将来像
・天文九年(1540年) 十二月 尾張国春日井郡 品野城 明智光綱
障子の隙間から冷たい風が入って来て思わず首をすくめる。
会談の場所を広間では無く居室にしたのは正解だったな。火は足りているだろうか。四隅に火鉢を置いて寒くないようにしてあるが、それでも近江宰相様は鎧下地の上に綿入りの上衣を羽織っておられる。
暖かい白湯をお出ししたが、既に茶碗からは湯気が立たなくなっている。替わりの白湯を持ってくるように申しつけようか……。
「それと、もう一つ山城殿(斎藤利政)に頼みがある」
「何でしょうか?」
おっと、次のお話が始まるか。では、まだ余計な動きはせぬ方が良いな。
「娘御を、頂けまいか?」
近江宰相様がゆったりとした笑顔でこちらにも顔を向ける。
なるほど、それで……。
「万寿丸様でしょうか?」
「無論だ。万寿丸はまだ五歳だが、山城殿の姫君も同い年と聞く。似合いの夫婦になるだろう」
やはり間違いない。帰蝶姫を万寿丸様の北の方として迎えたいと仰せなのだ。
帰蝶姫は我が妹の小見の方が産んだ姫君だ。それが近江宰相様の御次男に輿入れするとなれば、我ら明智家も六角家の縁続きということになる。
だからこそ我ら明智兄弟が守備する品野城をわざわざ訪れて下さったのか。何とも気を使って頂くものよ。
「否も応もありませぬ。こちらこそ良しなにお願い申す」
殿もこちらをチラリと見られた後、笑顔で返された。
万寿丸様はゆくゆくは大原次郎殿(大原高保)の名跡を継いで大原家の当主となられる御方と聞く。次郎殿が美濃へ援軍に来て亡くなられたことは、我が美濃にとっても痛恨の出来事。殿も常々、次郎殿には詫びても詫びきれぬと申しておられた。我が美濃が大原家の再興に一役買えるのであれば、内心ではさぞやお喜びであろう。
無論、儂にも何の異存も無い。
「しかし、お恥ずかしながら我が娘はじゃじゃ馬にて、今すぐ輿入れするにはちと作法が……」
「なに、今すぐにとは言わぬ。万寿丸もまだ五歳だ。こう言っては何だが、無事に成長してくれるかすら未だ分からん。今は将来万寿丸の嫁に頂くという約束があれば十分だ」
こうしてはおれんな。
彦太郎(明智光秀)にも帰蝶姫にはあまりやんちゃなことをさせぬように申し聞かせねば。彦太郎は若殿(斎藤義龍)のお側衆として稲葉山城に出仕させているが、帰蝶姫とも何かとお相手をする機会があると文に書いてあった。
万に一つも帰蝶姫に怪我などさせては一大事だ。
・天文九年(1540年) 十二月 駿河国安倍郡 今川館 太原雪斎
「御屋形様、何卒思いとどまって下され」
先ほどから対面の御屋形様(今川義元)は苦り切った表情をしておられる。御屋形様の苦しいお立場も分かるが、さりとてこれ以上北条家の影響下に入るのは危険すぎる。
「雪斎。何度も申したであろう。これはもはや決まったことだ」
「しかし、これがどのような結果を招くことになるか、御屋形様も気付いておいででしょう」
「……徳川が倒れた今、せめて掛川までは奪回せねば家中の者も不満が高まろう。今更六角家に東三河を返せと言う訳ではない。ただ天竜川までは取り戻したいというだけだ」
「旧領の奪還については、拙僧も異存は御座いませぬ。ただ、それに北条家の援軍を借りるというのはいくら何でも……」
「やむを得まい。今すぐに軍を起こすには今川は傷を負い過ぎた。だが、事は急を要する。グズグズしていれば井伊のように掛川もどこぞの新参者にかすめ取られるやもしれん」
能面のような表情で淡々と告げる言葉は、まるで他人事のようだ。御屋形様も本意ではないのであろう。
恐らく尼御台様(寿桂尼)の差し金であろうな。
年内の掛川奪還を声高に主張しているのは朝比奈備中(朝比奈泰能)、瀬名伊予守(瀬名氏俊)、それに葛山備中(葛山氏元)か。朝比奈は尼御台様の姪御を妻としているし、瀬名も増善寺殿(今川氏親)の姫君を娶っている。いずれも尼御台様の影響は強い。それに葛山は元々が駿東郡の国人で一時は北条に降っていた者だ。今は今川家に帰参しているが、今川よりも北条の意向に強くなびくだろう。つまり、いずれも尼御台様の……言い換えれば北条家の影響が強い者達だ。
