わなかった。
「いや、世の中何が起きるかわからないなぁと思って」
「ええ。本当に。まさか、ロキさんが……」
この身なりのことを言っているのだとすぐにわかった。
「苦労したんだ。なかなかイメージ出来なくて。いかんせん俺は美しいものが好きだからな」
「でしょうね。しかしどうしてまた……何かのゲームですか?」
「ゲーム……まぁそんなようなものだ。ギャフンと言わせたい人間がいる」
「そのために? それはそれはまた……」
感嘆の声をもらすマスターを見て報われた気分になる。
本当に大変だったんだ。だが、まだ準備を整えただけに過ぎない。これからが醍醐味だ。頑張った分、たっぷりと楽しませてもらわなければ。
気付けにカクテルを三杯飲んで店を後にする。そして、昨夜の約束を果たすためカヤの家へ向かった。
「こんばんは」
ドアをノックする。しばらくしてゆっくりと開いた。
カヤは最初いぶかしげな眼差しを俺に送ってきたが
「驚いた。姿を自在に変えられるなんて……あなた人間ではなかったの?」
意外な言葉だった。
驚いたのはこっちだ。
そう。俺は今、姿を変えている。元々悪魔には実体がない。人間のように肉体を介さなくとも魂だけで存在していられるからだ。だがそれでは人間と取引をする際に不便だから各々が好き勝手な容姿を作る。方法は簡単だ。イメージすればいいだけ。俺は自分の美意識の元、最良の姿を思い描く。考えうるべき最高の造詣だと自負している。しかし、今回、初めて別の姿に化けた。いつもの容姿とは違う。全くの別人。背は低く顔の造りも地味で「美しい」とはかけ離れたみっともない容姿。そんな姿を想像することは俺にとって苦痛だった。何度も練習しようやく形に出来たのだ。こんなに努力をしたことはない。それもこれもある目的のためだ。
だが、すでに思惑が外れてしまった。
これが俺だと見抜かれるとは思っていなかったのだ。
俺はてっきり「昨日の男ではない」と叫んで怒ると思っていた。そしたら「昨日の男は急用が出来てこれなくなって、代役を頼まれた」と嘘をついて夜会に連れ出す予定だったのだ。
「昨日の男と俺が同一人物だとわかるのか?」
改めて聞き返すと、
「私、耳はいいの。容姿は変えられても声は変わらない。だからわかるわ。それで、あなたは何者なの?」
「悪魔だ」
答えてやると、
「……そう。私は悪魔と契約したの。代償に、命をとられるのかしら?」
カヤは難しい顔をした。だが、
「まさか。悪魔の契約をしたわけじゃない」
心底ほっとしたらしく、笑顔を浮かべた。
「よかった。じゃあ、行きましょう」
「は?」
「夜会へ行くために迎えに来てくれたのでしょう? 違うの?」
「そ、そうだ」
俺は慌てて答えた。まさか、こんなにスムースに話が進むとは思っていなかった。絶対に駄々をこねられると思った。今の俺と一緒に夜会にいけばどうなるか。絶対嘲笑される。少し考えればわかるはずだ。だから、断られるだろうと思った。そこを人間社会の「正論」を持ち出して「人は外見より中身だろう」とぐうの音も出ないようにして丸め込むつもりだったのに……。
なんなんだこの女。やっぱりおかしい。だが、好都合だ。素直に行ってくれるならありがたい。俺はカヤをエスコートして夜会に向かった。
本日はホワード子爵家で催される。さほど大きなものではないが、昨夜のポートガス家よりは来客数は多い。会場につき、腕を組みながらホールへ向かう。
途中で何人かの男女とすれ違ったが皆、俺を見ていた。あからさまな不躾さはないが、心の声が聞こえてきそうだ。会場内に入ると、その視線はもっと増えた。クスクスと笑い声が聞える。俺はカヤの姿を盗み見た。特別変化はない。無理をしているに違いない。
「踊ろうか?」
「ええ」
手をとってホールの中央、最も目立つところへ連れ出す。嫌でも注目を浴びる。だがカヤはそれにもさして抵抗はしなかった。ここで派手に転んでやればもっと目立つなと思ったのだが、カヤは意外にもダンスがうまかった。これまで踊ったどの女よりも腕に馴染む。優雅で繊細、動きだけならば美しい。だからダンスは認めてやってもいいと思った。
美しいと思うものに賞賛を惜しまない。それも俺のポリシーだ。気に入ったものを汚すのは好みではないから、故意に醜態をさらす真似はしないでやった。
続けて三曲踊るとカヤは疲れを見せ始めた。俺はまだ踊りたかったが仕方ない。そっと輪を抜け出した。少し休んでもう二曲踊る。
無様な容姿の俺が軽やかなステップを踏むことが客人たちには面白かったらしい。更にひそひそ声が聞こえる。「もう少し容姿がよかったら」と。「いくらダンスがうまくても、あれではもったいない」と。全く失礼な噂話。聞こえているというのだ。だがカヤは相変わらず平然としていた。強がっているのだと思った。
それから俺たちは会場を後にした。カヤを家の前まで送り届ける。
「今日はありがとう。これで私に恋人が出来たと思ってもらえたわ」
玄関先でカヤは言った。礼を述べられるとは思っていなかった。
「ねぇ、悪魔は食事はするの?」
「別に食べなくてもいいが、人間と同じものを食べられる」
「そう? じゃあ、お礼に御馳走するわ。口に合うかわからないけど」
俺を家の中に招こうとする。……何を考えているのだ。たまらず、俺は言った。
「どうして平気なんだ?」
「え?」
「だから、どうして平気なんだ? 俺と一緒にいることを噂されていただろう? あんな男と一緒だなんてって笑われてた。もう少しましな相手がいるはずだって言われていただろう。恥ずかしいと思わないのか?」
「別に……」
「どうして?」
「だって人に何を言われても関係ないじゃない?」
「は?」
普通気にするだろう。人の評判を気にする。それが人間じゃないのか。少なくとも俺が今まで契約してきた人間どもは周囲にバカにされるのが悔しいと。だから美しくなりたいと涙ながらに訴えてきたぞ。
「なるほど。これがあなたの狙いだったのね。姿を変えたのはどうしてかと思ってたら……そういうこと」
カヤはふふっと笑った。何故笑う?
