阿波細川家の終焉
・貞吉二年(1544年) 九月 阿波国板野郡 勝瑞城 細川持隆
広間に入って具足を脱ぐと酷い脱力感が襲って来た。
何とか身一つは生き永らえたが、もはやこれまでか。
撫養に上陸した千熊丸(三好頼長)に呼応して宮内大輔(一宮成孝)めも勝瑞城に向けて軍を進めて来た。
三好勢が態勢を整える前に宮内大輔に一当てして退がらせておこうとしたが、よもや我らがここまで呆気なく敗れるとは……。
阿波の混乱で味方の士気が低かったのもあるが、豊前守(三好虎長)を欠いた軍ではまともに戦うことすら出来なんだか。
具足の音を立てながら久米安芸守(久米義広)が広間に駆け込んで来た。顔も体も血だらけで見てはおれぬな。
いや、それは儂も同じか。
「御屋形様、仰せの通りに右京大夫殿(細川晴元)をお逃がし申しました。手勢を持って国境まで送り届けることは叶いませぬが、運が良ければ生き延びられるでしょう」
「そうか。ご苦労だった」
「しかし、こう申しては何ですが、誠に解き放ってよろしかったのですか? いかに御屋形様の御兄君とは言え、阿波の混乱を巻き起こしたのは他ならぬ右京大夫にございましょう。むしろ真っ先に処断し、国衆の怒りを鎮めるべきだったのでは……」
「お主の言いたいことは分かる」
安芸守が血まみれの顔で厳しい視線を投げかける。儂とて何度もあの兄の首を刎ね、阿波の国衆に詫びるべきではないかと思った。
「だが、兄の首一つで収まる問題でも無い。そもそもあの愚兄を阿波に迎え入れたのは儂だ。いくら兄の首を刎ねて詫びたところで、国衆は収まらなかっただろう。
どのみち首を刎ねても無駄ならば、せめてもの事、死なせたく無いと思ったのだ。あれでも儂にとっては血を分けた兄だ」
細川京兆家の家督を継いだことが兄を狂わせたのだと思いたい。そう思いでもせねば、やり切れぬ。
本当に、幼い頃は頼もしい兄であったのだ。必死に背中を追いかける儂を見て手を差し伸べてくれるような、そんな兄だったのだ。
「……情に流され、阿波細川家を滅ぼした儂を笑ってくれい」
「……もはや、過ぎたことにございます」
安芸守も悔しそうに俯く。
済まぬな。儂が愚かな主であるばかりに安芸守にも苦労を掛けた。
「御屋形様!」
悲鳴のような声がして小少将が広間に現れた。
少将にも可哀想なことをした。儂が情に囚われて兄を処断せなんだ為に少将は儂を狂わせた悪女と言われてしまった。
「少将、もはやこれまでよ。最期にそなたの顔を見ることができた。これで思い残すことは無い」
「……まだまだ、私は御屋形様と冥土まで添い遂げとうございます」
「ふふ。嬉しいことを言ってくれる。だが、そなたには今一つ頼みたいことがある。六郎(細川真之)を伴って撫養城へ参ってもらいたい」
「それは……」
「阿波の全ては、阿波細川家の血筋は、千熊丸に預ける。それが弟を無残に死なせた儂にできるせめてもの罪滅ぼしよ」
……仲の良い兄弟だった。千熊丸と千満丸の仲を引き裂いたは儂の不明であった。
あの時は儂も若く、中納言様(足利義維)を将軍位に就けることしか考えられなんだ。それ故、六角の元に逃れて六角の庇護を受ける千熊丸を裏切り者と思いもした。
だが、儂が一度は仲違いした兄の右京大夫を受け入れたのも、結局は兄弟の情ゆえのことであった。
今ならばわかる。たとえ身は離れていたとしても、心に刻まれた幼き日の思い出を消すことは誰にもできぬ。兄弟とはそうした物なのだ。
儂が犯した罪は、詫びて許される物ではない。
本当に、仲の良い兄弟だったのだ。まさか、儂の未熟さがこんな結果を招くことになろうとは……。
「安芸守、儂はここで腹を切る。小少将と六郎を守り、撫養の三好筑前守(三好頼長)の元へと届けてくれ。決して宮内大輔の思うままにさせるな」
