絶対に負けられない戦い
・貞吉元年(1543年) 七月 山城国 京 六角屋敷 六角定頼
越後から文が来た。越後守護代の長尾晴景から協力を願うという内容だ。
何でも末弟の長尾平三景虎が謀叛を起こし、長尾家の家督を奪い取ろうとしているらしい。春日山城に奇襲を受けた晴景は、命からがら春日山城を脱出して坂戸城の長尾政景の元に逃げ込み、越後守護の上杉定実を戴いて景虎を反逆者として糾弾している。
一方の景虎は足利左馬頭義輝を戴いて春日山城を占拠し、兄の晴景を足利義輝に刃向かう反逆者だと声明を出している。
まあ、要するにお互いに反逆者と罵り合って兄弟骨肉の争いを演じているという訳だ。
しかし、その渦中で足利左馬頭義輝の名が全国に知れ渡ったことは不味かったな。各地の守護は六角が足利を滅ぼしたことに対し、態度を決めかねていた。
朝廷を抑える六角を新たな畿内の支配者として支持すべきか、それとも足利に刃向かった逆臣という立場をとるべきか……。
その中でいち早く足利の忠臣を宣言して六角の非を鳴らす長尾景虎は、主に関東から奥羽にかけて声望を集めつつある。足利義晴の嫡男を戴いているというのが何よりも大きい。足利体制を支持する者にとっては、これ以上ない旗印だからな。
ったく。菊幢丸め。京周辺をいくら探しても見つからないはずだよ。まさか越後にまで逃げていたとは思わなかった。
どうやって越後まで行ったのかも問題だが、一番の問題は太閤・近衛稙家だ。近衛は長尾景虎が天下に向けて出した声明に責任を感じ、自ら越後へ行って菊幢丸を説き伏せると言い出した。
山科と二人がかりで何とか押し留めたが、そうでなければ本当に越後に旅立ってしまっていたかもしれん。
そもそも義輝が近衛に対してどんな感情を持っているかも不明なんだ。父を死なせた俺や近衛を恨んでいるとすれば、最悪の場合近衛稙家を殺してしまうこともあり得る。
今近衛に死なれては、鎮守府大将軍への叙任が頓挫することになる。俺の鎮守府大将軍任官に協力した者は、殺されるほどの恨みを買うと公家衆に見せつけるようなもんだからな。
多くの公家は鎮守府大将軍叙任に及び腰になるだろう。万一にもそんな危険な橋を近衛に渡らせるわけにはいかない。
一方で四国の細川持隆は、前の左馬頭である足利義維こそが足利の後継者であるとして六角に対して敵意を露わにしている。
こうなれば意地でも千歳丸を手放すわけにはいかなくなった。
仮に千歳丸が新たな勢力の旗印となればどうなるか。足利義輝・足利義昭・足利義維の勢力が各地でそれぞれに反六角の旗を掲げることになるだろう。
新たに畿内を三方から包囲する六角包囲網が敷かれることも問題だが、それ以上に問題なのは、六角が敗れた後には三つの足利による三つ巴の覇権争いが始まるということだ。
たとえ義輝と義昭が争うことを望まなくとも、本人達の意志とは関係ない所で戦は起こる。誰だって戦う以上は自分の神輿が天下を制覇してくれないと困るんだからな。
結果として、日本は史実以上の泥沼の戦乱に突入することになる。
それを防ぐには、ここで足利残党を一つ一つ排除していくしかない。
子供達の為だけじゃない。日本の未来の為に、絶対に負けられない戦いになってしまった。
その意味でも、足利義輝や長尾景虎には早々に退場してもらいたいのが本音なんだが……。
多分景虎が勝つだろうなぁ。長尾景虎と言えば、かの上杉謙信だ。軍神と称された化け物。戦争の芸術家と呼ばれ、人生の全てを戦に捧げてるような狂人。
そんな相手に長尾晴景が勝てるとは到底思えない。
長尾晴景は今のところ暗愚という話は聞かないが、特に揚北衆の懐柔に手を焼いているという話は耳にする。今回の戦も、大方越後国内の勢力争いが下地になっているんだろう。
とすれば、これは越後国内を二分する大乱に発展する可能性が高い。今のうちに越後に介入したいのはやまやまだが、越後に行くには信濃の諏訪・村上、あるいは加賀・越中の一向一揆を踏みつぶしていかねばならん。