「怒らないのか?」
「怒る? どうして?」
「どうしてって……お前に恥をかかそうとしたんだぞ」
カヤはもっと愉快そうな顔をした。
「あなた、意外といい悪魔ね」
「は?」
「だってそうでしょ? 私、思うんだけど、美しいままの姿で私と連れ添って歩けば、不釣り合いだと私が笑い者になったと思う。その方が恥をかいたと傷つくんじゃないかしら? でも、あなたはそうしなかった。自分が醜くなって笑われることで、一緒にいる私に恥をかかせようとした。自分を犠牲にしてるところがなんだかおかしくて」
「あっ……」
「気付かなかった?」
言われるとそうだ。そういう方法もある。あんなに必死になって醜男のイメージをしたというのになんだかバカにされたようで腹が立った。
「それでどうするの? 約束はまだ十三日残ってるけど。あなたの魂胆はわかっちゃったし、私はあなたの思うように傷ついたりしないわよ」
ここで引き下がるわけにはいかない。どうしてもこの女に一泡吹かせてやりたい。俺のやり方で、だ。でないと悪魔としてのプライドがズタズタになる。だからやめるわけにはいかない。
「ふん。そんな強がり言って、噂が広がれば絶対に恥をかく。俺はこのまま続けるぞ」
「そう? じゃあ、改めてよろしくね、私の恋人さん」
カヤはやはり楽しそうに笑っていた。
◇
翌日、俺はカヤをエスコートして舞踏会に出向いた。
その次の日も。更に次の日も。
美しい者が注目されるのと表裏をなして容姿の悪い者も注目される。だがカヤはやはり気にしない。だから俺の目的は達成されなかった。
「あんな女にまでバカにされるなんてありえないな。鏡を見たことがあるのか聞きたかったぞ」
別に本気で腹を立てているわけじゃない。これぐらいで怒っていては一日中怒り狂うことになるから。ただ、そう言うと、カヤは俺をたしなめるように言葉を発する。
「またそんなこと言って……あなただって今まで散々人をバカにしてきたんだから、怒る道理はないと思うんだけど」
案の定、困った子ねと言いたげな顔で俺を見た。
怒るわけでも、呆れるわけでも、嫌そうにするわけでもない。理不尽な怒りだと笑いながら、最後には仕方ないわねぇと受け入れてくれる。そんな仕草だ。俺はこの顔を気にいっていた。だからわざと嘆く。
「いいや、怒るね。絶世の美女になら笑われてもかまわんが、あいつらごときレベルで他人を嘲笑うなんて恥を知れと思う」
「無茶苦茶ね」
カヤはそれだけ言って台所へ消えた。
俺は今、カヤの家にいる。夜会から帰ってくると、お礼に手料理を振る舞ってくれるのだ。
カヤは料理がうまかった。繊細で美しい盛り付けをする。特にデザートがいい。食べるのが惜しいほど素晴らしいデコレーションを施した菓子を出してくれる。それが楽しみだった。
俺は定位置となった席に座ってカヤが戻ってくるのを待った。すぐにテーブルに食事が運ばれてくる。今日の料理もおいしそうだ。見ていると心がうきうきしてくる。悪魔は食べなくても食べてもいいから俺は基本食事をしないのだが、こういう食卓なら食事をするのも悪くない。
「いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
カヤは嬉しそうだった。
三年前に妹が嫁いでから一人で暮らしている。料理を作っても食べてくれる人がいない。自分のためにだけ料理をするのは退屈だった。俺が食べるようになってから、料理をする楽しみが甦ってきた。そんなことを言っていた。そういうものなのか。よくわからないが「召し上がれ」と言われるのは嫌じゃない。不思議な気持ちになる。
「ロキは食べっぷりがいいわね。全部たいらげてくれるから、気持ちがいいわ」
「いくらでも食べられるぞ。悪魔に限界はない。少量でも大量でも出された量を適量にできる。残したりはしない」
最後の料理を食べ終えると、カヤは手早くテーブルを片付けて、デザートを運んでくる。俺が最も楽しみにしている時間だ。
「今日のデザートは何だ?」
「さくらんぼ酒のケーキよ」
「ほう」
正式名をシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテというらしい。シュヴァルツヴェルダー地方の黒い森をイメージした焼き菓子に、雪に見立てたさくらんぼ酒入りのザーネクリームを塗り、その上に落ち葉に見立てて削ったチョコレートと桜桃を飾ったものだ。なかなかロマンチックなケーキだ。
「おいしい」
「そう、よかった」
俺が食べ始めるとカヤはドレスの仕立てにとりかかる。
カヤの器用な手先を見ながら残りのケーキをゆっくりと食べていく。ケーキは食事の倍以上の時間をかけて食べた。繰り返すが、食べるのが惜しいからだ。
「ねぇ、悪魔は普段どんな風にすごしてるの?」
「仕事してる」
「どんな?」
どんな仕事をしてるか人間に聞かれたのは初めてだった。これまでは肌を重ねた相手は俺の美貌を賞賛するぐらいだったから。
「人間の求めに応じて契約を交わすのが一般的だ。それとは別に絶対業務として振り分けられる仕事がある」
「ロキはどんな仕事を振り分けられているの?」
「死んだ人間の魂の回収」
「それってつまり死神ってこと?」
「そうだ」
カヤは大きく目を見開いた。そんなに珍しいのだろうか。いずれ人間は必ず会うものだ。驚かれるとは思わなかった。
「審判の門まで魂を連れて行くのは重労働なんだ。死んだ人間はごねるから。だが美しい者が迎えにいけば大人しくついてくるんだ」
「だからロキは美しいことにこだわってるの? 仕事のため?」
「それは違う。元々俺が美しかったからやらされている」
「じゃあ、どうして美しさにこだわるようになったの?」
カヤは仕立ての手を止めてじっとこちらを見た。
美しさにこだわる理由。何故そんなことを知りたがるのか。本当に変わった女だと思う。
俺はなんと言うべきか考える。正直に答えてやる義理などない。悪魔が人間に親切に素直になるなどおかしい。だがどうしてか、カヤに尋ねられると話してもいいかと思う。
「美しさを求める心は自然だからだ」
「自然?」
「醜いものより美しいものを好む。それが自然だ。俺はそう思う。『美しさ』を求める気持ちは誰もが備わっている心だろう。だから俺はそれに忠実にいるだけだ。だが人間は違う。『己の容姿』と『美を求める心』をごちゃまぜにする。醜い者は美しくなれないからと美しさを求める心まで否定する。人は外見よりも中身だと主張する。『実際に美しくなれること』と『美を求める心』は別物なのに。だから俺は醜い者が嫌いだ。傲慢で愚かな考えを正論だと主張するからな。自分がどういう容姿であれ美を求めることに素直であるべきだ。それが自然の摂理だ。もっと自覚するべきだ」
「……醜い者が美を求めたら笑われるわ? 分不相応だって」
「そりゃそうだ。醜いのだから笑われる。現実を知るべきだ」
「矛盾してない?」
「何故だ? 笑われようがバカにされようが美を求める心は当然の権利だ。現実を受け入れた上で美を求めればいい」
「人はそんなに強くない」
「俺は悪魔だ。そんなこと知らない」
カヤは黙った。そして再び仕立てを開始した。
俺もまた休めていた手を動かしてさくらんぼ酒のケーキを食べ始める。
カヤの方にチラリと視線を送る。昨日から新しいドレスに取り組んだらしく、青い生地を丁寧に裁断していた。集中しなければならない作業だから黙ったのか。しばらくして、一段落した頃を見計らって今度は俺が尋ねた。
「カヤは、どうして人のドレスばかり作るのだ?」
「え?」
「自分のドレスはどうして作らない? カヤのドレスは素晴らしく美しい。それで自分を着飾ればいいのにどうして人のドレスばかり作る?」
「……どうしてって……」
「いつも黒やグレイなんて地味な色のドレスばかりじゃないか。もう少し明るい色のドレスを着れば見られるようになるのに、何故そうしない? せっかくそんなに素晴らしい腕を持っているのに人にばかり提供する。自分のために作ればいいじゃないか」
俺は何を言っているのだろう?