「御屋形様、今一度申し上げます。阿波を逃れ、豊後に参りましょう。修理大夫殿(大友義鑑)ならばきっと御屋形様を受け入れてくれるはず」
「無用だ。中納言様(足利義維)亡き今、例え生き延びても儂が拠って立つ義は無い。今更六角の天下に服するつもりも無い。阿波守護細川家はここまでだ」
重い沈黙が降りる。
思えば、儂は理想ばかりを口にして何一つ成し遂げることが出来なかった。
中納言様を公方様にと言いながら兄の暴走を止めることが出来ず、亡き筑前守(三好元長)を救うことが出来なんだ。
兄と袂を分かち、大友や尼子と組んで畿内に軍を起こしたが、あれほど伊予守(尼子経久)に忠告されていたにも関わらず遊佐の裏切りを見抜けなんだ。
そして、兄弟の情にほだされて兄を阿波に迎え入れたことで、中納言様のみならず儂を支えてくれた彦次郎(三好虎長)までも失った。
六角に敵わぬのも道理よな。彦次郎が最期まで上洛に反対しておったのも当然だ。
「さ、少将。六郎と共に城を落ちる支度をせよ」
「御屋形様……」
「ぐずぐずしておると宮内大輔の兵がこの勝瑞城まで押し寄せる。急ぐのだ!」
小少将がじっと儂の顔を見た後、涙を流しながら下がって行った。
……これで良い。
阿波の事は千熊丸に……三好筑前守に任せよう。
「安芸守。介錯せよ」
「……ハッ! 御免仕る」
・貞吉二年(1544年) 九月 阿波国板野郡 撫養城 三好頼長
これが傾国の美女と名高い小少将か。確かに美しい女性だ。
だが、この女が彦次郎を陥れたという噂が真ならば、決して許せる物ではない。
「どうか、伏してお願い申し上げます。六郎の命ばかりはお助け下さいませ」
「小少将殿。それに答える前に一つ聞きたい。そなたは三好豊前守(虎長)をどう見ておった?」
小少将が少し俯いた後、しっかりを顔を上げる。
怯えてはいるが、目を逸らすことはしない。随分と気が強そうだ。……どこか初音に似ているな。
「御屋形様に正面からご意見を申される、頼もしいお方と思っておりました」
「儂が聞いた所では、そなたは讃岐守をそそのかして豊前守共々中納言殿を討たせたと聞いた。それは真のことか?」
「この場で私が何を申し上げても、筑前守様がお信じになることはありますまい。私一身の事については煮るなり焼くなりお好きにお扱い下さいませ。ですが、どうか六郎の命だけは、何卒……」
そう言って小少将は目を伏せた。
隣に座る久米安芸守(久米義広)に視線を移すと、こちらも儂の顔を真っすぐに見返してくる。どうやら安芸守も死ぬ覚悟は出来ているということか。
「久米安芸守義広と申したか。その方の申したことは真か? 中納言殿と我が弟を討ったのは細川右京大夫一人の思慮から出たことであったと」
「はい。重ねて申し上げますが、讃岐守様はたとえ意見が食い違おうとも豊前守殿を除こうとは露ほども思っておられませなんだ。全ては、細川右京大夫の短慮によるもの」
ふむ……。
しかし肝心の右京大夫は讃岐守が逃がしたという。これではいかようにも言い繕える。
儂はただ知りたいだけなのだ。彦次郎が何故死ななければならなかったのかを。
「分かった。もういい。六郎殿を始め、その方らの今後については堺へ使いを出す。後のことは公方様(六角定頼)が判断されるだろう」
儂が合図をすると、兵に連れられて三人が下がって行った。
やはり細川右京大夫を捕えねば何も分からぬか。直ぐにでも捜索の兵を出そう。上手くすれば阿波国内で捕えられるはずだ。
……生きていればの話だがな。逃がしたと見せて口を封じることも考えられる。
それにしても、故郷だというのに懐かしさを感じぬな。まるで見知らぬ国のようだ。
父の形見の太刀を三好郷と名付けたものの、儂自身は三好郷にも阿波にも思い入れが少ない。考えてみればおかしな話だ。
この太刀を見ていると、彦次郎と話し合った時のことを思い出す。阿波に戻ってからの彦次郎は、阿波の国を安んじることを第一に考えると書き送って来ていた。
