彼女はがんばる3
カイルはスケッチブックの上部に、茶色のクレヨンで『リル・アズーロ』と大きめに書いた。
子どものいる先輩騎士に相談したところ、自分の名前から教えてやる方が飽きないと聞いたのだ。
「これがリルの名前。こっちがリルで、こっちがアズーロだ」
「わあ…」
リルは瞳を輝かせている。
「下に真似して書いてみな」
「うん」
オレンジのクレヨンを手に取ったリルは、父親が書いた自分の名前を何度も見ながら真剣に書いていく。
カイルは、リルが書いている間はじっと見守り、それから一文字ずつ間違いや書き順を訂正していき、空いたスペースにもう一度書くよう促す。
リルは素直に父親の話を聞き、何度も何度も自分の名前を練習する。あまりに真剣な様子に、何となくリルが書いている間に息を詰めている自分に気づき、カイルは苦笑する。
「うん。今の上手に書けたな」
「ほんと?」
「ああ。じゃあ新しい紙にもう一度書いてみな。もう見本なくても書けるか?」
「リル、かけるよ!」
そして新しい白い紙に大きく書かれたリルの名前は、自信に溢れて力強いものだった。
「すごいな。もう覚えられたのか。これ部屋に飾ろう」
「えっほんと!?」
「今度額縁買ってくる」
うわぁ親バカ、とその場にいる全員が思ったが、二人とも何とも言えず満足そうなので茶々を入れるのは憚られた。
「じゃあ次は教本使って…」
「ねえねえおとうさん」
「ん?」
「おとうさんのなまえはどうやってかくの?」
カイルは教本をめくる手を止めた。
「…俺の名前?」
「うん! リル、おとうさんのなまえもかく!」
「…額縁二つ買わなきゃな」
カイルは新しいページに、自分の名前のスペルを書いた。
「これがカイル。アズーロはさっきと一緒だ」
「へええ…! ルだけリルといっしょ?」
「! そうだ、リルは賢いな」
カイルが頭を撫でると、リルは得意気に笑顔を浮かべ、もう一度父親の名前を見つめる。
「おとうさん」
「ん」
「おかあさんのなまえもかいて!」
談話室から音が消えた。
同じ部屋にいて雑談をしていた団員も、親子のやりとりを見守っていた団員も全員、息を呑んで親子を見つめている。
リルの母親の事は誰も知らない。
団長やアルフォンスも、既に亡くなっていることしか知らないのだ。全員の興味を引いたのも無理からぬ事だろう。
ましてやここにその二人はおらず、ここにいる連中は母親の生死すら知らない。
リルは彼女の娘だから、もちろんごまかすべきではない。リーナという名はこの国では珍しくないから、今ここにいる連中がそこから伯爵家に辿り着くことはないだろう。
「リルは、お母さんの名前、知ってるか?」
動揺を隠そうとして、いつもより平坦な声が出た。しかしリルは気にしていないようだ。
「しってるよ! シスターがおしえてくれたの。リーナっていうんでしょ?」
「そう、リーナ。…こう書くんだ」
カイルは自分の名前の下に、その名を書いた。書いてから、彼女の名を書くのが初めてだと気づく。
呼んだことは何度もあるのに、一度も書いたことがないなんて、不思議な感じだ。
「リルのリ、とおなじ!」
「そう。リルの名前は、お母さんとお父さんの名前を少しずつもらったんだよ」
名付けたのはリーナだ。名前の由来はシスターから聞いた。リルを救貧院で預かることになった時、リーナの出産に立ち会った産婆から教えてもらったと言っていた。
「リルのなまえ、おとうさんとおかあさんのなまえがはいってるの?」
「そうだよ。お母さんがつけた名前だ」
リルは輝く瞳で両親の名前を見つめていたが、突然カイルに抱きついて来た。ぎゅうっと強い力ですがり付いてくる娘を、カイルも抱き締め返す。
リルの名前は、リーナが遺した娘へのプレゼントだ。家族を繋ぐ名前だ。
きっと幼いながらに、娘はその事実を噛み締めている。顔が見えなくても、赤くなった耳がそれをカイルに伝えてくれる。
子どもらしい温かな体温を持つその背中をとんとん、と叩いてやると、むうう、という声を上げてリルが顔を上げた。
もしかしたら泣いているかも、と思ったが、その頬は紅潮し、母親譲りの瞳をきらきらとさせている。
「リル、おとうさんとおかあさんのなまえ、れんしゅうする!」
そう元気に言い放つと、カイルが書いた二人の名前をまたじいっと見つめ、新しい紙にクレヨンを押し当てた。
カイルは思わず頬を緩め、一生懸命机に向かう娘を見守った。
「ちょ、なに今の…」
「何でか泣ける…」
「ハンカチ貸して」
「おかしいな、滲んで新聞が読めない」
「…どういう状況だいこれは…」
父娘の周りで、筋肉集団が嗚咽を堪えるというよく分からない、何とも言えない光景に、通りかかったメアリが唖然としたのは言うまでもない。
余談だが、この数日後、カイルとリルの部屋にはそれぞれの名前が書かれた額縁が三つも飾られたという。