着飾れば見れたようになる? 美しくない者が着飾ったところで見苦しいだけじゃないか。なのにどうしてそんなことを言ってしまったのか。第一、カヤがどうなろうが関係ない。
言ってしまった言葉は引っ込められない。俺は気まずさから残りのケーキを一挙に詰め込んだ。スポンジが絡まってむせかえる。カヤが背中をさすってくれた。その手はとても心地よかった。
◇
カヤと過ごす日々はあっという間に過ぎて行った。
毎夜欠かさず夜会へ出席しているから、俺たちはすっかり有名なカップルとなった。嘲笑の眼差しを向けていた人間も、近頃ではにこやかに挨拶してくる。人間は環境に適応する生き物だと聞くが、見慣れると平気になるみたいだ。
「お似合いですね」などと言われることもある。最初は嫌味なのかと思ったが違うらしい。好意的な意味だ。わからない。どうしてそんなことを言うのか。こんな醜い男と「似合い」など言われて、さすがのカヤも怒るだろうと思ったが嬉しそうな顔をして「ありがとうございます」と微笑むのだ。
信じられない。やはりおかしな女だと思う。だが、喜んでいるカヤを見ると悪い気はしなかった。なんなのだろうか、この気持ちは。
そして、いよいよ約束の二週間が終わろうとしていた。
「どうしたんですか? 今日はなんだか浮かない顔してますね」
マスターが言った。
浮かない顔? 一昨日ぐらいから気持ちが滅入っているのは事実だったが傍目に見てもわかるほど落ち込んでいるのか。俺は思わず頬に手を当てた。
「ここのところずっと楽しそうでしたのに。例のゲームで何かあったんですか?」
「……ゲーム」
カヤとのことを言っているのだろう。
「あのゲームは今日で最終日なんだ」
「うまくいきましたか?」
「うまく……」
「ギャフンといわせたい人間がいるとかおっしゃってましたよね。成功したのですか?」
「いや……」
俺を袖にしたカヤに一泡吹かせる計画は全く達成されていない。
カヤはちっとも動じないのだ。結局本日に到るまで俺の目的は果たせずにいた。このまま終わってしまう。だから憂えている。
まぁ、そんなこともある。相性がよくなかった。悪魔にだって失敗はある。潔く諦めるのも美学だ。そう繰り返すのに、今日で終わりだと思えば思うほど言いようのない感情が胸の中に広がっていく。
俺はこんなにも負けず嫌いだったろうか? どちらかといえば飽き性だと思っていたのに……。
「そうですか。うまくいかないのは残念ですね」
慰めの言葉を聞きながら、俺の胸は軋んだ。
「……」
黙った俺に、マスターは柔らかな声で言った。
「それは期日を延長することは出来ないのですか?」
「え?」
「どうしても今日までじゃないといけないものなのですか? そうでないなら、延長戦に持ち込めばいいのではないかと」
「――そう、か」
まったくどうして考え付かなかったのか。カヤに言われた通り二週間でやめてしまう必要などないのだ。今後も続けるという選択がある。カヤをギャフンと言わせるまで、延長すればいいのだ。
マスターの提案に俺の心は一挙に軽くなった。嘘みたいに。
「そうだな。俺が勝つまで続けてやる」
「では、勝利を祈って」
マスターはオリジナルのカクテルを出してくれた。透明な桃色のそれの名は「淡い恋」だ。
何故こんな名前のカクテルを勝利祈願に出したのかわからない。尋ねようとすると、タイミング悪く、マスターは他の常連客に呼ばれて行ってしまった。仕方なく口に含むとなんとも甘酸っぱい味が広がった。
一人になってから、期限延長をどう言って申し込めばいいか考えていると約束の時間がやってきた。
カヤの家に向かう。
魔界から人間界に出るまではそれほど時間はかからないが、人間界に出てからは意外と大変だ。誓約があるから、あからさまに翼を使うことが許されない。カヤの家までもっとも近い転移魔方陣を抜けてから三十分は歩く必要がある。魔界を出るのが遅れたせいで時間ギリギリで慌てた。
どうにか約束の時間に到着し息を整えてドアをノックした。
「俺だ」と告げると「今開けるわ」と返ってくる。もうすっかり慣れた光景だ。しばらくしてカヤが扉を開けてくれた。
「――っ」
驚いた。立っていたのは間違いなくカヤだったが……いつもの地味な格好とは違う。深い緑のドレスだ。けして派手ではないが、シックな雰囲気がカヤに似合っていた。こんなドレスを持っていたのか。
「どうしたんだ、そのドレス」
「作ったのよ。ずっと前に注文を受けたのだけれど、完成間際でドレスの色を変えたいと言われて、もったいないからとっていたものを仕立て直したの。初めて自分用に作ったから、なんだか恥ずかしいわ」
それは俺が前に言ったからか? 明るい色のドレスを着れば見れるようになると告げたことがあった。その言葉に従ったのだろうか。
「一体どういう風の吹き回しだ」
「今日が約束の二週間目よ。私が夜会に出るのもおしまい。だから最後ぐらいと思って……」
俺との名残を惜しんでいるということなのか。可愛いところ、あるじゃないか。
「そんなにおかしいかしら?」
「おかしくなんてない」
「そう? 顔が笑っているけれど……」
言われて初めて、自分の頬が緩んでいることに気がついた。カヤは少しだけ不愉快そうだった。自分が笑われていると解釈しているらしい。違うのに。
「まぁ、いいわ。行きましょう」
「待て」
そっとそのメガネをとってやる。
「何?」
「なんの取引もなく『力』は使わないんだが。今日は特別だ」
カヤの目に手をかざす。
「どうだ?」
「……見える」
「今日一日だけだがな」
カヤはじっと俺の顔を見ていた。穴が開くんじゃないかと思うほど。そして穏やかな笑みを浮かべてそっと俺の鼻に唇を落とした。――なんなんだ。こんな醜い顔にキスするなんて。ありえない。
「ありがとう。さぁ、行きましょう」
顔が熱い。一方でカヤは堂々としたものだ。どうして平気なのだ。今、俺にキスしたんだぞ。どうかしている。この女、やっぱり変だ。
「どうしたの…?」
「どうもこうもない。キ、キスするなんて……」
「挨拶みたいなものでしょう? キスぐらい、あなたは沢山してるんじゃないの」
「そ、それはそうだが……」
言われてみればそうだ。お礼にキスをした。そんなことよくある話で。だけど……、
「それとも、私にキスされるのが嫌だった?」
「違う。そうじゃなくて……」
自分でもビックリするほど大きな声が出た。
何をそんなにムキになっているのか。そして何を言おうしているのか。心が張り裂けそうだ。息苦しい。俺の態度にカヤは不思議そうな顔をしていたが、時計に目をやると慌てて、
「遅れちゃうわ、行きましょう」
同時に、俺も我に返る。そうだ、夜会に行かなければならない。だから、それ以上考えることをやめてカヤの言葉に従った。
◇
本日の夜会はスチュアート伯爵の屋敷で行われる。
これまで出席した夜会とは比べ物にならない規模だ。最後を飾るにしてはいい舞台だと思う。だが、これだけ格式の高い夜会の招待状をどうやって手に入れたのか。そもそも「二週間」の意味は何なのか。
改めて考えてみると何も知らない。興味がなかったから。だが、今は違う。屋敷に向かいながら俺は尋ねた。
「妹がね、来るの」
「妹? 三年前に嫁いだという?」
「そう。妹はロシフォール伯爵家の次男に見初められて結婚した。今は王都に住んでいるわ。今回ロシフォール伯爵家の末の娘が隣国に嫁ぐことになって結婚式に出席することになったの。その途中にこの町に寄って、一日だけ滞在するのよ。その歓迎にスチュアート伯爵が夜会を催すことになったの」
「ふーん。そうか。それで妹から招待されたというわけか」
「ええ。妹は私のことを心配しているの。自分が先に嫁いだことも気にしているわ」
「だから恋人がいると思わせて安心させてやるつもりか? でもどうして二週間も恋人役が必要なのだ? それなら一日振りをしてくれる人で充分じゃないか」
「ダメよ。妹は聡い子なの。きっと周囲に本当かどうか確認するわ」
「なるほど。それであちこちの夜会に出まくって噂になったというわけか。……しかし、俺のような男が恋人だとわかれば余計に心配知るんじゃないのか?」
「私の選んだ人なら納得してくれるわ」
カヤは妹のことを信頼しているし、妹もカヤのことを信頼している。短い会話の端々から伝わってくる。
俺は面白くなかった。カヤが人のことをよく言うのは気分が悪い。まして、大切に愛しく思っているのなら尚更ムカムカした。
屋敷に着くとすでに大勢の人間がいた。
俺を最初に見た者は相変わらず眉をしかめたり、バカにした眼差しを送ってきたりする。だがこの二週間のうちにすっかり顔馴染みになった連中も結構な数いて、彼らは友好的に接してくれた。おかげでそこまで嫌な思いはせずに済んだ。印象づけるために毎日出向いた成果が、思いも寄らない味方をつくっていた。
「お姉さま」
ホールに入って間もなく、黄色い声が聞こえた。
カヤに近寄ってきて抱きつく女。これが妹。――驚いた。ひどく美しい。カヤとこの女が姉妹だなんて、聞かされても納得できない。金持ちの男に見初められたというからどんなものかと思えば、これならばわかる。同じ血なのにここまで違うものなのか。なんて美しい女なのだ。
カヤは優しげに妹の頬を撫でていた。それはカヤの癖だ。俺も何度かされた。どうしてそうするのか一度尋ねたことがあった。だが本人は無意識らしい。それから俺はカヤがその仕草をする時を注意深く見ていた。おそらく嬉しいときにする行為なのだ。俺はその仕草を気に入っていた。カヤに撫でられると気持ちがいいから。だが今はその光景にイライラする。
