疫病神再び
大変お待たせして申し訳ありません。
公私ともにわりと忙しく、中々書いてる時間が取れませんでした。
もうしばらく連載は不安定になると思いますが、できるだけちょこちょこと書いていきますので気長にお付き合いいただけると幸いです。
・貞吉四年(1546年) 七月 近江国蒲生郡 練兵所 滝川一益
”遅い! 何をやっとるか!”
一番組の赤尾殿(赤尾清綱)の怒声が響く。
確かに、槍兵の足並みが少し乱れていたな。
動きが遅れているのは新参兵か。
新参の者達はさすがに蒲生様が鍛え上げた精兵だが、いかんせん旧北軍は海北殿が練り上げた精兵中の精兵だ。その練度にいきなりついて行けという方が土台無理な話だ。
だが、少しづつサマにはなってきている。
「次、二番組。鉄砲撃ちからの槍隊前進訓練、始め!」
儂の掛け声と共に一番組が下がり、二番組が広場に展開する。
鉄砲は空砲だが、実際に玉薬(火薬)を扱い実戦に近い形で訓練を行っている。その分、各組の練度の差が如実に表れる。
……ふむ。二番組は一番組ほどの早さはないが、全体の連携は良く出来ている。守るには二番組の方が良い働きをするだろう。
「やっておるな」
不意に背後から声を掛けられて振り返ると、小袖姿の蒲生様が菅笠の前を上げて顔を見せていた。
「これは蒲生様」
「また体づくりの終わった者を送り届けて参った。明後日にはこちらに加わるはずだ」
「恐れ入ります。蒲生様が戦の基本を叩き込んで下さっているので、こちらも助かっております」
「何、それが今の儂のお役目だ」
言いながら蒲生様の視線が練兵場を向く。
懐かしんでいるような、あるいは楽しんでいるような表情だ。
蒲生様や海北様が戦奉行を辞してからまだ一年……。古参兵の中にはまだまだかつての大将を懐かしむ風がある。
早く儂の手足となってもらいたい物だが……。
「何度見てもお主の練兵は迫力があるな」
「恐れ入ります。実戦で機敏に動けるようにと、お互いの動きを確認し合っております」
「まるで実戦のように……か。だが、戦では思いも寄らぬことが起こる。敵も黙ってこちらの戦を見守ってはくれぬ。むしろ、取り決め通りにはいかぬことの方が多い」
「……」
無論、分かっている。戦が訓練の通りにいくのならば苦労はしない。
だが、今はこの『動き』を徹底的に叩き込むほかないではないか。
儂は『今藤太』でも無ければ『東湖大将軍』でも無い。万を超える軍勢を率いたことなど一度も無いのだから……。
「ハハッ、釈迦に説法であったかな」
「……蒲生様は、初めて軍奉行を命じられた時、緊張はされませんでしたか?」
練兵場に向いていた視線が儂の方に向く。
決して威圧するわけでは無いが、目を逸らすことを許さぬ視線……。
じっと目が合った後、不意に蒲生様の方が視線を逸らせた。
「初めて南軍を任されてから今日まで、戦で緊張しなかったことなど無いさ」
「……まことに?」
「ああ。儂は世間から『今藤太』などと過分な異名を付けられてはいるが、戦が起こる度に『さて、此度は生きて戻れるか』と考えぬ時は無かった。
若い時には『命など惜しくない』という思いもあったが、今にして思えばあれは若さ故の無謀・蛮勇の類だったのだろうなぁ……」
「……」
「戦は何が起こるか分からん。大本所様とて、戦場の全てを見通しておられるわけでは無い。
だからこそ、戦に臨んでは己を信じ、懸命に戦い抜くしかないのだ」
何やら晴々とした顔で仰せだが、儂としては大軍の動かし方などをご教示頂きたいのだが……。
「ま、気負い過ぎるな。
尼子の猛攻を三千の兵で守り切ったお主の手腕は見事な物だ。それを疑う者など居らぬさ。
お主ならば大丈夫だ」
そう言って儂の肩を叩き、そのまま行ってしまわれた。
結局、何も教われなかったな……。