四郎(六角賢頼)も兵を出すのはそのためだと言っていたな。
……右京大夫のことは気にかかるが、今は阿波の安定を第一に考えよう。
「殿、篠原右京進(篠原長房)と申す者が殿にお会いしたいと参っております」
「おお! 大和守(篠原長政)の倅か! すぐに通せ」
「ハッ!」
・貞吉二年(1544年) 九月 阿波国名東郡 芝原城 一宮成孝
城門を出ると小倉美濃守殿(小倉重信)が直垂姿で待っていた。
お互い供回りは五名づつ。まあ、格式としてはこのくらいだろう。
「やあ、お待たせいたし申した」
「いや、何の。奪い取ったばかりの城では、何かと難儀も致しましょう」
「恐れ入ります。皆で戦ったというのに、某が芝原城を奪ってしまって申し訳ありませなんだな」
「いやいや。宮内大輔殿が最も兵を出されましたからな。それに、久米安芸守(久米義広)はいち早く撫養城へ降ったと聞き及びます。うかうかしていると、全ての土地を上方勢に持って行かれかねませんからな」
まったくだ。
当初は我らだけでは勝てぬと見て六角へ後詰を依頼したが、蓋を開ければ讃岐守(細川持隆)の軍勢は呆気なく崩れ去った。
こんなことならば、我らのみで細川家を討った後に六角と交渉を致すべきであったわ。六角の後詰のおかげで勝てたなどと言われれば、我らは本領安堵のみで引き下がらねばならなくなる。
実際に戦い、細川勢を打ち破ったのは我らなのだ。せめて久米の芝原城位は貰わねば割りに合わぬぞ。
「ところで、平島館の方は……」
「それは問題ありません。昨日の内に亀王丸様(足利義栄)を我が蔵本城にお迎え致しました」
美濃守殿が力強く胸を叩いた。
よし。阿波支配の要は我らが抑えたな。
「……しかし、まことに亀王丸様を撫養城へ参らせられずとも良いのでしょうか? 相手は三好筑前守殿に蒲生左兵衛大夫殿。いずれもこの阿波にまで聞こえた名将にござる。
我らが亀王丸様を渡さぬと言えば、怒って我らに矛先を向けるのでは……」
美濃守殿の顔が不安そうに揺れる。
無理もない。巨大な上方勢に対して我らは所詮小勢。相手が我らを潰しにかかればひとたまりもない。
だが、ここで卑屈になってはならぬ。
「ご案じ召されるな。阿波支配の要は亀王丸様にござる。それを無視して上方勢が我らを攻めれば、上方勢は阿波を治めることに相当な苦労を致しましょう。
我らが亀王丸様を抑えている限り、無体な真似は致しますまい」
「ですが、上桜城の篠原右京進はいち早く撫養城に駆け付け、既に筑前守殿の側近く侍っているとか。右京進は朝倉との戦いで筑前守殿を命懸けで守った篠原大和守殿の子であり、筑前守殿も右京進を格別に扱っておられると聞きます。
いかに我らの武功が優れているとはいえ、筑前守殿が篠原の知行を加増すると言えば……」
そのことは儂も不安ではある。
そもそも篠原は此度の戦でも陣代を立てて来た。見性寺にて手傷を負ったという理由でな。にもかかわらず、撫養城へは右京進自らいの一番に駆け付けている。
まったくもって油断ならぬ男だ。
だが、我らは六角定頼公より直々に文を賜ったのだ。
筑前守殿もこれを粗略に扱う訳には行くまい。筑前守殿が無道な真似をするのならば、定頼公に訴えれば良い。
その為にも、ここで引き下がってはならぬ。せめて働いた分はしっかりと報いてもらわねばな。
「今からそのような有様では先が思いやられますぞ。
我らは細川讃岐守を討ち、阿波平定に多大な貢献をした。六角定頼公が真に阿波の平定を望むのならば、決して我らを粗略には扱いますまい」
「……さ、左様ですな。我らは此度の戦で武功を上げたのですから」
「そうですとも。もっと堂々と胸を張りましょう」
そうとも。此度の戦で武功第一は我らだ。
堂々と胸を張って撫養城へ参れば良いのだ。




