40ですが……ダメでしょうか?
年甲斐もなく、パン屋の若い店員に恋をした。
「いらっしゃいませ。あ、今日もコーンパンですね。ありがとうございます」
本当に、年甲斐もなく。同じパンを買い続けた。
「ふふ、私もこのパン、好きなんです」
年甲斐もなく……とりとめも無い会話で、笑った。
一回りは違うであろう、少しだけ茶色に染めた長い髪が目について、苦笑いを返してしまった。
朝の僅かな時間が、その日の活力と化していた。
惰性で生きていた自分に、何か言い難い力みたいな物が溢れるのが分かった。
しかし給料日前は、パンを買うお金も無く、もどかしい日々を送るしかなかった。
「135円のお返しです。お仕事、頑張って下さいね」
少し笑顔を傾けてくれる彼女の手は、とても自分のとは、違いすぎた。
オフィスの鏡には、生え際の後退が顕著な冴えない中年が映っている。実に見苦しい。
ため息を押し殺し、コーンパンをかじった。
「縁談があるんだが、どうだ? バツイチだが年相応だ。悪くないだろ?」
重役らしい押し付け方に、しばし言葉を忘れ、じっと写真を見た。太めの、シワのある、皮膚の垂れた、オバサンだった。
写真を受け取り、暫く考える時間を貰い、その場から逃げた。
「……お疲れ様でした」
夜の十時。僅かに残った仕事を鞄に詰め、賑やかな駅前を歩く。
居酒屋から若いグループが出て来て、二件目をどうするか話していた。
通り過ぎざまに、少しだけ茶色に染めた長い髪が見えた。後ろから前に、片側に寄せた髪は他人のそら似に思えなかった。
違って欲しい。そう思いながら前だけを見て歩き続けた。
「何だか眠そうだね。やっぱりパン屋さんは早いのかい?」
もやもやとした心を落ち着かせ、意を決してたずねてみる。
「昨日、久し振りに大学の仲間達と飲んじゃいまして」
聞かなければ良かった。と、自分勝手な考え。
若者には勝てない。
そう思いたくないのだ。
なんと惨めな男だろうか。
話題作りの為に、さして好きでもないコロッケパンを買い、言葉を失い店を出た。
コロッケパンを部下にあげ、その日は空腹をお茶でごまかした。
「コレ美味いッスね! 何処で買ったんスか?」
しまった。そう感じたのは買った店を教えた直後。
私があのパン屋に通っている事がバレたら、年甲斐もなくあの娘に熱を上げている事が露見してしまうかもしれない。
慌てて訂正しようにも、もう、既にどうしようもなかった。
「あ、お久し振りですね」
私は苦笑いで返した。
部下に不審がられない様に、暫く足を向けなかったのだ。
しかし部下が買いに来たような気配は無く、私の心配は杞憂に終わったようだ。
「あ、仕事帰りですか?」
私は生まれて初めて神に感謝をした。
夜の交差点で、偶然にも彼女と会ったのだ。
白いニットのセーターがよく似合っており、私は自分の胸がザワつくのをすぐに感じた。
その日、とても沢山の話が出来た。
幸せだった。
「彼女なら結婚して辞めたよ」
給料日翌日、彼女は居なくなっていた。
出社する気にもなれず、噴水の縁に腰掛けコロッケパンをかじった。不味くはないが、好きにはなれない味だった。
コーンパンは帰ってから食べようとしたが、手を滑らせ噴水に着水。私の恋は終わりを告げた。
「いらーしゃせー」
翌日、別な若い娘が働いていた。
見るからに住む世界が違う、青い髪の毛をした細い女だった。
思わず目つきが険しくなり、眉間にシワが寄った。
「ん? このパン、マジ美味っしょ? ウチここのパン好きで働いてるんですよって話」
聞いてもいないのにペラペラと喧しい店員だ。
「でもコロッケパンは無しよりの無し。あれはムリ」
「……私も、そう思う」
感情の起伏すら無い、平坦とした返事を返した。
「オジサンいい趣味してんね、マジ相性いいんじゃね? ウケる!」
手を叩き豪快に笑う女に、俺は何を返すべきか困ることしか出来なかった。
「オジサンいくつ?」
「……40です」
何故こちらが言葉遣いに気を遣わねばならんのか、理解に苦しむ。
「いや? 全然アリっしょ! てゆーか、アリじゃね? はい、番号」
レシートの裏に勝手に電話番号を書かれる。
知らない人に、そんな簡単に番号を教えてはいけません。
「安心して? 好きな人にしか教えないタイプだから」
「何をそんな……」
もう帰ろうと、袋を手に歩き出す。
「アタシ二十歳だけど、ダメですか?」
「…………」
「オジサン好きになったら、ダメですか?」
「…………」
ダメだろ。
君のような未来ある若い娘が、冴えないオジサンに興味を示してはダメだろ……!!
「アタシ、火曜と水曜は一日居ますから!」
店を出る私の背中に、若い大きな声が掛けられた。