その間に越後の情勢は粗方決着がついてしまうだろう。
それに、越後だけに問題が起きてる訳でも無い。
西国では陶隆房がとうとう大内義隆に対して明確に反旗を翻した。
足利を滅ぼした六角と決別せぬ大内義隆に対し、守護たる資格無しと声明を出している。
もっとも、こちらの方は単純に足利か六角かという問題じゃない。
陶隆房は要するに大内家内部で孤立した挙句、大友義鑑の後援を受けて独立を宣言したというのが実態だ。こちらの方は史実よりも小規模な反乱に収まっているような気配だが、いかんせん後ろに大友が居る以上は大内としても対応を急ぐ必要がある。
武断派筆頭の陶隆房の反乱は大内軍の半分が寝返ったようなインパクトがある。
しかも、陶の反乱に合わせて大友が豊前に向けて進軍を開始した。大内義隆としても九州の杉重矩に援軍を出したい所だろうが、中国地方の内ゲバで力を使わされている現状では十分な援軍を送れない。結果として杉重矩は大友に苦戦を強いられている。
毛利元就が陶隆房の非を鳴らして大内義隆に味方していることで何とか踏ん張っているが、ここで毛利が裏切れば大内家は一気に窮地に立たされる。
そんな中、じっと身を潜めて体力を回復させていた尼子がそろそろ動きを見せ始めた。大内の混乱を好機と見た尼子詮久が兵を集めているという。十中八九、大内を攻める腹積もりだろう。
陶隆房・大友義鑑・尼子詮久……。
大内義隆もここが正念場だな。大内がこちらに助けを求めて来れば、俺としても西国の情勢に本格的に軍事介入せざるを得ない。尼子は銀と米の取引がある関係で交渉も不可能ではないだろうが、大友や陶は俺が何を言っても聞く耳があるとは思えないからな。
まあ、大内が滅びても六角にとっては痛くも痒くも無いんだが、大友や陶の勢力が拡大するのは面白い事態じゃない。大内に恩を着せ、六角の配下に取り込むには悪くない機会だ。
となると、今の越後情勢は益々頭が痛い。六角が西国に手を取られれば、その間に長尾景虎が越後から関東を制覇してしまうなんてシナリオもあり得る。征夷大将軍足利義晴の嫡男という立場は、それほどの切り札になるはずだ。
「上様。参られました」
「よし。直ぐに行く」
近習の声に返事をすると、読んでいた文を丁寧に畳んで文箱にしまう。
こちらの内心を知ってか知らずか、意外な所から意外な使者が来た。
伊勢新九郎盛時の四男、北条長綱。またの名を北条幻庵。
今の北条家は史実以上の実力を蓄えつつある。
北条氏康は家督を継いで早々、徳川清康の乱で落ち目になった今川家をほぼ従属下に置き、合わせて武田家とも同盟を結んだ。
同盟と言えば聞こえはいいが、駿河から甲斐への物流を人質にして武田の鼻面を抑えた格好だ。
織田・徳川の清州同盟に似ているな。対等とは言いながら、実際には明らかに武田は北条の風下に立たざるを得なくなっている。
つまり、この世界での甲相駿三国同盟はお互いに対等な同盟などでは無く、北条を盟主とした連合という性格になってしまった。
この同盟によって後顧の憂いを絶った氏康は満を持して河越城に入り、宿敵扇谷上杉を滅亡に追い込むべく動き始めた。
だが、今の状況ではそれも悪くないのかもしれない。
長尾晴景を追い落として越後を統一した長尾景虎は、次に関東に兵を進めるはずだ。越後の国人衆には関東に利害関係を持つ者も多い。特に今の景虎の支持基盤となっている古志郡や揚北なんかは、畿内よりも関東の情勢の方が関心が強いはずだ。
その関東を北条に食い荒らされたままにして上洛軍を興せるはずはないからな。
対する北条家は、北条氏康を総大将として武田晴信・今川義元が軍勢を率いて参陣する。長尾景虎と言えども容易に突き崩せない壁になるはずだ。
北条と長尾が関東でやり合っている間に西国を落ち着かせることが出来れば、関東に全力を振り向けることも出来るだろう。