まあ良い。儂は儂の信じる戦をするのみだ。
「次、四番組。鉄砲撃ちからの槍隊前進訓練、始め!」
・貞吉四年(1546年) 八月 近江国滋賀郡 坂本城 六角定頼
「和議……か」
西川伝右衛門から長尾方に和議の動きありと報告が上がった。
蝦夷航路を閉じず、伝右衛門を越後に出入りさせていた甲斐があったと喜ぶ所ではあるが……。
「どう思う?」
「関東出兵の為の時間稼ぎでありましょうな」
新助(進藤貞治)が事も無げに断じる。
まあ、そうなるよな。
伝右衛門が聞き込んで来たのはあくまでも『宇佐美定満の心の内』であって、長尾景虎本人から何か意思表示をされたわけじゃない。
書状の一つも無い。
何より、肝心要の足利義輝の処遇について具体的な話が一切出ていない。
これじゃあ、本気で和議を結ぶ気があるのかどうか疑わしいという結論にしかならないな。
「それだけ長尾が焦っているという証左でもありましょう。
父上、ここは機を逃さずに信濃へ兵を送るべきかと存じます」
賢頼が力強く断言する。
傍らの宇喜多直家も大きく頷いた。
確かに信濃は今勢いに乗っている。斎藤高政は小笠原を圧倒し、今月の始めには小笠原の本城である林城を包囲に掛かっている。
さすがは猛将斎藤義龍と言ったところか。
ここで信濃に増援を送り、小笠原を一気に粉砕すれば、斎藤も全力で村上攻略に取り掛かれる。
村上を下せば、越後本国に王手だ。
心配していた武田の動きも大人しい。
諏訪の次郎(大原頼保)には警戒を密にせよと言っておいたが、当の武田は岩殿山の築城に懸命だ。
いかに長尾と組んだとはいえ、北条への備えが出来上がるまでは積極的にこちらと事を構えるつもりは無いということだろう。
まあ、事を構えたら構えたで塩を止めるだけだがな。
抜け荷の取締りを消極的にしたことで尾張・三河から甲斐への塩の道は大きく成長しつつある。公式には存在しないはずの民間レベルでの塩の道。
ここを一斉に取り締まれば、甲斐への塩の流入はかなり絞られるはずだ。
……とはいえ、まだ効果は充分とは言えない。
この『存在しないはずの塩の道』はもっともっと太くしていきたい。太くなればなるほど、いざ止められた時のダメージは大きくなる。
加えて、小笠原を粉砕したところで一気呵成に村上を下せるという保証はない。
今から軍勢を送っても本格的な戦は精々二か月が限度だろう。それ以上になると雪で進軍が阻まれる可能性が高い。
伊那郡と違い、小県や埴科は本格的な豪雪地帯だ。昨年も冬の早いうちから雪で戦を中断せざるを得なかった。
仮に村上に一か月粘られれば、電撃戦で越後に迫ることは不可能になる。
諸々考えると、今すぐに兵を送ってもメリットは薄い……か。
「いや、ここは宇佐美の策に乗ってやろう」
宇喜多が明確に気勢を削がれた顔をする。
だが、進藤はピクリと片眉を動かしただけで動じた気配は無い。
ここら辺は、年季の差かな。
「ま、聞け。
今から信濃に兵を送ったとしても越後本国に迫るのは簡単ではない。雪に阻まれて年を越せば、長尾は早々に関東から引き上げて来るだろう。
そうなれば、再び信濃で睨み合いか、あるいは長尾と決戦ということになる。
相手の態勢は不十分になろうが、こちらとしても万全とは言えぬ」
元より景虎はそのつもりなのかもしれんしな。
お互いに不十分な態勢での決戦ならば、『軍神』長尾景虎なら勝利をもぎ取れると思っていても不思議じゃない。
だが、宇佐美の策が功を奏していると信じている間は長尾も関東に比重を置くだろう。
長尾は関東の兵を吸収する時間を稼げると思うだろうが、北条氏康……北条幻庵は一筋縄でいく男じゃない。
必ず長尾の足を引っ張りにかかるはずだ。こちらはその間に装備を整え、兵を練る。
「案ずるな。時間は必ずこちらに味方をする」
