彼女の新生活1
黒狼国。
北の青嵐、東の緑蓮、南の紅雷と並ぶ西の大国だ。
この国々は、事あるごとに戦となり、特に緑蓮の王は代々野心家で、あちこちに喧嘩を売るので小競り合いが絶えない。
その状況に業を煮やした数代前の青嵐の国王が、当時属国だった紅雷と、それまでほとんど国交のなかった黒狼と友好関係を築き、この三国で緑蓮に睨みを利かせることで動きを封じ、現在に至るまで四国ともに大変平和である。
そんな平和な時代の黒狼国、王国騎士団第三隊第五席が、カイル・アズーロの身上である。
平民出身のカイルだが、地位と金、そして少しの憧れを以て騎士を目指すに至り、現在は…。
「リル、まだ寝るな! もう少しだから!」
「ふぁい…。おきてるよ、おとうさん…」
「目を開けなさい! 風呂で寝たら死ぬぞ!」
騎士団寮の大浴場で、突然おねむスイッチが入った娘の頭を必死で洗っていた。
娘のリルを連れて長旅を終え、寮に着いたのは夕方だった。
くまさん、否、バーナードを筆頭とする筋肉集団に構い倒されはしゃぎまくり、食堂で提供された大皿料理にすっごーいと跳びはねまくり、他の団員が風呂を済ませるのを待つために一度カイルの部屋に戻ると、おとうさんのおへやだ!と探検を始め…。
そしてようやく風呂に入ると、突然のお休みタイムに突入した。
頭をぐらぐら揺らす娘を必死で支えながら湯をかけ、ゆっくり浴槽につかることなど出来るはずもなく、そのまま抱えて脱衣所に戻る。
そしてタオルを手に取る頃には、リルは既に寝息を立てていた。
完全にはしゃぎ疲れだ。
無理もない。ここまで環境が変わり、初めて会う人、初めて見るものに囲まれた子どもにはしゃぐなという方が無理がある。
疲れを癒すはずの風呂でますます疲弊したカイルは、完全に寝落ちしたリルの体を拭いて寝巻きの白いワンピースを着せ、自分も寝巻きを羽織ると、大きな溜め息をついて脱衣所を出る。
と、そこには数人の団員が。
「だ、大丈夫かカイル」
「廊下まで聞こえてたぞ! 寝たら死ぬぞって」
「雪山かと思ったわ」
心配しているようでいて、面白そうに笑いを噛み殺している。
それはそうだろう。数年前を期に、遊びも女も生活から追い出し、ひたすら騎士として修練を積んできたあのカイルが、小さな女の子に振り回されているのだから。
「しょうがないだろ。風呂の間は起きててくれないと、大変なんだよ」
「だったら俺らと一緒に入ればよかったじゃん。はしゃいでる間は寝ないだろ」
「却下だ。娘の体見たら殺すぞ」
そう言ったカイルの声は冷気を纏い、団員たちは口許をひきつらせた。
まだ5歳じゃん。
全員がそう思ったが、とても声には出せなかった。
黒狼国は今日も平和である。
部屋に戻ってベッドにリルを寝かせ、一息つく。
リルの小さな唇から寝息が聞こえる。何とも幸せそうな寝顔だ。
救貧院を出立してから、リルは毎日はしゃいでいた。
自分のことをたくさん話し、カイルの事を何でも聞きたがり、よく食べ、よく笑い、よく眠る。
出会ってからまだ数日、子どもと過ごすことがこんなに大変だとは思わなかった。これまでも平民上がりだということで苦労したり、吐くほどつらい稽古を経験したこともあったが、子どもと過ごすのはそれとは全く違うベクトルの大変さ。
なのに、この幸せそうな寝顔を見るだけで報われた気分になるのだ。
本当に不思議な気分だが、悪くない。
リルの頭をそっと撫でると、娘の口許がわずかに綻んだ。
それを見たカイルの口許も自然と緩む。
「リーナ。リルは、今日も元気だったぞ」
あの夢を見た日から、毎晩呟いている言葉。
きっと彼女もリルを見ているだろう。
そして、きっと自分と同じように思わず微笑んだりしているのだろう。
「…ううん…。きんにくまつり……」
とんでもない寝言を聞いた気がする。
ファナ姉さん、シーラ姉さん。うちの子に何を刷り込んでやがる。
いつか会うことがあったら正座で説教してやるからな。
この風呂のくだりはノンフィクションです(笑)