フレイバー・ピグミー(三十と一夜の短篇第30回)
「新作が出てるわよ!」
ショーウィンドウに飾られた『商品』を眺め、数人の若い女性が嬌声をあげる。そこはいわゆる『貴族御用達』の特殊な店だった。
庶民には決して手に入らない――ほんのひと匙で工場勤めの職人の月収が吹き飛ぶような――希少な蜜や、その香りだけで楽園へ行けるという噂の香など、世界中から取り寄せられた名品が並んでいるのである。
――ふん、俺たちの税金で贅沢をしているくせに、いい気なもんだ。
広場の反対側にいたウリールは、身なりのいい彼女たちを横目で一瞥した。
彼の眼には蔑みに似た翳さえあったが、その認識は正しくはない。
彼女たちは庶民と同じく領主に税金を納める立場だ。税金で暮らしているのは領主とその家族。そして領主に直截仕える武官や官吏の中の役付きのみである。
だが彼女たちの父親や婚約者は、そのほとんどが貴族や官吏やその候補であり、つまりウリールはそういうところを皮肉っていたのだ。
対してウリールが身に着けているのは、膝や肘につぎをあてた服だった。長さだって合っていない。
食べられずに細いままだから胴周りは余裕があったが、ここ一年でひょろひょろ背丈だけ伸びて手首も足首も剥き出しになっている。
今年十二になった彼はこれからますます成長するだろう。だが着替えをひと揃い手に入れるだけでも、彼の家族には大層な努力が必要だった。
彼らにとっては、日々の食べ物を手に入れることの方が何よりも重要なのだ。
「今度の週末、お父さまに買ってもらいましょうよ!」
「あら、あたくしは明日買いに来ようかと思いましてよ?」
「そんなのずるいわ。抜け駆けなしよ?」
ひらひらと軽く風に舞うレースのフリルは天舞絹魚の尾びれのようだった。たっぷり布を使ったドレスのような彼女たちの『街着』は、その一着だけで、ウリールのような身分の家族――彼は八人家族だった――がどれだけ長い間生きられるような金額なのか、もう考えるのも嫌になるほどだ。
それよりもウリールは、週末に街の外の湖に出掛けようと考える。
観賞用として人気のある、天舞絹魚の幼体を捕獲するのだ。
ほとんど透明に近い幼体は水の中を素早く泳ぎ回る。ウリールのように眼がいい子どもならば捕獲も可能だが、大人の鈍さでは半日掛けてもせいぜい一、二匹だろう。だから幼体の捕獲は下層の子どもたちのいい収入源になっていた。
――十匹も獲ればいい値になるな。今は養殖物ばかり出回る時期だから、交渉のしようもあるかも知れない。
天然物はより高く売れるため、買い取る店の主人も気前よく支払ってくれる――たとえそれが正規ルートで買い付ける数十分の一の値段だったとしても、ウリールたちには大層な金額だったのだ。
いつものことだが、週末までに残る食材はわずかだろう。それをどうやりくりして弁当をこしらえたものか、ウリールは考えを巡らせる。
――そうだ。遊ばせがてらに、すぐ下の弟たちを連れて行こうか。でもラキトは水に濡れるのを嫌がるからなぁ。
その間に彼女たちは通りの向こうへ消えていた。残されているのは彼女たちがこぼしたり食べ飽きて捨てた菓子と、その包み紙などだけだ。
彼は素早く駆け寄ると、半月型に食べ残された揚げ菓子を落ちていた紙で包み、ポーチの中に隠した。
甘いものが好きな小さい妹にいい土産ができて、嬉しさに顔がほころぶ。
ウエストにつけているポーチは、彼が唯一持つことを許された『財産』だ。
彼が清掃員の仕事を始めた頃、入れ替わりに引退するカトラス爺さんから受け継いだのだ。時々裏通りのチンピラ共に締め上げられ、なけなしの持ち金を奪われることもあるが、このポーチだけは何がなんでも譲らなかった。
まるで愛玩動物を撫でるかのように、そっとポーチの蓋を閉じる。それからようやく、残りの紙くずと食べかすを掃除しにかかった。
紙くずを寄せ集めながら、ウリールはふと、さっきの彼女たちは何を見ていたのだろう、と気になった。