「会いたかったわ」
妹は甘えたように言った。仲睦まじい姉妹の再会。だが俺は気分が悪くなっていく。悪魔に感動的な場面など不要だからだろう。
「私もよ」
「嘘よ。だったらどうして遊びに来てくれなかったの? 何度も王都に招待したのに!」
「ごめんなさい。仕立ての仕事が詰まっていて……みんなが待っているわ。投げ出すわけにはいかなかったの」
「もう! 昔からそうなんだから。お姉さまの腕は一流だけど、そうやって根を詰めて仕立物ばかりするから視力もどんどん悪くなって……そういえばお姉さまメガネはどうなさったの?」
「あ……ええ……」
そこでようやくカヤは俺を思い出したようにチラリと視線を送ってきた。遅い。
「彼が傍についていてくれるから」
そっと俺の腕に手を置いて妹に紹介した。
仕立て物をする指先は傷がありテーピングが巻かれている。妹の美しい指先とは対照的だ。だが、カヤの指先は美しいドレスを作り出す。
「ああ、この方が手紙に書いてあったお姉さまの恋人ね。初めまして」
美しく整った顔を綻ばせる。可憐な笑顔だ。
「……」
「お姉さまから話を伺って本当に嬉しかったんです。どうぞこれからもお姉さまのことをよろしくお願いします」
「……」
「ごめんなさい。彼は照れ屋で。あなたの美しい笑顔に見惚れちゃったのね」
しゃべらない俺をカヤがフォローしたが別に見惚れてるわけじゃない。誤解だ。どうしてそんなことを言うのだ。そんな女に緊張したりしない。
「ふふ。でもよかった。奥手なお姉さまがやっと選んだ男性だと聞いて心配してたの。もしプレイボーイの遊び人にでも引っかかってたらどうしようって。けど、真面目そうな人で本当に安心したわ」
「ええ。彼と一緒にいると楽しい。私にはとても必要な人なの。だから、あなたも私のことはもう心配しないでね」
「ええ、そうね。ああ、そうだわ。ちょっと待ってて、彼を呼んでくるから」
妹は誰かを呼びに人ごみに消えていった。
「美しいでしょう? 自慢の妹よ。あなたの好みでしょうけどダメよ。あの子は人妻なんだから」
カヤは釘をさしてきた。
本気で俺が見惚れていたと思っているらしい。確かに俺は美しいものを愛しているし、妹は俺がこれまで見てきた中でも相当に美しい部類に入る女だ。だからそう言っておきたくなる気持ちは分かる。――だがそれだけが理由だろうか。カヤは焼きもちを妬いているのかもしれない。そんな心配しなくてもいいのに。ムカムカしていた気持ちが急激に沈んでいく。なんだか変だ。感情の浮き沈みが激しい。ボナシュで少し飲みすぎたのかもしれない。
「ちょっかいなんて出さないよ」
「そう?」
カヤは素っ気無かった。本当に手なんて出さない。まだ疑っているのだろうか。どうやったら証明できるのだろうか。そんなことを考えていると妹が戻ってきた。傍には男がいる。なかなかの美男子だ。
「やぁ、カヤさんお久しぶりです」
「お久しぶりです。お元気そうで」
カヤは笑った。それは俺の前では一度も見せたことのない笑顔だった。
「こちらが?」
次に男は俺を見た。
一瞬、戸惑った顔をして、だがすぐにこやかな顔で手を差し伸べてきた。
「カヤさんに恋人が出来たとお聞きしてお会いするのを楽しみにしていたのですよ」
「それはどうも」
「どうぞ、楽しんでらしてくださいね」
それから二、三言葉を交わすと、男は妹を連れて去って行った。他にも挨拶に出向かなければならないからという理由を述べたが、おそらく俺と一緒にいるところを他の人間に見られたくないのだろう。
カヤは妹に安心させるために俺に恋人役を頼んだ。その目的は果たせたが、妹の旦那にはバカにされた。プラスマイナスゼロと言ったところか。そう思ってカヤを見たが――
カヤは、二人の後ろ姿を――正確に男の姿を目で追っていた。その眼差しは、まるで……。
「さて、これで目的は達成したわ。帰りましょうか」
振り返ったカヤの顔は寂しそうだった。
◇
早々に屋敷を出て帰路についた。
目的は達成したのだ。何か問題が起きる前に退散。だからダンスは踊らなかった。ガッカリだ。カヤはダンスが上手だから踊るのを毎回楽しみにしていたのになしだなんてつまらない。面白くない。
「今日の食事はいつも以上に腕によりをかけて作ったのよ。期待してて」
カヤは俺の少し前を歩きながら言った。
夜会の後、お礼に食事を。それが恒例だ。今日もちゃんと用意をしてくれているのだと。
俺のために作ってくれる食事は楽しみだ。だが今日に限ってはどういうわけかちっとも楽しみだと思えない。
黙ったままの俺を変に思ったのか、カヤは振り返った。
「ロキ……どうしたのよ? さっきから黙っちゃって」
モヤモヤする。カヤのあの眼差し。その理由が何なのか。確かめないといけない。だから、
「……カヤは、あの男が好きなのか?」
「え?」
「ライリーって男が好きなのか?」
カヤの顔色が一変した。
今まで、どんなことがあっても動じなかったのに。それが事実を雄弁に物語っている。だがカヤはすぐに我に返って繕うように言った。
「ええ、好きよ。だって妹の大事な旦那様ですもの。姉として大切に思っているわ」
「違う。嘘をつくな。妹の旦那としてではなくて、恋愛対象として好きなんだろう? 誤魔化すな」
周囲は静まり返っている。夜の暗闇は寒さを引き立たせる。ひんやりとした空気が頬を撫でるが、反して俺の体温は上がっていた。
「……どうしてそんなことを聞くの?」
街灯の頼りない光に映し出されるカヤの顔。おそろしく静かな眼差しをしていた。
「妹の相手に横恋慕なんて浅ましいな」
「そんなんじゃないわよ」
「じゃあなんなんだ。好きなんだろ。あの男が。正直に言えばいいじゃないか」
もう一度、カヤがそうじゃないと言えば、俺はそれを信じようと思った。否定してほしかった。でも、
「そうね。私は彼が好きだったわ」
「――っ」
「憧れね。彼は私にも優しかったから。もちろんそれは妹の姉に対する礼儀としてだってわかってたわ。でも、男の人に優しくされたのは初めてで嬉しかったの。バカみたいよね。叶わない恋よ。でも、私には大切な思い出なの。……これで満足した?」
なんだそれ。優しくされただけで好きになるのか。じゃあ、その男じゃなくて他の男でもいいんじゃないか。その程度のことで好きだなんて。なんだそれ。つまらない。くだらない。それを大切な思い出なんて言うな。モヤモヤした思いはやがてイライラしたものへ変わっていく。
「あんな男のどこが優しいんだ。あいつも俺のことバカにしてたじゃないか」
「別にバカになんてされてないわよ」
「どうしてかばうんだ。してたじゃないか。俺の姿を見てバカにしてた。俺はバカにされてた!」
「されてない。他の人はどうかわからないけど、彼は外見で人を判断するような真似はしないわ」
「嘘だ」
「嘘じゃないわよ」
「嘘だね。あんな奴の肩を持っちゃって。なんなんだよ。むかつく」
「別に肩なんて持ってないわ。そんな人じゃないからそう言っているだけよ」
「信用してるってわけか? 俺がバカにされたって言ってるのに、俺の言うことよりあいつの言うことを信じるわけ?」
「……信じるとか信じないって話じゃないでしょう?」
「……」
カヤは大きくため息をついた。
「一体どうしたっていうの? 何をそんなに怒っているの?」
「怒ってなんかない」
「怒っているじゃない」
怒っているわけじゃない。ただ悔しいと思った。そうだ、俺は悔しかったんだ。
「……俺は、もっとカッコイイ姿でいけばよかった」
「何故?」
「何故? カヤだってその方がいいだろう。こんな醜い姿――バカにされるだけだ」
喉が熱かった。そうだ、いつもの姿で行っていればよかった。そしたらあんな男にバカにされることもなかったし、カヤだって俺のことをもっと認めてくれたに違いない。今日も、ダンスを踊ってくれたはずだ。
「だから、別にバカになんてされてなかったって言っているじゃない。それに、百歩譲って、仮にそうであっても別にいいじゃない。いつものことでしょう? なのにどうして今日に限ってそんなにムキになるの? おかしいわ」
「ムキになっているんはカヤの方だろ。いつもなら、笑って聞き流すじゃないか。なのに、今日はあいつのことかばって……なんなんだよ。むかつく。あー嫌だ。もう嫌だ! 人間にバカにされるなんて絶対絶対、二度とごめんだ! こんな醜い姿になんてなるんじゃなかった!!」
カヤはひどく悲しげな顔をした。そして言った。
「……だったら、もうその姿をやめればいい。ちょうど今日で契約も終了だし。本来の姿に戻って、美しい人と一緒にすごせばいいじゃない? そしたら誰にもバカになんてされないわ」
まるで投げやりに言った。呆れた、そんな態度で。
「なんだそれ。他の女のところへ行けって? 俺はもう用なしだからいらないって? さっきは俺を必要としてると言っていたじゃないか。俺といると楽しいって。あれは嘘か。この嘘つき女」
「別に嘘じゃ……まさか、悪魔に嘘つきと責められるとは思わなかった。何がそんなに気に入らないのかわからないけれど、とにかくすべて終わったわ。あなたにはとても感謝している。二週間ありがとう。それじゃ、さよなら、私の恋人さん」
カヤは別れの挨拶を告げると去って行く。けして振りかえることもなく。もはやなんの関係もないと言わんばかりの冷たさだ。今まで俺が何を言っても突き放すようなことは言わなかったのに。
もういいから? 契約は無事終わったから? 今までは途中で投げ出されては困るからご機嫌をとっていただけなのか?
