入学2
そんなことを思い出していることが顔に出ていたようだ。ずい、と急にヘンリーの存外整った顔が近付いてきて鼻先が少し触れた。
「もう師匠と呼ぶ必要はない。心配する必要もない。俺も学園へ行く」
それだけ告げて颯爽と背を向ける師匠もといヘンリーを唖然と見つめる。
「え……?」
聞いてなかったんですけど、という呟きは誰にも聞かれずに春の風に攫われていった。
入学式当日の朝、慌ただしく馬車に乗り込むと当然のようにヘンリーが既に座っていた。さすがに身なりは整えている。
「おはようございます。良い朝ですね」
「………」
チラリとこちらを見て頷く。「……ああ」
小さな声で聞き逃しそうになったが、相槌もあったということは会話をしてもいいということだろう。この5年の間に彼のことは大体分かってきていた。
肩越しにロイがヘンリーに小言を言っているが、そちらは完全に無視されている。
「ロイ、あなたは荷の最終点検があるのではなかったかしら」
入学と同日に入寮しなくてはいけないのだが、生徒用の馬車の入り口と荷物の搬入口は別々になっている。ロイには搬入の方を任せていた。
後ろ髪を引かれながら他の侍従たちに引っ張られていくのを見送っていると、「座らないのか?」と低くかすれた声で言われる。
初めて会ったときには敬語だったのに、それだとたくさん口を動かさなければいけないことに気付いたと真剣な顔で言われたときは笑いを堪えられなかった。本人は至って真面目なのが面白かった。だからと言って気安い口調で話しても良いかと説明して問いかけてくる生真面目なところも、一度懐に入ってしまえば親身になってくれるところも彼の良いところだ。もちろん良いところばかりではないけれど、彼は間違いなくアリスの味方であり家族だ。そんな彼が屋敷内だけでなく学園にまでついてきてくれるのは心強い。
「ついてきてくれるとは思っていませんでしたが、あなたがいてくれて良かったです」
学校生活に良い思い出はない。前世の嫌な記憶ばかりを思い出してしまう。膝の上で固く握った両手を見つめてアリスは言う。「たくさんのことを学びたい。ここまで努力してきたんだもの。絶対に諦めないわ」
瞼を閉じれば今でも息子の顔が浮かぶ。ここまでくるのに5年もかかってしまった。息子は今、どうしているのだろう。何歳になっているのだろう。どれくらい時間は、世界は離れているのだろう。
こんなハレの日なのに気分が心から晴れることはない。じんわりと目に熱いものが込み上げてくる。
「目を開けてみろ」
しばらく沈黙していたヘンリーがおもむろに口を開く。
涙を散らすように瞬きをした。
「まぁ……すごい……」
馬車の中は暗闇に包まれていて、ちらちらと星々が輝いていた。どこからか風が吹いてアリスの長い髪を撫でていく。息を吸い込めば草花の良い匂いがした。
「これは……?」
ヘンリーが魔術で見せている景色ということは分かるが、こんな見事な幻覚は教えてもらったことがない。