しかしウリールたちの階級――最下位ではないが、それにほぼ等しい――の人間は、彼女たちのような上級の者たちに興味を持つことは許されていない。
――だけど、俺は彼女たちじゃなく、こっちの『もの』に興味あるだけだ。
そう自分に言い訳をし、ショーウィンドウを覗き込む。
店の商品を眺めることは誰にでも許されていた。ただし、店主に睨まれたり追い払われたりしても、ウリールのような立場では文句も言えないのだが。
薄暗いショーウィンドウに目を凝らす……すると、こちらを見つめている大きな一対の瞳と目が合った。
「なん……だ。これ……?」
ウリールが見たのは、子どもの手のひらにも乗るような――ヒヨコマメふたつ分くらいの――大きさの、小人だった。
* * *
ウリールは路地裏にある清掃員たちの事務所に戻ると、先ほど見たものについて興奮気味にダガーに報告した。
肌も髪の毛も透き通るようなライム色。顔に対して随分大きめに思えたふたつの目の色はレモン色で、もしもそれが動かなかったら精巧に作られた砂糖菓子と言われても信じただろう。
しかし、ヒヨコマメふたつ分くらいの大きさでしかないのに、それは確かに生きていたのだ。
同じ地区のベテラン清掃員であるダガーは、彼の青い目を思いっきり見開いた。
「なんだ。ウリールは『フレイバー・ピグミー』を知らないのかい?」
「だからそれはなんなんだよ?」
「なんだと言われても……なんでも、味がするんだとさ」
「何が?」とウリールは訊き返す。
「味だよ――その小人は食い物なんだとさ」
ダガーは肩をすくめた。
「甘いのや酸っぱいのや辛いのやあって、香りもライムみたいのやバニラみたいのやあるんだと。それを生きたまま食うんだと……お金持ちの考えることはわかんねえよな」
「まさか」
「俺もその現場を見たこたぁないけどよ、カフェなんかじゃ、パンケーキに挟んだり、アイスクリームにトッピングしたりもすんだと」
「あんなにきれいなのに?」
「きれいかどうかは俺たちには関係ねえよ。まぁ、小人自体、俺らの人生には関係ないけどな――って、おいウリール! 今日の分の賃金は」
物思いにとらわれ手ぶらで帰り掛けていたウリールは、はたと正気に返った。
「忘れてた」
「まぁったく。おばさんにキャベツを買って来いって言われてたんだろ? それも忘れたのかよ」
ダガーはカフェオレ色のつやつやした頬にエクボをふたつ作り、ニッと笑う。彼は、三つ年下のウリールが弟のように可愛くてしょうがないのだ。
ウリールの肌の色は彼と違い薄いオレンジ色だが、鳥の巣のようなくせ毛と穏やかな灰色の瞳が、小さい頃に亡くした彼の弟と同じなのだという。
「――俺は、どんなに金持ちになっても、あの小人は食いたくねえな」
小さなコインを数枚、ウリールの手に落としながらダガーは呟いた。
「俺のじいちゃんが言ってたんだけどよ、『どうしたって人間は命を食わなきゃ生きられねえんだから、食わないで済む命は食わない方がいい人生を送れる』ってよ。だから俺は、食わないで済むあれは食いたくない」
そう言って、彼を見上げるウリールの頭をくしゃくしゃ乱暴にかき混ぜる。
「まぁ、あれ自体俺らの人生には関係ないだろうけどな……さ、そろそろ帰った方がいい」
今日はいつもより多くの区間の掃除ができたので、市場でキャベツを買ってもほんの少しだけ余裕がありそうだった。金持ちの娘たちが食べていたような揚げ菓子は無理でも、星形の砂糖菓子ならいくつか買えるかも知れない。
手の中にしっかりコインを握り締め、弟たちに何色の菓子を選ぼうか考えながら広場を横切った時、ウリールはまたあの小人が気になった。
ウリールがこの地区の担当になったのは三年も前になるが、今までは主に細い路地や建物の裏の、皆が嫌がる場所を担当することばかりだった。
表通り、しかも高級商店街の広場付近など、夜中でもなければ通れない特別な場所だったのだ。
