アパートの住人たち
やっとわかってきました・・。
日曜日の朝、紐で縛ったダンボール箱を車に積んでいると、海外旅行用の大きなスーツケースを転がしながらムサイ男の人がアパートの私道に入って来た。背中にも大きなリュックサックを背負っている。
「あれぇ~? 君は酒井さんの後に入った人ぉ?」
三十代くらいの薄汚れたお兄さんだ。髪がバサバサに伸びていて、口の周りにも無精髭が生えている。
「はいっ。難波康介といいます。よろしくお願いします。」
丁寧にお辞儀をすると、その人はボリボリ髪をかきながら挨拶を返してくれた。
「あ~、俺は一階の右端の部屋の立花右京という者だ。まあ、よろしく。」
この人が姿を見かけなかった右隣の人か・・。
「ちょっと待ってくださいっ。」
僕は慌てて引っ越しの挨拶のタオルを取りに行って、立花さんに手渡した。
「・・これはご丁寧に。遠慮なく頂戴します。難波さんは、お仕事は何を?」
「市役所の職員です。立花さんは?」
「・・うーん。自由業といったところかな。」
自由業という人を初めて見た。・・ここは詳しく聞かないほうがいいのかな。
「そうなんですか。それで旅行に行ってらしたんですね。」
「ああ、今回はまいったよ。思ったよりも長丁場になってね。これから風呂に入るからうるさくなると思うけどよろしく。」
「はい。どうぞゆっくり長旅の疲れを落としてください。」
立花さんに会ったのをきっかけに、ついでに二階の三件にも挨拶に行っておくことにした。昨日調達した追加のタオルを持って、階段を登っていく。
最初に左端のドアをノックする。
「お休みのところすみません。一階に引っ越して来た難波と申します。」
すると中で音がして声が聞こえて来た。
「はい。ちょっと待ってください。」
ドアを開けてくれたのは、五十代ぐらいのふくよかな女性だった。
「酒井さんの後に入られた方ね。」
「はいっ。難波康介と申します。よろしくお願いします。これ、粗品ですがお近づきのしるしにお納めください。」
「まあ、二階にまでご挨拶に来てくださってありがとう。木内さんに聞いたんだけど、市役所に勤められてるんだって?」
「はい。環境課におります。」
「あら、丁度いいじゃない。ちょっと聞いてっ。ゴミ収集所の事なんだけど埋め立てゴミの収集時間が早すぎるのよ。係の人に言っといてくれない?」
「公園前の収集所のことですか?」
「もちろん。八時半までに出してくださいと書いてあるけど、八時過ぎには持って行ってるのよ。一か月に一度しかないからそれを逃すと困っちゃうのよね。」
「それはお困りですね。明日、そのようなお話があったと言っておきます。」
「よかった。じゃあよろしく。これ、ありがとうねー。」
・・・思わぬところで仕事をすることになってしまった。僕の仕事はゴミの収集とは直接かかわりはないけれど、このくらいのことだったら知り合いの職員に言っておけば済むことだ。・・・あっ、この人の名前を聞くのを忘れてしまった。まぁ、いいか。キクエさんにでも後から聞こう。
次に真ん中の部屋に声をかけたのだが、誰も出てこなかった。部屋に人がいる気配はするのだが・・・不思議だ。しょうがないので右端の小川キクエさんの部屋をノックする。すると何も言わないうちにドアがサッと開いた。
「難波さん。おはようございますぅ。昨日は・・どうもぉ。」
「おはようございます。お休みの日に朝早くからすみません。」
「ここではよく聞こえるから、ちょっと中に入ってぇ。」
キクエさんは小さな声でそう言うと、僕の手を引っ張って玄関の中へ引きずり込んだ。
「あがってっ。」
命令されて、少し戸惑ったが目で促されたのでこわごわと靴を脱ぐ。昨日やって来た大人しそうなキクエさんとは全然違う人みたいだ。