北条幻庵は表向きは俺の戦勝を祝っての使者という事になっているが、そんなことの為だけにわざわざ一門の重鎮を上洛させるほど北条氏康も暇ではないはずだ。
さて、幻庵はどんな土産を持って来てくれたのか、じっくりと話を聞くとしよう。
・貞吉元年(1543年) 七月 山城国 京 六角屋敷 北条長綱
広間で頭を下げていると足早に歩く音が響く。
随分とせっかちなお方なのか、それとも何か心中に焦りを抱えているのか……。
「面を上げてくれ」
上座から響いた声に反応して顔を徐々に上げる。
……ふむ。さすがは畿内を制した天下第一の御大将よな。悠々として自信に満ち溢れた態度だ。
「北条幻庵宗哲にございます。右大将様(六角定頼)にお目通りが叶い、恐悦至極にございます」
「こちらこそ、新九郎殿(北条氏康)からは過分な祝いの品々を頂いた。相模に戻ったらよくよく礼を申し述べていたと伝えてくれ」
「痛み入りまする」
新九郎か……。自称とは言え今の北条家当主は左京大夫を名乗っている。持参した文にも左京大夫と記してあるはずだ。それをわざわざ新九郎と呼ぶからには、六角は北条家の官職を認めぬということか。
やはり今川や武田の件で我らを牽制していると見るべきだろう。だが、六角家とて越後の足利菊幢丸殿の挙兵は放置しておける事態ではない。必ずや交渉の余地はあるはずだ。
さて、どのようにして右大将の肚の内を引きずり出すか……。
「では、俺からの返書は日を改めて認めよう。今夜は歓迎の宴を用意させている故、それまではゆるりと過ごされるが良い」
な! それだけ言うと右大将様が腰を浮かせた。
冗談ではないぞ。わざわざ京にまで来てただ挨拶をしただけとあっては、どの面下げて相模に戻れば良いのだ。
「あ、あの……」
「ん? どうした?」
「その……今しばらく、お話を……」
「話ならば宴の席でゆるりと、な。済まぬが俺も色々と用を抱えている。これで失礼する」
……行ってしまった。
つまり、六角は我ら北条と何ら交渉するつもりは無いということか。
失敗だ。足利菊幢丸が越後で兵を挙げたことなど、六角は意にも介していない。儂の見立てが間違っていたのか。
悄然と肩を落として客殿へと戻る。
さて、どうしたものか……。何とかして今一度右大将様と親しく話す機会を作らねばならぬが、さて……。
「よお」
突然に事に心の臓が飛び出しそうになる。
宛がわれた居室の戸を開けると、居室の中には先ほど奥に引っ込んだはずの右大将がにこやかに座っていた。先ほどとは打って変わって供回りは進藤山城守(進藤貞治)ただ一人のみ。
これは一体……。
いや、今こそ親しく話す好機。この機を逃すわけにはいかん。
「こ、これは右大将様。先ほどは用があるとの仰せでありましたが……」
「ああ。ちとこれを取りに戻っていたのだ」
そう言うと懐から何やら丸い塊を取り出す。
「ほれ、お主も手を出せ」
「は……はあ」
言われた通りに手を差し出すと、手のひらに丸い塊を置かれた。
少し転がすと白い粉が手につく。これは……何だ?
「飴ちゃんだ。お主にも一つやろう」
あめちゃん……?
呆気にとられる儂を置き去りにして右大将様が『あめちゃん』とやらを口に放り込むと、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「さて、夜まではまだまだ時間がある。じっくりとお主の話を聞こうか」
最初からそのつもりで……。
やられたな。最初に早々に話を切り上げられたことで、こちらが話をしたがっていることを見透かされた。相手の肚を読むより先に、こちらの肚の内を見せる破目になった。交渉の主導権を握られたか。
想像以上に食えぬ男だ。
こうなれば、何としてでも六角の譲歩を引き出してやる。
……ふむ。このあめちゃんとやらは甘くて美味いな。




