彼女はがんばる1
『あなたの髪は、まるで稲穂のようね』
そう言われたのは、いつのことだったか。
『父の治める領地にね、とっても広い麦畑があるの。金色の稲穂が太陽に照らされて、綺麗なのよ』
この柔らかい声が好きだった。
彼女にそう言ったことは、一度もなかったけれど。
『太陽の下で見るあなたの髪も、とっても綺麗ね。私、好きだわ』
言えば良かった。お前のその声も、優しい笑顔も、小さく頼りないように見えて、しっかり握り返してくるその手のひらも。
お前が俺の髪を、瞳を、その全てを、好きだと言ってくれたように。
カーテンの隙間から差し込んで来た柔らかい光に瞼を刺激され、ゆっくりと目を開く。
最初に目に入るのは、小さな娘が絵本を抱き締めて寝息を立てている姿だ。
昨日お土産にと買ってきた絵本は、例のくまが登場する森の動物シリーズ一作目で、『はるのもりのおはなみ』というタイトルだ。これはリルを大いに喜ばせた。寝る前に三度も読まされるほどに。
まあ、あれだけ気に入ってもらえれば買ってきた甲斐があるというものだ。
リルのお気に入りのきつねが酔っ払って大声で歌うシーンでは、声を上げて笑っていた。適当に節をつけて歌ってみたものの、まさか三度も歌わせられるとは思わなかったが、娘が大いにご満悦なので良しとする。
朝の光がリルの髪に降り注ぎ、きらきらと輝く。
ああ、リーナが言っていたのはこういうことかと初めて知る。
確かに、稲穂のようでとても綺麗だ。
そっと頭を撫でると、リルの口許が綻ぶ。
リーナには言えなかったことを、リルには伝えていこう。
リーナが稲穂のようだと言ったその髪を、リーナと同じ夜の星空のような瞳を、リーナが慈しんだもみじのような手を、リーナが愛したその全てを。
「おとうさん、きょうもおしごと?」
「そうだよ」
黒い騎士服を纏う父親を見上げて、リルは妙にアンニュイなため息をつく。
昨日のように泣きわめくことはなくて安心したが、これはこれで可哀想になってくる。
だが、これからもカイルは仕事をしなければならないので、慣れてもらうしかない。
「リル。おとうさんは仕事を頑張るから、リルにも頑張ってほしいんだ」
「…リル、なにをがんばればいいの?」
「そうだなぁ…」
聞かれてふと思いつく。
リルは絵本の読み聞かせが好きだが、字を読むことができない。
昨日立ち寄った本屋には、子ども用の教本があったはずだ。平民、特に女性の識字率はまだまだ低いが、字の読み書きが出来れば将来きっと役に立つだろう。
「じゃあリル、字の勉強をしてみよう」
「じ?」
「この絵本を、自分で読めるようになりたくないか?」
リルの手にある本を指し示すと、リルは黒い瞳を輝かせた。
「なりたい! リルね、キティとセインにもよんであげたいの」
「!」
健気なその言葉にうっかり感動する。人のために成長したいという娘の、何と可愛いことか。
「仕事が終わったら本屋で字の練習ができる本を買ってくるから、お父さんの次の休みの日から始めようか」
「ほんと!? うれしい! うれしい!」
抱きついて来た娘に思わず笑みを浮かべ、これから忙しくなるなあと思う。
だけど、リルが笑ってくれるなら何でもないという思いの方が強い自分に苦笑いする。
リーナ。リルは今日も元気だ。