箕浦河原の合戦(2)
・大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡 樋口郷周辺六角軍右翼 三雲資胤
先ほどから山の向こうで喚声と太鼓の音が響いている。
槍合わせに入ったのか?あるいは既に乱戦が始まったのか……
我らの到着が遅くなれば蒲生がそれだけ危険に晒される。急がねばならん。
……ん?今山すそで何かが光ったような。
「仁助!見えたか!?」
「何をですか?」
隣を進む仁助には見えていないのか?
しかし気になる。旗指物も何も見えなかったが、あれは太刀や槍先が陽の光を反射したのではないのか?
目を空に向けると夏の空に眩しい太陽が掛かっている。
あれは……確かに太刀のきらめきだったように思う。
岩脇山には平井殿が布陣しているはず。嫌な予感がする。
「中務大輔様(大原高保)に伝令!我らは岩脇山を登り、山上から駆け下る。中務大輔様は予定通りの行軍を願いたいと!」
「ハッ!」
「甲賀衆!我らはこれから岩脇山に登る!平井陣を通り過ぎて箕浦に入るぞ!続け!」
「オオ!」
山地ならば慣れ親しんでいる。甲賀衆だけなら戦場に遅れることはあるまい。
大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡 岩脇山平井陣 平井高安
おのれ!こやつ等一体どこから湧いて出おった!
旗も差さずに密かに山を登って来たのか?こんな敵中に突入すればどうなるか分かっているだろうに。いや、最初から生きて戻るつもりなどないのか。
「父上!奇襲の敵に兵を向けまする!」
「お前は弓隊を指揮しろ!矢を途切れさせるな!蒲生を殺したいか!」
よし。倅が前を向いて再び指揮に入ったか。
「足軽は全員槍を持って後ろに参れ!敵を弓隊に近づけさせるな!」
喚きながら一射。一人殺したな。わしの弓もまだまだ若い者には負けんぞ。
「足軽隊!敵も全員徒歩兵だ!恐れず前へ進め!」
「オオ!」
むん。弦が切れるまで矢を撃ち続けてくれるわ。
一人
二人
三人
………キリがない。敵兵は一体何人居るのだ。
いかん。足軽だけでは押される。敵にはかなりの手練れが混じっているようだ。こちらの兵が及び腰になり始めている。
「退がるな!前に出よ!」
くそっ!平井が前線に立つことなど久しく無かったせいか、白兵戦では押される。
やはり蒲生や後藤のようにはいかんということか。
「退がるな!前に……」
ちっ。弦が切れた。替え弦を……
「父上!」
む!……いかん!投げ槍か。避け切れん。
「父上ーーー!」
・大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡太尾山六角本陣 六角定頼
「こ、これは……」
先陣が乱戦になったことで後詰の大部分を前線に投入してしまった。それと同時に岩脇山の平井の旗が大きく揺れ動いている。おそらく奇襲を受けた。
多良に布陣させた永原も同じだ。多良には多数の騎馬が前線から迂回して突入してくる。ちょうど中央と左翼の間を縫うように……
遠目にもわかるくらいに弓隊を狙っている。六角の武器をへし折りに来ている……
くそっ!早々と乱戦にして後詰を引っ張り出したのはこのためか!盾役を釣り出されて弓隊との間に隙間を作らされた。左翼もようやく浅井勢と槍戦を始めたところだ。今から動かせば浅井の追撃で左翼が潰れる。
蒲生・後藤・三井は動けない。乱戦の中で敵を前にして後ろを振り返る余裕なんかあるわけがない。
「青地隊を多良に救援に行かせよ!進藤隊は岩脇山へ!」
「ハッ!」
伝令が慌てて駆け出すが、果たして間に合うかどうか。
俺の失態だ。俺のせいで何人が死ぬのか……
ええい、余計なことは考えるな。反省は後にしろ!今は窮地の味方をどうやって救うかを考えろ!
「む?岩脇山の中腹に旗指物が見える。三左(三雲定持)、あの旗はどこの旗か見えるか?」
「あれは……三雲の旗!甲賀衆にございます!父が平井殿の援護に駆けつけておるようです!」
なに!?