今川家が北条家の影響下に入れば、北条家の後ろ盾を得て今川家の実権を握れるとでも思っておるのだろう。拙僧に取って代わることが出来ると……。
愚か者共め。たかが坊主一人を追い落とすために今川家を北条に売るというのか。
いずれ六角家はこの駿河までやって来る。今川家が北条家の影響下に入れば、いざという時には今川は北条の盾としてすり潰されるだけだと何故分からん。
「例え新参者がかすめ取ろうとも、今川家そのものの力を充実させるのが先決でございましょう。天竜川の東は代々今川の影響力の強い土地でございます。新参者が取ったとしても奪還することは決して難しくは御座いません。曳馬とは違います。
それよりも、今は傷ついた駿河の仕置きを充実させ、合わせて左馬助様(今川氏豊)と連絡を密に取り……」
「義母上は左馬助を快く思ってはおられぬ」
「……」
「左馬助は父上の実の子ではない。それが義母上には面白くないのだ」
血縁……。
確かに尼御台様にとっては大きなことなのかもしれんが、左馬助様には今川宗家を簒奪しようなどという野心はない。そのつもりがあれば花倉の乱の時に第三勢力として立ち上がっていたはずだ。
当時から左馬助様は六角家の後ろ盾を得てその立場は安定していた。その気ならばとっくに兵を挙げているはず。
今頼りとするべきは左馬助様以外に居ない。
「六角との衝突は可能な限り避ける。うまい具合に曳馬……いや、浜松城には吉良左衛門佐殿(吉良義堯)が入っている。左衛門佐殿は義母上の実子を娶っている縁戚だ。いかに今川庶流とはいえ、どこの馬の骨とも知れぬ左馬助などよりも吉良殿を頼りとせよと義母上も仰せだ」
馬鹿な……。
吉良などアテになるものか。尼御台様の御長女を娶っていると言っても所詮和睦の為の婚姻に過ぎぬではないか。それに、遠江の実権を握っているのは吉良ではなく井伊だ。左衛門佐などただの神輿に過ぎぬ。
神輿に実権を持たせるほど井伊は馬鹿な男ではない。
「御屋形様……拙僧は……」
「もう言うな。決まったことだ」
何と哀しげなお顔を……。
「これが儂の宿命なのだろう。格下と思っていた徳川に足を掬われ、元々今川の守護代であった北条にはアゴで使われる。下剋上によって今川家の実権を失った哀れな男だ。
だが、儂は決して諦めたわけではないぞ。今は流れに逆らえんが、一朝事あれば必ずや今川家の実権を取り戻す。その為にも、今は耐える時だ」
本当にやむを得ぬのか。
尼御台様を取り巻く者達にとって確かに左馬助様は邪魔な男に映るだろう。だが、今や天下の覇者たる六角家の力を引き出せるのはその左馬助様以外に居られぬ。
左馬助様が御屋形様を補佐すれば、北条におもねる者達など立ちどころに一掃されるだろう。
拙僧だけでも密かに左馬助様と繋ぎを取り続けよう。今はそれしか打つ手が無いか……。
・天文十年(1541年) 正月 近江国蒲生郡 観音寺城 進藤貞治
やれやれ、相変わらずお花の方様にも困ったものだ。
今度は正月の宴で嬉々として牛乳や乳製品を振舞われた。いかにお方様が好んでおられるとはいえ、皆が酒を飲んでいるというのに牛の乳では肴にもならん。
ま、だが確かにあの『蘇』とかいう物は美味かったな。塩気が効いた蘇は酒にもよく合った。あれだけは皆の衆にも評判が良かったか。
おや、あれは……。
「監物殿(平手政秀)。どうなされた? このような所でたそがれて」
「山城殿(進藤貞治)。此度は……いや、此度もお方様がご迷惑をお掛けして申し訳ござらん」
縁側に座っていた監物殿が立ち上がって頭を下げる。
監物殿も随分とご苦労なさっているな。頭にもすっかり白い物が増えた。
「いや、何より御屋形様(六角定頼)が甘やかすのが原因でござる。何度も御屋形様にはご説教申し上げているのだが、いつも苦笑するだけです。六角家を大大名に飛躍させた名君とはいえ、昔から奥向きについてはてんでなっておられぬ」
「ははは。山城殿にかかれば英雄近江宰相様も形無しですな」
