序章-2 旅立ちの列車
この地図を見れば見るほど、大事な記憶が欠落しているという事実が私に振り向いてくる。どこか遠い世界のわずかな記憶が私に流れ込んできているような、普段なら見逃してしまうその微かな感覚は不思議と能が過剰反応しているようだった。
青春18切符を買って始発電車に乗った私は、帰省先を目指して鈍行列車の旅が幕を開けた。この旅路が、永遠の旅の始まりだとは知る由もなかった。
東京を出発し、数時間。普通の旅行なら新幹線で走り去ってしまう、駅弁を頬張る間に通過してしまうような片田舎に差し掛かっていた。普通列車は各駅に停まり、乗り降りする人がボタンを押してドアを開け閉めするようになった。
そういえば、田舎の電車に乗ったのは生まれて初めてかもしれない。新幹線で年に一度家族で帰省する。学校行事で修学旅行に行く。それ以外の旅行をした記憶がない。大学生になって、時間もお金も余裕ができてやっと旅に出ることができたのだ。自分で計画する旅行というのはこんなにもわくわくするものか。この解放感は妹たちにも味わせてあげたい。
車窓を眺めながら、ぼんやりと脳を休ませる。辺り一帯、田んぼと畑に囲われたのどかな風景がつづいている。遠くには樹林や山脈が見える、とてものんびりとした町だ。
それに比べ現代人は忙しすぎる。子どもは小学生から高校生まで、習い事だの塾だのに行かされ、部活に受験、やることが多すぎないか。大人になっても、大抵の人間は仕事に追われているイメージだ。趣味に割ける時間はさらに限られる。好きな本に読みふけったり、旅に出る時間なんてないだろう。
私は趣味といえるものに打ち込んだことがない。もはややるべきことだけで手一杯だった。でも、何かをきっかけにして、人生を豊かにする学びというものを理解できた。今いる大学に憧れたのはそこからだ。今までは大学に入るための勉強が趣味だった。今は、大学の学問が趣味だ。
え、そのきっかけはどんなものなのだって?それはね、高校二年の時、進路に迷って誰かに相談したんだ。その誰かが思い出せなくて自分でももやもやしているんだけど、私はその時から今の大学で学問をするためだけに苦痛な勉強に耐えてきたんだよ。
それに学問が趣味だなんて言っちゃったけど、そんな大層な話じゃないな。前期はレポート提出してテスト対策するだけで手一杯だったよ。
へえ、大学生が真に学問と向き合うのは、長期休暇中、あと研究室に配属されてからなんじゃないかな、か。講義なんてほとんど知識を蓄えるための準備体操。そしてただ知識を蓄積するだけじゃなくて、きちんと咀嚼するからこそ、自らの礎となるんだね。いやあ、お姉ちゃんの言葉は重いですなあ。
「……さん、お客さん、降りてください、終点ですよ」
ああ、どうやら眠ってしまったようだ。車掌さんに礼を言い、ホームに降り立った。少し涼しい空気がおいしくて思わず深呼吸してしまう。駅のあたりを見回すともう山岳地帯だ。
少し歩いた先に乗り換え先の電車が停まっていた。もう出発するのかと思い急ぎ足で向かったが、まだ誰も乗っていない。時刻表を見ると出発まであと40分もあった。時刻表を二度見した。時刻表の全体像が見えてくる。時刻表とは思えないほど数字の密度が小さいんですが。
駅の周り、山。コンビニも無ければ駅員もいない。ホームに屋根とトイレが辛うじてあるだけだ。ああ、地元のあの騒がしい駅が恋しい。
車内のエアコンもついてなかったので、とりあえず古びたベンチに座った。大丈夫、私の体重にはまだ耐えられるようだ。
こまめな水分補給が大事、鞄からミネラルウォーターを取り出し口にした。何だこのぬるま湯は。
周りは昆虫たちの大合唱だった。これが本来の地球なんだなあと思いながら、空を見つめた。さっき見た夢が何かひっかかる。よく覚えていないが、私の大事な人と楽しくしゃべっていたような。思い出そうとするも、暑さのせいか輪郭がぼやけてしまった。考えるのをやめ、何か涼しいものを探しに行こう。
改札なんてものはないので、私は近くを散策した。建物も廃墟で、まるで別世界に来てしまったようだ。森の中でも太陽は容赦なく私を熱する。
自動販売機も見当たらないので、いったん駅に戻ろう。と来た道を引き返したのだが、駅がない。木々が生い茂って森が永遠に続いていた。
これも暑さのせいなのか。そういえばさっきの電車で寝てしまってから冷たい水分が取れていない。体は少しだるく熱中症かもしれない。
森の中で意識が遠のいていく。