「……ハッ!」
宇喜多が少し悔しそうな顔で俯く。
才気があるのは間違いないが、今少し『味方を上手く使う』ということを覚えさせたいな。
六角が正面から長尾と対峙しても勝つ可能性は充分にあるだろうが、北条に力を温存させてやる義理も無い。
越後公方を倒さねばならんのは北条とて同じ。
その辺りをもう少し上手く使えれば、賢頼の頼もしい副将になってくれるだろう。
・貞吉四年(1546年) 九月 武蔵国児玉郡 五十子城 宇佐美定満
中一屋(西川伝右衛門)からの文では、六角方はこちらの和議に乗り気であるという。
さすがは六角定頼の信頼厚いと言われる商人だ。
こうも簡単に引っかかってくれるとは、却って拍子抜けだな。
ま、今まで商人を上手く使って戦を進めて来た男だ。
その商人が却って己の足を掬うとは思いも寄らぬのだろう。
簗田は先代古河公方の長子(幸千代王丸、史実の足利藤氏)を立てて関東諸士に集結を呼び掛けているが、関東管領も居なければ正式に室町殿から任命を受けたわけでも無い古河公方になびく者など居るはずもない。
窮した簗田は宿敵のはずの北条と手を組んだが、肝心の北条方との戦は我が方が圧倒している。
もはや関東の諸士は我先にと公方様(足利義輝)の旗の元に集いつつある。
順調だ。全て順調だ。
ただ一点を除けば、だがな……。
「駿河守(宇佐美定満)」
背後からその問題の男の声がした。
「これは右京大夫様(細川晴元)。いかがなさいましたか」
「弾正殿(長尾景虎)が居らぬが、どこへ行ったか知らぬか」
「我が主は河越城より打って出た北条方と戦をする為、昨日より出陣致しております」
「そう……か」
やれやれ。
突然押しかけて『公方様のお側には管領が侍るもの』などともっともらしく幕臣方を口説き、いつの間にか公方様のお側に収まりおって。
関東管領殿(上杉憲政)は構わぬとの仰せだが、内心苦々しく思っておられることは明白。
まったく、厄介ごとを持ち込んでくれたものだ。
……と、いかん。
あくまでもにこやかに応じなければな。
こんな男だが、公方様の覚えは目出度いのだから。
「我が主に御用でしたら、僭越ながら某が承りとう存じますが」
「うむ。先だって弾正殿は公方様に『関東の兵を糾合する』と申したそうだが、今兵はいかほど集まっておる」
「ざっと三万は集まったかと」
「ふむ……」
……次の言葉は、聞かぬでも分かるな。
「それほどに集まったのならば、もはや関東での戦は充分であろう。
かくなる上は早々に引き上げ、信濃にて六角の先鋒を叩き潰すべきではないかと思うが、どうじゃ?」
「……」
「む……なんじゃその目は?
断っておくが、儂が前公方様(足利義晴)のお側に侍ることが叶わなんだのはひとえに六角と畿内の覇を懸けて争うていたためだ。
幸いにして今は公方様のお側に侍ることが叶った。今こそ上洛の兵を起こし、儂が畿内の諸将に檄文を発すれば、六角の天下なぞ立ちどころに瓦解するはず。
これは儂の考えではなく、公方様の御内意と心得よ」
……偉そうに。
六角と畿内の覇を懸けて争ったとは笑わせる。
争うどころか相手にすらされていなかった男が。
「恐れながら、三万ではまだ不足かと存じます。
今引き返すとなれば、北条への備えも怠るわけには参りません。後顧の憂いを断つ為にも、此度は北条を徹底的に叩くべきかと愚考致します」
「ふむ……そちの申すことも道理ではある。だが、六角は油断のならぬ男だ。
慎重なのは良いが、機を逸することの無いよう弾正殿(長尾景虎)に申し伝えよ」
「承知致しました。主には確かに申し伝えましょう」
……ふぅ。行ったか。
馬鹿の相手は疲れる。御屋形様が早々に前線に出てしまわれるのも、こ奴らの相手をしたくないからではないかと勘繰ってしまうな。