置いていかれた俺はしばらくそこを動けずにいた。
どれだけそこにいただろうか。もしかしたらカヤが戻ってきてくれるかもしれないと思った。でも、いつまでたっても姿が見えない。本当に、一人で帰ってしまったのだ。
「カヤのバカ……」
置いていくなんてあんまりだ。悪魔を利用するなんて、なんて女だ。あんな性悪女見たことない。外見だけじゃなくて性格まで悪いなんて最悪じゃないか。騙された。酷い目に遭った。もう知らん。知らん知らん――っ。
そして、気づけば俺は、カヤの家の前にいた。
……違う。別に気にしているわけじゃない。カヤなんてもうどうでもよかったが、家に送り届けるまでがエスコートだ。だからちゃんと家に帰っているか確認しにきただけだ。酷い女でも、俺は約束を果たす。それだけだ。……誰に言っているのだろうか。なんだかいい訳みたいだと思う。いい訳なんてする必要ないのに。おかしい。そわそわする気持ちがむずがゆい。
家には火が灯っていた。中にいるらしい。煙突から煙が出ている。食事の用意をしているのだろう。カヤは夜会から戻った後は食べない。俺だけが食べる。ということは、今、用意してくれているのは……。
た、食べてやってもいい。捨てるのはもったいないし。それに俺はちゃんと約束を全うしたのだから、対価を支払ってもらってもいいはずだ。
だが、どんな顔をして会えばいいのだ。また呆れたようにため息をつかれたらどうする? そんなの嫌だ。でも、じゃあ、どうしたら歓迎されるのだろう。どうすればにこやかに出迎えてくれる? 考えた。考えて考えて、
――ああ、そうだ。
それは実に名案だった。これならば間違いなくカヤは受け入れてくれるはずだ。
準備を整えて、ドアをノックする。
「はい?」
「俺だ」
「……」
ドアを開けてくれるまで、いつも以上に時間がかかっている気がする。あまりに長いので開けてくれないのかと不安になる。悪魔を不安にさせるなんてやはりカヤは性悪だ。考えられない。
「ちょっとは頭を冷やして……」
言いながら、やっと扉を開けたカヤは俺を見て一瞬凍りついた。そして、
「一体どういうつもり?」
とてもとても怖い顔をした。
「どうしたんだ? そんな顔をして」
「どうしたですって? あなたこそどういうつもり。どうしてライリーさんの姿をしているの?」
「どうしてって、だってこの姿で来れば――」
言いかけて、言葉に詰まった。
なんだ、なんと言おうとした?
だが、俺が考え付くより先に、
「私の気持ちを知ってて、それをからかおうとしたの? ライリーさんの姿で私をたぶらかしてからかうつもりだったのね? お生憎様。前にも言ったけど、私は耳はいいの。あなたがどんな姿に化けても声は変わらないからわかるわ」
カヤはまくしたてた。見たこともない剣幕で、俺が口を挟む隙もない。目には涙も浮かんでいる。俺はその姿に呼吸がままらないほどの衝動を覚えた。誤解だ。違う。からかうつもりじゃない。そう言わなければならないのに言葉が一つも出てこない。
「最低よ。見損なったわ。顔も見たくない。もう二度とこないで」
そういってビシャリと扉を閉められた。
完全な拒絶。俺は頭がくらくらした。どうしてだ。なんでこんなことなっているのだ。わけがわからない。理解できない。俺は何も悪いことなどしていない。どうしてそんな怒られなくちゃいけないのだ。でも、答えてくれる人はいない。ただ、呆然とするしかなかった。
◇
カヤに追い返されてから一週間が経過した。
家にいても気分が晴れない。ボナシュに行くことにした。美しいカクテルを作ってもらおう。そうすれば心が晴れるかもしれない。
「おーロキ、久しぶりじゃないか。どうした、なんか調子悪そうだな?」
着くと常連客のコルーナが近寄って来た。
「食あたりか?」
「よしてくれ。お前じゃないんだ」
「そうか」
言って、クククっと喉の奥で笑った。大食漢のコルーナは腐った物まで食べてよく腹を壊す。幾度も繰り返すので呆れるが、食べ物が目の前にあるとどうもとめられないのだそうだ。
「それで、どうしたんだよ。話してみろよ。ため込んでるのはよくないぜ?」
「……それが、自分でもわからないんだ」
「わからない? なんじゃそりゃ。心当たりぐらいあるだろ?」
「心当たり……」
思いつくのはカヤのことだ。それ以外はない。
恥をかかせて傷つけてやる。俺の目的だ。達成された。カヤは泣いていた。「二度とくるな」と叫んだ。見損なったと、最低だと言われた。悪魔にとって賛辞だ。酷いことをしたということだ。だから気にすることはない。自慢するべきだ。だけど……。
「なんか胸がモヤモヤする」
「胸が? それはやっぱり食あたりなんじゃないか?」
「だから違うって」
もういいから行けよ。とコルーナを追い払う。相手をしている余裕はない。コルーナは「景気づけにうまいものが食いたくなったら言え。いい店を紹介する」とだけ言って去って行った。頭の中は食べることだけだ。平和で結構。
一人になって、俺はまたぼんやりとカヤのことを考えていた。
するといつのまにかマスターが前に立っていた。
「何か作りましょうか?」
言われたのでギムレットをお願いする。
そういえばカヤに初めて会った日、ここでギムレットを飲んで行った。
「その後どうですか? 例のゲーム」
淡緑色のカクテルが出てくる。いつもは美しくて心躍るが今日は何も感じなかった。
「結論からいえば、俺の勝ちだ。相手はすごい剣幕で俺を罵ってきた」
「そうですか。それはおめでとうございます」
「……」
「どうしたんですか? 嬉しそうじゃないですね?」
「わからないんだ」
「わからない?」
「どうしてあんなに怒ったのか、わからない」
おそらく俺が引っ掛かっているのはその部分だ。
「ロキさんが怒らせるように仕向けたのではないんですか?」
「違う」
傷つけようと狙っていたのならほくそ笑んでいた。だが、俺はカヤを傷つけようとしたわけじゃない。
「俺はただ、あいつが好きだという男の姿をして行っただけだ」
そう。カヤの好きだという男の姿に化けて会いに行った。
「そしたら、からかうつもりかって怒って……。俺はからかうつもりじゃなかった。勝手に傷ついたんだ。それで『二度と来るな』って言われた。あんまりじゃないか」
「からかうつもりじゃないなら、どうしてその男の姿に化けたのですか?」
どうして? だって……
「だって、喜ぶと思って」
そうだろう。カヤはあの男が好きだから、その姿で行けば喜ぶ…… って、え?