店の付近に誰も――上の階級の人間が――いないのを確かめるとウィンドウに走り寄る。さっき目が合ったライム色の髪と肌を持つフレイバー・ピグミーは、繊細なカットで装飾が施されたグラスの中で眠っていた。
「おい、起きろよ。そこにいたら食われちまうんだぞ」
ウリールは囁くように声を掛ける。厚いガラスを通して小人に聞こえるのか、そもそも言葉を理解するのかもわからなかった。
ウィンドウの奥の方では、大きなガラスの壺の中にフレイバー・ピグミーが何体も入れられているのが見えた。
オレンジ色、ピンク色、スカイブルー……その多くは肌と髪の色が同じだったが、中には若葉のような明るい緑色の髪に、テンパリングされたチョコレートのようにツヤツヤした褐色の肌という小人もいる。
それぞれが違う味と香りを持つ、高級な、生きている菓子――妹や弟たちがこれを見たらどんな風に思うのだろう、と彼は考える。
果たして、きれいとかかわいいとか、そういった感想の他に、美味しそうと思うのだろうか。あの金持ちの家の娘たちは、これを見てそう思ったのだろうか。
軽やかな笑い声が聞こえて来て、ウリールは我に返った。
――しまった。誰か来る。
どちらへ逃れるかと周囲を見回した時、市場に続く道の方から数人の娘たちが現われた。
先ほどの彼女らと似たような家の娘たちのようだ。結い上げた髪にはきらめく髪飾りが揺れ、街着もフリルやレースがふんだんに使われている。
その手には花や菓子、そして風にそよぐふわふわしている何か――ウリールには見当もつかない物などをいくつも抱え、こちらへ向かって来た。
「――それでね、『新作』が……」と、その中のひとりが言い掛けて、ウリールに気付く。途端に眉間には不快そうな皺が刻まれた。
「いやだわ! 何故こんな時間に清掃員がうろついてるの? ああ、汚らわしい!」
清掃員たちが仕事をする時間帯は決まっているが、それ以外の時間に街を歩いてはならないという法律はない。
だが上の階級の人間はこんな風に彼らを蔑み、彼らと同じ空間にいることを忌み嫌った。
「あっちへ行きましょう」と、ひとりがハンカチを出して口を押さえる。
「きれいな物を見て楽しかったのに……なんて不運なんでしょう」
「ああ、せっかくの美味しいお菓子の味が台無しだわ」
口々に嘆き、大袈裟なため息を何度もつきながら、彼女たちは通りの向こう側まで足早に去って行く。ウリールは羞恥と悔しさに耐えながら、彼女たちの声が遠ざかるまでずっと顔を伏せていた。
――たまたま、生まれた家が金持ちだったというだけじゃないか。
やり切れなさと怒りがないまぜになり、腹の奥に重く降り積もる。だとしても自分ではどうすることもできないことだ。
ウリールは深くため息をついた。
視界の端に炎が揺れたように見えて彼が振り返る。すると、ショーウィンドウの中の小人が彼を見上げていた。先ほどの彼女たちの声で目を覚ましたのだろう。
まばたきもほとんどしない、その大きなレモン色の瞳は、何かを問うように見つめる。
「安心しろ。僕はお前よりも砂糖菓子を食べた方が幸せなんだ」
伝わるはずがないと思いながら呟く。すると、ライム色の小人はウリールを見つめたままうっすらと笑みを浮かべた。幼子がなんの疑いもなく肉親へ向けるような、純粋な笑みだった。
――こんなに愛らしい彼らを生きたまま食べるなんてこと、どうして平気なんだ……金持ちの奴らは狂ってる。
ウリールは小人に笑みを返してその場を離れた。
先ほどの娘たちがいた辺りに小袋が落ちている。拾い上げてみると、娘たちのひとりが食べていた砂糖たっぷりの揚げ菓子だった。
たったひと口齧っただけで捨ててしまったらしい。
「なんだ。全然食ってないのに」
その小さな袋には、ボール状の小さな揚げ菓子もいくつか入っていた。ウリールを見て気分を害した娘は、同じ空気に触れた菓子を食べたくなかったのだろう。
「まぁいっか。お陰で土産がまたできたな」
ウリールは呟くとにっこり微笑んで、揚げ菓子の袋をポーチに仕舞い、市場へ向かって歩き出した。