「あのう、いいんですかね、僕が部屋に入っちゃって・・。」
「いいのよ。ちょっと話しておきたいことがあるから、ここに座ってっ。」
「はぁ。」
キクエさんは、テレビをかけて少し大きめに音を設定した。僕は台所に敷いてあるふさふさしたラグの上に座って、ローテーブルに出された麦茶のコップを見る。もう僕の分も用意されているようだ。
「昨日は突然ごめんねぇ。でも難波さんが直ぐに事情を察してくれたから助かったわぁ。アケミちゃんはうちの従業員なんだけどぉ、私の忠告を無視して酒井さんとつき合ってたのよー。あんな薄情な男は止めといたらって言ったんだけどねぇ。」
「・・そうなんですか。」
「私は居酒屋を経営してるの。駅前の『きく江』っていうのよ。知らない?」
「ああー、行ったことはないけど知ってます。カラオケ屋の隣ですよね。」
「そうそこ。昨日、二階からあなたと悦ちゃんが帰って来たのを偶然見かけてね。ちょっと一言、言っておきたくて。悦ちゃんはねぇ、家族に恵まれなかったから変な男に引っかかって欲しくないのよぅ。あなた、悦ちゃんを幸せにするんだと覚悟を決めてから手を出してねっ。ちょっとそこの所だけは釘を刺しときたかったの。」
・・・まさか引っ越しの挨拶に来てこんな話を聞かされるとは思ってもみなかった。
「あのー、キクエさんと悦子先生って・・。」
「悦ちゃんとは同級生なのぅ。私が家族を亡くして途方に暮れていた時に、ここのアパートを世話してくれたのよぉ。悦ちゃんには恩義があるから、せめて彼氏の教育ぐらいはして恩返しをしなきゃね。」
「彼氏?・・いえ、昨日はたまたま買い物の時にお会いして、棚を運んだだけの関係ですから。」
「そうなのぅ?・・いい感じに見えたけど。まだつき合ってないのならなおさら良かったわ。付き合うのは結婚の意思がある時だけにしてね。私達ももうすぐ28歳になるんだから若い人の遊びの恋愛につき合ってられないのよぅ。ところで難波さんって、何歳?兄弟はいるの?」
「・・・26になったばっかりです。次男です。兄が結婚して二世帯同居を始めるっていうんで、僕が家を出ることになって・・。」
「ああ、それでこんな中途半端な時期の引っ越しになったのね。」
結局キクエさんとはなんだかんだと話し込んでしまった。見た目は大人しそうに見えるけれど、さすがに接客業の人だ。一旦話し出すと止まらない。
キクエさんによるとゴミのことを話した人は、松永順子さんと言って大家の木内さんの遠縁の人で、ずっと独身のまま保険の勧誘員をしているらしい。「結婚してから保険に入りますって言って断るのよっ。」と断り方までレクチャーされた。真ん中の部屋の人はなんと漫画家だそうだ本名は中田琴美さんと言うそうだが、レディコミック誌に秋野木星というペンネームで恋愛マンガを描いているらしい。「中田さんのタオルは私が預かっとくわぁ。今の時期は修羅場だから半分意識が朦朧としてるのよぅ。覚醒したら渡しとくぅ。」と言ってくれた。
階段を下りて部屋に戻りながら僕は首をひねっていた。
僕の両隣の部屋の人のことを話していた時だ。左の部屋の外国人はタイから来た留学生でケンマチャットと言う名前らしい。「右側の部屋の人はネイチャーフォトを撮っている写真家で立花右京さん。」と説明されたところで、「ああ、さっき下でお会いしました。それで外国に長いこと行っておられたんですね。」と僕が言うとキクエさんの顔が変わって、「そう。帰って来たの・・。」と言ったきり考え込んで、「今日のところはこの辺で。」と言って、唐突に部屋を追い出されたのだ。
キクエさんと立花さんて、何かあるのかなぁ・・・。
何か事情がありそうですね。