「――俺は何を言ってるんだ? 悪魔が人を喜ばす?」
一体どうしてしまったんだ? これは何かの冗談か? 言ってしまった言葉にうろたえる。ありえない。だがあの時俺はそう思っていたのは事実で……。
「なるほど」
俺の動揺とは真逆にマスターの穏やかな声が聞こえる。
「あなたは彼女を好きなのですね。その姿でいけば、喜んでくれると――彼女が自分を愛してくれると思ったのですね」
奇妙なことを言うなと思った。好きだとか、愛してくれるとか。だがマスターは全てを理解したように言葉を続けた。
「ロキさんは彼女に恋をしてるんですよ」
「恋? ……いや、違う。恋なら今までたくさんした。だがこんな気持ちになったことはない。恋とはもっと気持ちがいいものだろう。うきうきと楽しい。俺は人間の女と何度も恋をしたから知っている」
「恋とは楽しいだけのものではありません。時に心を憂鬱にさせる。切なくなったり、悲しくなったり、相手のことを考えると夜も眠れない」
切なくなったり、悲しくなったり、夜も眠れない? ああ、そうだ。俺はここのところずっと寝不足だ。目を閉じるとカヤの泣いた顔が浮かんできて苦しくて眠れなかった。
「あなたは今まで芸術品を楽しんでいただけです。女性達に『美しさ』以外期待しなかった。観賞できれば満足だった。でも今回は違う。ただ一方的に見て満足するだけじゃ足りない。その人に喜んでもらいたい。そのために労力を惜しまない。それが『恋』です」
「よしてくれ。俺は悪魔だ。人間を喜ばせたいなんてありえない」
「そうですか? 何もすべての人間を喜ばすわけじゃないですし『特別』ということで自分に許してやってもいいじゃないですか。それに悪魔は自由なはずでしょ? 天使と違って。だから私は堕天したんです。自分の心の赴くままに、好きな人の力になれるようにね。自分の心を偽るほうが悪魔としてどうかしているんじゃないですか? まぁ、ロキさんが否定するなら仕方ありませんが。このまま恋を失ってしまっていいのならね」
――失う。
マスターの言葉に心臓を素手で掴まれてしまったような衝撃が走った。
このまま、俺は、カヤに会えない。永遠に。そんなの嫌だ。会いたい。でも二度と来るなって。顔も見たくないと言われた。会いに行っても拒絶される。
「……俺は、どうすればいいんだ」
「簡単ですよ。素直になればいい。そして彼女に告げればいい。『自分を好きになってほしい』とね」
そう言ってにっこりと微笑むマスターは堕天して随分経つというのに本物の天使のようだった。おそらく、さぞや立派な天使だったのだろう。どんな事情があったか知らないが天界はおしい人物を手放してしまったにちがいない。
それから俺は、カヤの家に向かった。心を決めると待っていられなかった。
幸い、愛を囁くのは得意だ。今までいろんな女に述べてきた。誰もがうっとりと聞き入った。今日はいつも以上に気合を入れてイメージングして、最高に美しい男になっているし。この美貌ならばカヤだって俺を好きになるはずだ。喜んでくれるだろう。自信があった。だから期待して、家を訪れた。
一週間ぶりだが、もうずっと来ていなかった気がする。
ドアをノックしようとした。手が震えていた。これも恋というやつの副作用か。緊張している。妙な気分だった。大きく息を吸って、吐ききるのと同時にノックした。
少ししてカヤの声がした。女にしては低めの、だが耳馴染みがいい声だ。
「俺だ」
「……ロキ?」
カヤが俺の名を呼ぶ。それだけのことなのに胸が高鳴った。
ゆっくりと扉が開く。メガネをかけて、黒い服を着た、どうみても美しいとは形容しがたい女が出てくる。だけど俺はドキドキしていた。一週間ぶりだから尚更むずがゆい。動揺していることを悟らせないように、
「久しぶりだな」
「……一体なんの用?」
だがカヤはつれなかった。俺の容姿を見てもうっとりすることもない。淡々とした雰囲気のままで、他人行儀に言った。
まだ怒っているのか。ここに来るまであった自信など一気に吹き飛んでしまったがひるんではならない。
「話がある」
「話? ……今度は何を企んでいるの?」
「つれないな。仮にも二週間恋人だったじゃないか」
「契約恋人でしょ?」
「契約でも恋人は恋人だ。俺は役に立ったじゃないか。恩人だ」
そうだ。俺はカヤの願いを叶えてやったのだ。恩があるはずだ。
「いいえ。あなたに恩なんてないわ」
「え?」
「私の恩人は、こんなに美しい男ではない。人に笑われてバカにされてしまうような男よ」
「な、なんだよ、それは俺が化けていただけじゃないか」
「そんなの知らないわ。とにかく、私の恩人はあなたじゃない。だからあなたと話すことは何もないわ。帰って」
「追い返す気か!」
「ええ。だってあなたのことは知らないもの。私に話を聞いてもらいたいのなら、私のよく知っているロキの姿で来なさい。そしたら聞いてあげるわ」
「なっ……俺があの姿を嫌がっていること知っているじゃないか。なのになんでそんなこと言うんだ。仕返しのつもりか。二週間、あんな姿で恋人の振りをしたこと本当は根に持っていたのか。だからこうやって俺に意地悪をするのか。なんて女だ。性格がねじれている。俺は二度とあんな姿にはならない!」
あんなみっともない姿で――俺を好きになってほしいなんて言えない。言っても好きになってくれるはずないから。美しい姿で言わなくちゃいけないんだ。もういい、こうなったら、言ってやる。ムードも何もないけど。今の俺が告白すれば、カヤだって聞いてくれるはずだ。けど、
「とにかく、今のあなたと話す気はない。それじゃあね。さようなら」
カヤはまた怒っていた。そして、パタリと扉が閉められた。
拒絶された。
なんで、どうしてカヤはそうやって俺が一生懸命したことを怒るんだ。
それからしばらく玄関前に立っていたが再び扉が開くことはなかった。
◇
醜い男にならなければ、カヤは会ってくれない。
考えられない提案だ。俺は美しいものを愛している。醜いものは嫌いだ。ずっとそうやって生きてきた。これからも変えるつもりはない。それが俺だからだ。カヤだってそれは充分知っているはずだ。それなのにどうして……。
俺へのあてつけか?
それとも俺に会いたくないから、出来ない提案をしたのか?
だとしたら、なんて奴だ。
あんな女、今度こそ本当に知らない。
そうだ。別に俺が相手をしてやるような女じゃないし、ちょっと気まぐれを出しただけだ。本来の、俺に相応しい、見目麗しい女を求めればいい。こだわる必要などない。せいせいする。ああ、バカらしい。時間の無駄だった。つまらない。くだらない。本当に、完璧に、どうしようもないほど。
ふざけんな、ふざけんな、ふざけんなっ――。
だが、一週間経ち、二週間経ち怒りが少し落ち着いてきてもカヤのことが頭から離れなかった。
忘れていかない。今までこんなことはなかった。どんなに麗しい女を抱いても、覚えているのはせいぜい二日だ。たいてい翌日にはまた別の女を求めた。だがカヤは頭の片隅どころか、ど真ん中から消えてくれない。それどころか時間が経過すればするほど、憤りがおさまればおさまるほど、鮮明に思い出される。そして思うのだ。
――会いたい。
俺はどうかしてしまっている。
これが恋というやつなのか。
だとしたら恋なんてろくなものじゃないな。もうどうにもならないのに。どうしようもない。だってそうだろう? 俺にプライドを捨てろと? そして醜い姿に化けて会いに行けというのか? そんな真似するなんて馬鹿げてる。無理だ。出来ない。これ以上無様な真似をするのなんてありえない。カヤに会いに行くなんて絶対に、ない。
「驚いた。本当にその姿で来たの」
「カ、カヤがこの姿なら会ってくれるって言ったんじゃないか!」
カヤの呆れたような顔に俺はすかさず言った。
俺は間違っていない。この姿で来たら会ってくれると言ったのはカヤなのだから。
「……それは、そうだけど……だってあなた、その姿には二度とならないって言ってたじゃない。だから来るとは思わなかった」
「二度となるつもりはなかった。こんな醜い姿、俺のポリシーに反する。でも、カヤをギャフンと言わせるためだ。まだカヤに恥をかかせてなかったことを思い出したんだ。自分のポリシーより悪魔としての誇りを優先するべきだと思ったから、嫌だったけど化けてやったんだ」
俺は理由を述べた。破綻のない真っ当な理由だ。だが、カヤは笑った。
「な、なんで笑うんだ」
「だって、ギャフンと言わせたい人間にそれを言っちゃうなんて……うまくいくものもうまくいかなくなるわ?」
「……」
「ロキはやっぱりロキね」カヤは背を向けて家の中に入っていく。「どうしたの? 突っ立ってないでドア閉めて入りなさい」
当然のように言った。
拍子抜けするほど自然だ。気が変わらないうちに、慌てて中に入る。
訪れるのは三週間ぶりだ。テーブルクロスが薄い青に変わっていた。俺は窓際の定位置に座った。カヤはキッチンに行って、紅茶を入れて戻ってくる。ニルギリの香りだ。カヤの最も好きな茶葉。機嫌は悪くないみたいだ。
「それで、話っていうのは何?」
ティーカップを手に持って口をつけようとしたらカヤが言った。
「私に話があるんでしょう? そう言ってたじゃない」
