へぇ、そうなんですね
ショッピングモールからの帰り道。
ショッピングモールからの車での帰り道、日村さんに名前を尋ねたら笑われた。
「そう言えば、言ってませんでしたね。下の名前は悦子と言うんです。よろこぶ子と書きます。ええっと愉悦の悦です。」
「・・ああ、わかりました。りっしんべんの字ですね。」
「そうですっ。難波さんのコウスケは、親孝行の孝なんですか?」
「いいえ。健康の康です。」
「そうですか。康介なんですね。了解です。」
「普通の近所付き合いでは下の名前を聞くこともないでしょう。」
「でもぽうさん横丁では、昔からの人が多いですからね。私はよく悦ちゃんとか悦ちゃん先生って呼ばれます。」
「へえぇ。・・・そう言えば、大家さんにでも聞こうと思ってたんですけど、ぽうさん横丁の名前の由来ってあるんですか?結構変わった響きの名前ですけど・・。」
「その疑問、わかります。私も小さい頃、祖母に聞いたことがあります。うちの隣の公園なんですが、昔は小さな仏像があってその前が村の人たちが集まる広場になっていたそうです。そこによく旅のお坊さんが参られて、村の人たちに説法を聞かせてくれたそうです。「せっぽうさんを聞きに行こう。」と言っていたのが訛っていって『ぽうさん』になったそうです。」
「なるほどー。いや、疑問が解決してすっきりしました。ありがとうございます。」
「いいえ、このくらいの事でしたらいつでも聞いてください。」
「・・ではこれからもよろしくお願いします。悦ちゃん先生。」
「ふふふ、はい。」
悦ちゃん先生、日村悦子さんは話しやすい人だ。のんびりと大らかに受け答えをしてくれるので、ついつい話をしていたくなってしまう。長年、学習塾をやっておられるからかもしれないが、もともと包容力のある人なんだろうな。
アパートに着いて、車から悦ちゃん先生の棚を降ろす。それを両手で抱えて、自宅にお邪魔した。
「場所を空けますっ。」と悦ちゃん先生が壊れた棚の中から教材などを出している間に教室の中を見せてもらった。二間続きの座敷の間の襖を取っ払って教室にしているようだ。綺麗に整頓されているが、長机の上にずらりと並べてある、何十冊もの積み重ねられたノートが気になって、手に取って中身を見てみた。
「この問題、コピーじゃなくて手書きなんですね。」
「ええ、コピー機のリース料も高いし、一人一人に合わせた問題を出したいのでどうしても手書きになってしまうんです。」
「うわー、凄い労力だ。」
「そうですか?祖母の時代からの方法なので、これが普通だと思ってました。」
「へぇー、おばあさんも塾の先生だったんですね。」
「ええ、祖母は長年、塾をやっていました。祖父を早くに亡くして女手一つで私の父を育てたんだそうです。学校の先生の免状を取っていて良かったと言えるでしょうね。ところが祖母が亡くなる前に私の父が亡くなったので、この家を継ぐ人がいなくなったんですよ。父が亡くなってから再婚した母は、ここを私に譲ってくれたんです。母は今、新しい家族と一緒に東京にいますからこの家の処分にも困ったんでしょうね。」
・・なんかほんわかしたこの人に似合わない家族の事情があったんだな。それで一人でこの家を守っているのか。両親の揃った家でぬくぬくと暮らしてきた、甘ったれた自分を思わず反省してしまう。
日村さんの家から帰って来て、またアパートの片付けに取り掛かった。靴を棚に入れて仕舞っただけでかなり片付いた感じがする。だいたいの片付けを終えて気分が良くなった僕は、買ってきた千切りキャベツと鶏のから揚げで一杯やることにした。
ノートパソコンでテレビを観ながらビールを楽しむ。ご飯を炊くのは億劫だったので、食パンをかじることにした。
独り暮らしは気楽でいいな。でも寂しいと思う時もあるんだろうか。
僕は日村さんの事を思った。テレビの声を聞きながら、頭の片隅でずっと日村悦子さんのことを考え続けていた。
・・・気になるを続けると?