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「ヘルタースケルター」について

 先ほど、はじめてこの作品を知って読んだ。ぱっと見た感想は「ああ、こりゃいかん、これは天才だな」と言う事だ。岡崎京子はおそらく、衆目の見る通り天才だろう。しかし、それが本格的な意味で天才かどうかと言うと、僕はそこに疑問符をつける。しかし、凡百のクリエイター、アーティストとは違う天才だという事は間違いない。


 岡崎京子が描いている世界は例えば、村上龍やミシェル・ウェルベックと同一のものである。つまり、高度資本主義における華美と退廃である。人はこの内、大抵、片方しか見ないが、しかし、これを同時に、矛盾として描く事ができるという事に作家としての力量があるという事になる。そういう意味で岡崎京子は、村上龍の世界観にかなり似通っている。そしてその際、岡崎の作品は、女性であるから、女性視点だという事が違う。しかし、それはそう本質的な差異ではない。重大な事は、この高度に享楽的な社会の、美しさ、華麗さとその下の醜さを同時に描けるかどうか、という事である。


 「ヘルタースケルター」の主人公りりこは、美を追い求め、怪しげな整形に手を出し、薬に手を出し、しかしその反作用でその美は次第に蝕まれていく。彼女はテレビ界のトップスターなのだが、彼女の美が、人工的に作り上げられた美が崩壊していく事によって、彼女の精神も一緒に崩壊していく。そしてその過程で、それに付随するマネージャーと、マネージャーの恋人をも一緒に奈落にひきずりおとしていく。


 どこから評論してもいいのだが、例えば、岡崎京子はりりこの「暗さ」というものを的確に描き出す事ができている。りりこがひとりぼっちになった時、「ひとりになった時になにをすればいいのかわからない」と内省する場面がある。りりこには孤独が耐えられない。りりこという存在は正に、他人の視点の、その関係の中で存在している存在である。彼女自身、自分の孤独に耐えられない。誰かがいる、あるいは誰かが自分を認めてくれている、そのようなあり方でしか存在できない存在である。彼女は関係の網の目の中で生きている。そしてテレビにおけるスターというのは、その関係の網の目の中心のような存在である。しかし、それにも関わらず、その網の中心は、それが網の目の中心であるという事により、空虚である。それは徹底的に空虚である。りりこは知っている。つまり、自分が大衆に認められているわけではなく、正に大衆が求めるものを自分が演じる事により、人々に認められる、という事を。しかも、その認証というのは実に浅はかなもので、彼女が自殺しようが、テレビから消えようと、一年もすれば、誰しもが彼女の存在を忘れてしまうだろう。


 こうした存在は現実にメディアの世界で起こっている事だろう。岡崎京子の意図を越えて僕が誇張して言うならーーー今の人々は皆、「お客様」である。人々は今、客観的態度、お客様としての態度、傍観者としての態度で世界を見ている。ヤフーのニュースについている簡易掲示板には常に、他人事としての正義論が振る舞われ、そしてそれに「賛同する」のようなポイントがついている。しかし、その際、何かをする、何かをしなければならないのは常に他人であって、自分ではない。自分は何もしなくていい。何故なら、自分は才能のないただの凡人なのだから。何かをしなければならないのは、才能ある人、人気のある人、公人、政治家、スポーツ選手、そうした人達に限られている。「私」は、何もしなくていい。だって、私はお客様だもの。この世に対して、あるいは自分自身の人生に対して私はお客様だもの。


 そうしたお客様気分に対して、りりこは美しい破滅の舞いを踊る。彼女は自分が破滅する事を知っているが、それを求めているが故に、それを止める事をやめられない。


 そしてそれに対して、吉川こずえという新たにでてきたタレントーーモデルがいる。こずえはりりこと違い、本物の美しさを備えている人物である。そして、岡崎京子が優れた鬼才であるのはーーーこのこずえが、りりこと違って、人気を得続けているのは、彼女がそれに執着していないから、という事を的確に描けているからだ。つまり、こずえはりりこのような、ある種の執着がない。そこまでは岡崎は描いていないが、しかし、おそらく、こずえには、りりことは違う、もう一つ上の視点を持っていると考えてもよいだろう。つまり、りりこは他者の視線、他者との関係、トップスターとしての自己、他人に対して見返してやりたい、母から逃げ出したいという、いわば「二次元的な」段階にとどまっているのに対して、こずえはそれらを冷静に、どこか俯瞰した視点で見ている自分がいるのである。その点がこずえとりりことの根底的な違いである。こずえが人気を得続けられるのは、本当の事を言えば、彼女が「美しいから」ではない。そうではなく、彼女がテレビの中でスターとしての地位を保ち続ける事ができるのは、彼女が人々の欲望より一つ上の俯瞰した視点を持っているからだ。