「……」
まずい。考えていなかった。
俺はカヤに告白するつもりで話があると言った。でも、今は――こんな姿で出来るはずない。カヤは俺の言葉を黙って待っている。
「食事を……そうだ。最後の日、カヤは俺に食事をご馳走してくれるって言ったけどまだしてもらってない」
「そういえばそうだったわね」
「俺は、食事を食べさせてもらう権利があるだろう?」
「食事ぐらい権利なんてなくても、いつでも食べさせてあげるわよ」
あっさりと了承された。
怒られなかったし、拒否されなかった。
安心した。なのに、今度は頭がクラクラしはじめた。緊張が緩んで睡魔がやってきたのだ。張りつめていたものが切れると眠くなる。まともに眠っていなかったから。
「どうしたのボケっとして……熱があるんじゃない?」
カヤは俺の額に手を置いた。
カヤの手は温かいはずなのに、今は冷たく感じる。俺の体温の方が熱いからだろう。
「悪魔も風邪を引いたりするの?」
「……風邪じゃない。頭がボーっとするけど、これは寝不足だ。ろくに眠れなかったから」
「寝不足?」
「そうだ。だから気分が悪い。八時間は寝ないといけないのに……」
「じゃあ、食事が出来るまで眠るといいわ。夕食になったら起こしてあげるから」
そう言うとカヤは寝室へ俺を連れて行ってくれた。
ベッドとドレッサーとクローゼットが置かれているだけのシンプルな部屋だ。色も女が好みそうなパステル調ではなく、深い茶色で統一されている。
それにしても寝室に男を連れ込むなんて無防備すぎやしないか。いつもこんなことをしているのか……。
変だ。これまで関係した女が誰とどこで何をしようと干渉したことはない。むしろ美しいものは広く多くの人と共有されるべきだと思ってきた。だから俺もいろんな女と付き合うし、女もいろんな男と付き合えばいいと思ってきた。なのにどうしてカヤが他の人と関わってるかもしれないと考えるだけで胸が締め付けられるのだろう。
「カヤはこんなことよくするなのか?」
「……こんなことって?」
「こうやってベッドを貸したりするのか?」
「まさか。寝室に人を入れたのは初めてよ。人というか悪魔だけど」
「なんだ、そうなのか」
カヤは「どうぞ」と俺を手招きして横に寝かせ、掛け布団をかけてポンポンとしてから部屋を後にした。
カヤのベッドは今まで眠ったどんなものより寝心地が良かった。ふかふかしているし、優しい香りがする。香水のような人工的なものじゃない。自然で柔らかい。包み込まれているような安心感がある。不思議だ。眠れなかったのが嘘のようにどんどん深い場所へ意識が溶けていった。
――…。
手だ。髪に触れている。撫でられている? 気持ちがいい。
目を開けると、傍にカヤが立っていた。
「気分はどう?」
「……だいぶスッキリした」
あれは夢か? それともカヤが撫でていたのか?
確かめたかったが、違うと言われるのが気まずいから聞くことを躊躇っていると、
「ご飯食べられそう?」
「食べられる」
「そ、じゃあ、起きてきなさい。待ってるから」
食卓に戻るとスッカリ準備が整っていた。席に座る。
「いただきます」
「召し上がれ」
久しぶりのやりとりだ。カヤと交わすこの定番が俺は気に入っている。
食卓にはこれまで出された中で俺が特に誉めたものばかりが並んでいた。今日の食事は当たりだ。口に運んでいく。
テーブルの上の料理が減っていくのをカヤは嬉しそうに見ていた。それが最初は俺も嬉しかった。……だが、次第に気持ちが滅入っていった。料理を食べ終えてしまったら帰らなければならない。お礼はしてもらった。ここへ来る理由はもうない。心の中に広がっていく、不安、寂しさ、悲しみ、焦燥。俺は完全に食事の手を止めた。
「どうしたの? おいしくなかった?」
「違う」
「じゃあ、気分が悪い?」
「違う……」
俺はまた食べ始めようとした。カヤは俺が食べっぷりがいいことを喜んでくれるから。ちゃんと食べなくちゃいけない。だが、
「無理して食べる必要はないわ。体調が良くない時は無理してはダメよ」
カヤはそう言って静止した。そしてまだ半分ぐらい残っているのに料理を片付けはじめた。
全部食べなかったこと、ガッカリしているのではないか?
カヤの顔を見るが平気そうだった。
俺が食べても食べなくてもどうだっていいのか? 気にもしないのか?
余計に気持ちが滅入った。食べれたのに……食べればよかった。そしたらカヤは誉めてくれたかもしれない。
テーブルを片付けると紅茶を出してくれた。今度はダージリンだ。
「デザートは?」
カヤが作ってくれる料理で、俺が最も好きなものだ。いつもはお茶と一緒に持ってきてくれるのにない。
「今日はやめときなさい。気分が悪いんでしょう?」
「……俺はデザートが一番楽しみなのに……」
「ダメよ。体調が悪いんだから。我慢しなさい」
「……だって……」
そんな……これが最後なのに……俺は悲しくなった。
でもそれをどう伝えていいかわからない。うつむくしか出来ない。この紅茶を飲んだら俺は追い返される。そしたら俺はどうしたらいいのだろう? 考えても何も思いつかない。だけど、
「具合が良くなったらいくらでも作ってあげるから」
カヤは言った。
予期せぬ言葉だった。
俺が怯えていたことをあまりにアッサリ解決するからにわかに信じがたく、
「……それは、また来てもいいってことか?」
「言ったでしょ? 食事ぐらいいつでもでも作ってあげるって」
「本当か? じゃ、じゃあ今日は我慢する」
カヤは頬を撫でてくれた。
◇
「ロキは本当に私の料理が好きなのね」
あれから俺は毎日カヤの家を訪れている。
「ああ。カヤの作るものは素晴らしく芸術的だ」
それは嘘じゃない。だけど、本当はカヤに会いたかったからだ。こんな醜い姿では拒絶されるに違いないから言えないけど。
「ふふ。そう? 喜んでもらえると作り甲斐があるわ」
カヤは嬉しそうだ。俺も嬉しくなる。告白なんて出来なくても、こういう日々がずっと続くならそれでいい。
今日のデザートはプラムのタルトだ。真ん中から外側へ向かってカットしたプラムが花びらののように円状にタルト生地を埋め尽くしている。見た目も香りも申し分ない。
俺が浮かれながらケーキを頬張っている横で、カヤはドレスの仕立てを始めた。淡い桃色の生地を取り出して丁寧に印をつけていく。女が好みそうな色だ。きっと可愛らしいドレスが出来上がるのだろう。
「また新しいドレスを作るのか?」
「そうよ」
「前のドレスが出来たら、暫く休むと言ってなかったか?」
「これは注文の品じゃないの――私のよ」
――え?
「どうしてカヤのドレスを作るんだ? もう夜会には行かないって言ってただろう? 妹を安心させたから行かないって」
「ええ、最初はそう思ってたの。でも、気が変わった」
何? 気が変わった? それはどういうことだ。
カヤは俺の方を見ていた。眼差しは穏やかだった。
「私ね、小さい頃は夢見ていたの。いつか素敵な人が現れて私をお姫様に変えてくれるシンデレラみたいな物語を。でも、大きくなるにつれて、私には王子様は現れないんだってわかってきた。だから変わりに、得意の裁縫で、女の子をお姫様にするの。それが私の役割よ。そしてそれを喜んでもらうことが私の幸せなんだって思ってた」
カヤは少しだけ寂しそうだった。
「そんな私の前に現れたのは美意識の高い悪魔だった。悪魔は私の容姿をバカにして意地悪をしようと近づいてきた。でも、不思議ね。我儘で好き勝手言う悪魔をなんだか憎めなかった。その悪魔は言ったわ。『美しさを求める心を否定するのは愚かだ』ドキっとした。私が誤魔化してきたことだったから。私だって本当は綺麗になりたい。そう思うことをおこがましいって押さえつけてきたけど、その気持ちに素直になることはおかしくないって悪魔は私に教えてくれた。嬉しかった」
俺の言った言葉をカヤがそんな風に受けとめていたなんて知らなかった。美意識の話など、興味ない者にしたら退屈だろう。だが、カヤは俺の話をしっかりと覚えていてくれた。そして、考えていたのか。不思議な気持ちになる。真剣に話を聞いてもらうというのは悪いものじゃないんだな。呑気に思ったが。
「だからね、頑張ってみる気になったの。もちろん、どんなに頑張っても持って生まれた容姿には限界はある。でも私なりに、出来るところまでやってみようって思った。そしたらいつか誰かが私のことを好きだと言ってくれるかもしれない。そんな風に思えたのもあなたのおかげ。だから、あなたには感謝してる。ありがとう」
なんだそれ。悪魔に礼? 俺の言ったことがきっかけでそんなことを言い出したのか? ありえない。信じられない。だから信じない。だがカヤはいたって真面目な顔をしていた。俺はもう一度確認する。
「綺麗になって、誰かと恋するのか。そのために綺麗になろうとするのか」
「ええ、そうね。そんな日がくればいいと思うわ」
さっきまでのいい気分は粉々に打ち砕かれて世界は一瞬で真っ暗闇に堕ちた。胸に細い針を何百本と刺されたような痛み。一本でも急所を貫かれたら痛いのに、それが大量にだ。息が出来ない。喉が熱い。
「ねぇ、私が少しでも綺麗になったら、いつかまた踊ってくれる?」
カヤは無邪気に笑っていた。
なんで笑ってるんだ?