監物殿にも笑顔が出たか。
主君に振り回されている者同士、監物殿の苦心はよくわかる。こうして愚痴を言い合えるのも監物殿だけだな。
女中に茶を二つ持ってくるように言うと、儂も監物殿と並んで縁側に腰かける。酔った体に冷たい夜風が心地よい。
「しかし、監物殿も大変ですな。本来は吉法師殿の傅役であられるのに、これではまるでお方様の傅役のようだ」
「……あまりお方様を責めないで頂きたい。あの方はただ焦っておられるのです」
「焦る?」
意外だな。事あるごとに儂や御屋形様に頭を下げさせられている監物殿が一番腹に据えかねているかと思いきや……。
「左様。ご自身が近江宰相様の寵を得なければ吉法師様の身の上が立たぬと思っておいでなのです。多少やり過ぎるきらいはありますが、その心根はひたすら吉法師様の御事を思っておられる。
ご自身の責めによって吉法師様から織田家の家督を奪ったことを気に病み、何とかして宰相様の寵を得て吉法師様の身を立てさせようと思し召しなのです」
「……左様でしたか」
「無論、それが奥向きを騒がして良い理由にはなりません。お方様の暴走を山城殿が観音寺城限りの笑い話として済ませて下さっていることは常々有難く思っております」
「いや、それが某の役目でござれば……」
しばし沈黙が流れる。
二人そろって茶碗を取り上げ、湯気を上げる茶を一口すする。やはり冬は暖かい茶が美味いな。
「この度、万寿丸様の婚約が調ったことでお方様は益々焦っておられるのでしょう。このままでは吉法師様が世間から取り残されるのではと心配しておいでなのです」
なるほど。確かに三河から戻ってから、お花の方様は積極的に御屋形様に侍りに行かれる。
傍から見ていれば逆効果にしか見えぬが……。
「そのこと、一度御裏方様や御屋形様にご相談申し上げましょう。吉法師殿も既に七歳。そろそろ行く末のことも考えねばならんご年齢でもある」
「よろしくお願い申し上げます。吉法師様の将来像が見えれば、お方様もある程度安心して過ごされるのではないかと思います」
やれやれ、監物殿もとんだ気苦労を背負い込まれたものだ。
……儂も他人のことは言えんか。まったく、この主君に仕えたのが運の尽きと思うしかないな。
ちょっと解説
以前に今川義元が寿桂尼の実子ではなく養子であるという説を採用していましたが、今川氏豊についても氏親の実子ではなく養子であるという説を採用しています。
史実で織田信秀によって那古野城を追われた氏豊は、そのまま駿河に帰ることなく京に逃れています。信虎のようにそのまま今川家の一員として京で活動を続けているのならばともかく、その後氏豊の京での動きは史料に見えず、結局駿河に戻って義元の世話になっていたような史料がありますので、氏親の実子として考えるとどうにも氏豊の動きが不可解でした。
ただ、『氏豊が今川氏親の実子では無かった為に駿河に居場所が無くて京に行ったが、結局ロクな活動が出来ずに駿河に下向して義元に頭を下げた』とすると何となく氏豊の行動の辻褄が合うような気がしてきます。
血縁が無いに等しいので本当は義元の世話になりたくはなかったが、京でもロクな後ろ盾が無く自分の生活もままならないほどに零落してしまったので最終的に義元を頼ったとすれば、氏豊の行動の動機が何となく理解できるような気がしました。
また、本稿では信秀の那古野城奪取を天文七年であるという説を採用していますが、それであれば史実の花倉の乱に氏豊の介入があってもおかしくなかったと思います。氏豊が氏親の養子であれば、史実の花倉の乱の時にも那古野の今川氏豊は一切関与していない理由として充分です。
今川宗家の相続権どころか家督に口出しする権利すらも無ければ、花倉の乱で傍観者を貫いた理由も頷けます。
というわけで、『氏豊は氏親が尾張支配の為に那古野今川氏を再興させようと送り込んだ養子』という設定にしています。
今まで意識的に目立たないように描いていた氏豊ですが、ここに来て中々のドラマが生まれて来たんじゃないかと思います。