 …しかし、今言った事は(ヤマダヒフミ)の多少の誇張を含んでいる。物語は、あくまでもりりこを中心にしているので、僕は少しこずえをクローズアップしすぎたと思う。この辺りは原作を読んで確認してもらえればいいと思う。


 岡崎京子が非常に優れた作家・漫画家であるというのは以上のような事で多少は触れられたのではないかと思う。物語、あるいは漫画、文学(ヘルタースケルターは文学だと僕は思っている)というのには非常に奇妙な所がある。もし、現実にりりこという人物がいたとしても、僕はその「人物」には何の興味も感じないだろう。(そしてこうした人物は、テレビ・ネットの中に現実に見つかる) そしてまた、りりこのマネージャーとか、その恋人などと現実に会って話してみても、僕は彼らに対して何の興味も覚えなかっただろう。僕が「ヘルタースケルター」の中で、特に興味を持つのは、こずえである。それは、こずえがりりこに比べると、やや複雑な精神構造を持っているからだ。そしてその精神構造が、人々に解かれな間は、こずえは人気者で在り続けるだろう。…もちろん、現実的に美を保つ必要もあるだろうが。


 今、僕は、りりこには興味を引かれないと言ったが、しかし、僕はりりこの破滅を主題としたこの作品には大いに興味を抱く。では、それは何故か。そこに、作品、フィクションの謎がある。つまり、りりこの内部には明るいものはなく、暗い、低次の精神構造しかないのだが、しかし、それを照らす作者の視線は明るいのである。つまり、岡崎京子という人物がりりこの暗部に光を当てる限りにおいて、この人物は、我々にとってかくも魅力的で、永続的な存在となるのだ。もし、りりこという人物が現実にテレビ・ネットの中にいたとしても、僕達は、「ヘルタースケルター」の中の人々と同じような態度を取るだろう。つまり、僕達はりりこという人物を、一種の人形的なものとして愉しみ、そして愉しんだ後はそれをポイ捨てにするだろう。


 りりこという人物は物語の最期ではフリークスとして、外国でショーをしているという事になっている。しかし、僕は思うのだがーーーりりこは最初からフリークスだったのではないか。そしておそらくは、岡崎京子もその事を意識していたのではないか。つまり、アイドル、トップスターというのは、いわば、形の異なったフリークスにすぎない。ねじれた奇形というものと、完全に抽象化され、偶像化された美とは同じものなのではないか。そういう事が、いわば物語の最期では示されているのではないか。…そして、ここでこの作品は終わる。それでは、りりこという奇形の人物は元、何だったのか。彼女の中に最初から破滅は内蔵されていた。だとしたら、我々の内にも同種の破滅は内臓されていないだろうか? SNSなどのつながりによって、人々の承認欲求はますます強まった。そこで、他者の視点の内にのみ存在できる存在ーーロボットのような存在が現れるのではないか? そしてそこに身を置く時、人は自らの中に完璧な空虚を見出す。そしてこの空虚から、この像化された現代空間の中で、我々は逃れられないのではないか? りりこは美しく、彼女は破滅する。そしてそれに伴い、我々の承認欲求も破滅するのか? 岡崎京子は僕達にある種の事柄を予知し、示したと言う事もできるだろう。そしてこれからも、りりこに付随するような一つの舞い、劇は訪れる事だろう。しかし、そのそれが真に意味を持つのは、「ヘルタースケルター」という作品そのもののように、それそのものに光を照らす、岡崎京子という優れた作者が存在して始めて可能となるものなのだ。僕は、そう思う。




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