「……なれない。カヤは綺麗になんてなれない!」
腹の底から言った。綺麗になって誰かと恋するなんて……諦めさせなくちゃいけない。だから、言った。
「どんなに頑張っても、カヤは綺麗になんてなれない! だからそんなことやめた方がいい」
「……そりゃ、美人にはなれないかもしれないけど、普通に見れるぐらいには……ロキだって言ってたじゃない。もうちょっと明るいドレスを着ればそれなりに見られるようになるって」
「ならないよ。絶対。だからやめた方がいい」
「せっかく頑張ろうと思ったのに、どうしてそんなこと言うの?」
「嫌だから」
「何が嫌なの?」
「他の誰かと恋するために綺麗になるなんて! そんなの嫌だ。絶対嫌だ。だったら綺麗にならなくていい。今のままで、ずっといたらいい。誰のことも好きにならないでいたらいいんだ」
そうだ。カヤは誰のことも好きにならないでいいんだ。そんなの認めない。嫌だ。だって、
「どうして他の奴と恋するなんて言うんだよ。なんで俺が目の前にいるのに……」
胸が張り裂けそうだった。どうして、いつもいつも……
「カヤは俺のことをちっとも見てくれない。カヤに好かれようと一生懸命になってしたことも怒った。あの男に化けたのだって、あの男の姿で来たらカヤが喜ぶと思ったからなのに、バカにしてってすごく怒った。綺麗な男の姿なら受け入れてくれると思ってきても、そんなのロキじゃないって、何企んでるのって怒った。だから仕方なく、この姿で来たんだ。こんな姿、本当は嫌だけど、カヤが会ってくれるから……でもこんな醜い姿で告白なんてできない。好きになんてなってもらえない。でもカヤに会えればそれでいいって……なのにカヤは、俺の気持ちなんて無視して、他の男と恋するとか言う……」
カヤは俺の言葉を聞きながら唖然としていた。惚けたような、そんな顔だ。
「……あなたは私が好きなの? だから毎日来てたの? ご飯を食べるためじゃなくて?」
「……」
「信じられない。だってあなたは美しいものが好きでしょう? 私なんて相手にしてくれないと思って……だから諦めてたのに」
「……諦めて、た?」
それは……
「妹に言ったことは嘘じゃない。私にはあなたが必要よ。あなたといるととても楽しいから」
楽しい? 俺といると楽しいのか。そんなことを言われたのは初めてだ。美しいから一緒にいたいと言われることはあっても、楽しいだなんて。だがその言葉は、今まで聞いたどんな称賛の言葉よりも俺の心を満たした。
「それは本当か?」
「ええ。性格の悪い悪魔といると楽しいなんておかしいけど」
「じゃあ、俺と一緒にいてくれるのか? 俺のこと好きになってくれるか?」
「今もとても好きよ」
「嘘だ。だって今までそんなそぶり見せなかったじゃないか!」
「だから、それはあなたが美しいものが好きだっていうから私に好かれても迷惑なだけだろうと思って……」
「なんだそれ……なんだよ……」
カヤは両手で俺の顔を包みこんだ。
「そんなに泣かないの。悪魔を泣かすなんて自分がとんでもなく非道な人間に思えてくるわ」
さっきからボロボロと目から何かこぼれると思っていたが、これが涙か。カヤが俺の顔を包みこんだまま、親指で目元をぬぐってくれるが、後から後から湧きあがってきてどうやって止めたらいいかわからない。鼻もグシュグシュする。
人間が泣きじゃくるところを見たことがあるが、俺もあんな感じなのだろうか。あの時はうんざりした。みっともないと思った。そんな姿を俺もカヤに晒している? でもカヤが俺を見る目は優しげだった。まるで小さな子どもをあやすみたいに俺を撫でてくれた。それがとても心地いい。でも、あまりにも泣きやまないから、タオルを渡された。そしてカヤはどこかへ行こうとする。呆れられてまた置き去りにされるのかと思ったら、さらに涙が溢れてきた。俺はカヤの後ろを追いかけようとした、が
「座ってて。飲み物作ってくる」
「……戻ってくるか? どこにも行かない?」
「ここは私の家よ? どこにも行かないわ」
だから俺は座って待つことにした。
待っている間、どうにか涙は止まったが、カヤが本当に戻ってくるまでそわそわした。姿が見えたときはほっとした。
「はい、これ、飲んで?」
「……なんだ、この甘ったるそうな飲み物は」
「ホットミルクよ。落ち着くから飲んで。熱いからよくさましてね」
ホットミルクは白い膜みたいなのが舌に絡んで妙な飲み物だったけど、言われた通り飲んでいると落ち着いた。俺が飲みきるまでカヤは何も言わなかった。飲み終えてからも何も。
たまらずに、俺が先に口を開いた。
「それで、」
「何?」
「カ、カヤは……俺と、……結婚してくれるのか?」
「結婚! ……どうしてそんな話になるの?」
「どうしてって……い、嫌なのか?」
また目頭が熱くなってくる。カヤはぎょっとして慌てたように言った。
「嫌とかそういうことじゃなくて……そもそも悪魔に結婚なんてあるの?」
「ない。悪魔にはないが人間にはあるだろ。人間の男は自分が好きな女と結婚するものだ。結婚したら、その女は他の男とはもう恋はしない。カヤが他の男と恋をしないように結婚する」
「目的がちょっと違うけど……」
カヤは苦笑いした。なんで笑うのかよくわからないが、そんなことはどうでもいい。
「してくれるか?」
「……わかった」
「じゃあ……」
何と言えばいいか言い淀む。こんなムードもなく流れもなく不自然な状態は初めてだ。今までの経験など役に立たない。格好悪い。でもカヤは察してくれたようだ。静かに目を閉じた。
そして俺はカヤにキスをする。
しっとりとした柔らかな唇に触れると心臓が高鳴った。
たかだかキス一つで。俺はどうかしているのか。
唇と離すと、カヤは目を開けた。その目が俺を捉えて、大きく見開かれた。
「どうして姿を変えているの?」
「だって、醜男ではラブシーンは決まらないだろう。俺の美意識が許さない」
「……ちっとも変わってないわね」
「当然だ。悪魔は簡単にポリシーを変えたりしない。俺は美しいものを愛している。だが、カヤは特別だ。どんなに不細工でもかまわない。醜く老いていってもいい」
カヤは嫌そうな顔をした。
「そんな顔するな。もっとブスになる」
「あなたはやはり悪魔ね。それもとびきり意地悪な」
「カヤの方がずっと意地悪だぞ。俺はいっぱい辛い思いをした。俺よりずっと悪魔みたいだ」
カヤは今度は難しい顔をした。その顔はどうしたって美しいとは言い難い。でも愛おしいと思う。やっぱり俺はどうかしてしまったのだ。これが恋というやつなのか。涙が出たり、ドキドキしたり、夜も眠れなかったり、本当にろくなものじゃないな。
読んでくださりありがとうございました。
当該作品は、以前運営していた「アナログ電波塔」というサイトに掲載していた物語を少々改稿したものになります。
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