上から見ていても分からなかったのに、三雲資胤はよく奇襲が来たと分かったな。
ともかく有難い。今は少しでも早く平井と永原を助けないと。
・大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡顔戸朝倉本陣 朝倉宗滴
ふむ。そろそろ日が中天に近くなるか。潮時だな。
「退き太鼓を鳴らせ!今日はここまでだ!」
全軍に撤収の合図を出す。あとは浅井の前面の敵を追い払って堅守の陣形に切り替えるだけだな。
ふふふ。今頃弾正は青くなっているだろう。
六角で恐れるべきは平井と永原の弓隊よ。他の各隊の弓はそれほど脅威ではない。
こちらも初戦で五百人近い手負い・討死が出ただろうが、兵五百で平井と永原が潰せるのなら安いものだ。
弓隊さえ潰せば相手が倍の兵数でも充分に戦える。明日は一点突破で弾正の首を獲ってくれるわ。
「義父上。さすがの采配でした」
「いや、六角もさすがよ。岩脇山には早々と救援の兵が駆けつけておった。平井は壊滅とまではいかぬだろうな」
「しかし、半数ほどには減らせたはずです」
「うむ。明日は儂も前へ出る。開戦から蒲生を一気に粉砕するぞ」
「ハッ!我が隊も今日は出番が無かったので充分に力を蓄えております」
・大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡太尾山六角本陣 六角定頼
西の山に日が沈む……
結局未の下刻(午後三時ごろ)には初日の戦を終えた。それ以上はこちらの軍も息が続かない。
前線を退いて各軍に休息を取らせると同時に、本陣に進藤貞治、池田高雄、大原高保に集まってもらった。
「永原越前守殿(永原重隆)お討死。永原勢はほとんどが腕や足に重傷を負い、弓を放つことは叶いません」
「平井加賀守殿(平井高安)お討死。平井勢は半数ほどがやられました。御嫡男の源太郎殿も深手を負っております」
各軍から次々に報告がもたらされるが、良い報告がほとんどない。唯一戦果と言えるのは、右翼の北近江衆が奮戦して北河又五郎の一統が敵左翼の兜首を三十近く挙げたことか。
「次郎(大原高保)。北河又五郎の奮戦は書き記しておいてくれ」
「ハッ!」
弓隊に壊滅的なダメージを与えた後、朝倉勢は素早く引き上げて正午前には亀のように守りを固めた。
陣形が魚鱗から半円に近い陣形に切り替えられ、三方から攻め立ててもビクともしなかった。
初日は完敗だ。六角軍が朝倉軍に負けたのではなく、俺が朝倉宗滴に負けた。
まさか味方の被害に目をつぶって遮二無二弓隊だけを潰しに来るとは予想できなかった。
「前線の兵はどのくらい損じた?」
「正面の蒲生勢はさほどでもありません。
おそらく最初から乱戦で釘付けにする腹積もりであったのでしょう。今にして思えば、次々に新手を投入しながらも前進圧力はさほどには掛かっておりませんでした」
「浅井は最初から守りの備えを崩しませんでした故、敵の被害も少ないですが我が軍にもさほどの被害はありません」
「右翼は三雲の甲賀衆が五十名ほど手負い・討死を出しておりますが、右翼全体としては優勢でしたのでこちらも被害は多くありません」
「結局、平井と永原を狙い撃ちにされたか」
軍議にも沈黙が落ちる。空気が重い。
「今日は宗滴の軍略に翻弄された。一万の大軍を指揮しながら、これほどに変幻自在に策を打って来るとは思いもよらなかった」
「御屋形様。弓隊は壊滅しましたが、兵数はまだこちらの方が倍以上の兵力を抱えております。
諦めるのはまだ早うございます」
進藤の叱咤に顔を上げる。そうだな、まだ諦めるのは早い。
弓による牽制が効かなくなったことで味方の損害を少なく戦うことは難しくなった。だが、まだ削り合いで戦うのなら充分に戦える。
平井と永原を討たれたことで蒲生や三雲は逆に戦意が上がっていると聞く。
そうだ。諦めるにはまだ早い。下を向くのは勝ってからにしろ。
「明日はこちらも積極的に前に出る。味方にも少なくない被害が出ると思う。済まぬが皆の力を貸してくれ」
「兄上、我らは最初からそのつもりでございます。これは越前から近江を守るための戦い。兵も将も皆等しく命を懸けて参りましょう」
大原高保の言葉に鼻がツンと痛くなる。
そうだな。皆それぞれに守りたい物があって命を懸けているんだ。皆の力を信じよう。
「作戦を伝える!明日も三方から朝倉勢を包囲する。朝倉も本腰を入れて前に出て来るだろう。
各軍の奮戦を期待する」
「ハッ!」
朝倉宗滴。
やっぱりアンタはすげぇ武将だ。野戦なら今の日本でアンタの右に出る者は居ないかもしれない。
しかし、こっちだって負けられない。明日は正真正銘、小細工抜きの殴り合いだ。
・大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡太尾山六角本陣 六角定頼
二日目の戦が始まった。
今日は通常通り矢戦を充分に行ってから槍合わせに入る。と同時に朝倉本陣が前線へと進んでくる。どうやら朝倉もこれ以上の小細工は無いみたいだな。
「御屋形様!あれを!」
「ん?」
三雲定持の言葉に琵琶湖側に視線を巡らせると、おびただしい船団が湖を渡って来るのが見えた。
もしかして……
「旗は見えるか?」
「ハッ!あれは……隅立て四ツ目結いの旗!朽木です!高島から朽木勢の援軍です!」
周囲から大きな歓声が上がる。本当に来てくれたのか。
布施源左衛門から朽木が援軍に向かうと報せはあった。だが、朽木は高島越中と戦の最中だ。本当に来てくれるかは最後まで分からなかった。
高島越中との戦を放り出してこちらに向かったはずだ。朽木だけじゃない。皆に助けられている。
……ヤバイ。ちょっと泣きそうだ。
朝倉宗滴。これが俺の最後の小細工だ。
朽木は姉川河口に着岸して朝倉の後方を遮断する。四方包囲の完成だ。
越前への退路を断たれて、それでも尚強気で居続けることができるか?この戦は俺が勝たせてもらう。
「前線に伝令!
朝倉の包囲は完成した!本陣も前へ出る!朝倉宗滴をこの地で討ち取るぞ!」
ひと際大きな喚声と共に六角本陣の大幟が山を下る。ここから先は本当に殴り合いだ。
六角定頼は朝倉宗滴に負けた。だが、近江は越前に負けんぞ。




