興味深い転居者
日村悦子さんのターンです。
さっきホースで水をかけてしまった男の人って、なんか真面目そうな人だったな。
こっちが悪いのに、タオルを渡せば「すみません。」それを返すときにも「ありがとうございました。」だって。私が頭に散った水滴を拭いてあげている時に、戸惑っていた様子を思い出してついつい笑ってしまう。
いい人だな。怒鳴られることを覚悟していたのに、優しく許してくださった。包容力のある人なんだろうな。
うちのお父さんもあんな人だったら良かったのに・・。頑固で大きな声をして怒鳴ってばかりいたお父さん。それでも死ぬ前は大人しかったな。か細い声で「すまんな・・。迷惑かける。」とお母さんに言った時には、耳を疑ったものね。この人にもこんな面があるんだとびっくりしたことを覚えている。
それが小5の時だった。中2の時にお母さんが再婚した。私が高校に入ると、お母さんは私を寮に預けて、新しいダンナさんの転勤について行ったのだが、そうしてくれてホッとした。新しいお父さんは、亡くなったお父さんとは真逆のひ弱な感じの人で、一緒に暮らしているとひどく気を遣って疲れてしまうことがよくあった。言葉遣いは優しいのだが、ねっとりした粘着気質の人で芯は意外としぶとそうな感じがした。私としてはどうにもつき合いにくい人だった。その時、思春期だったこともあるのだろうが、実の父親とはあまりにも違うあの気質には何年経っても慣れることはできなかっただろうと思う。
「そういえばフミちゃん、今日もカメ太郎にラジオ体操をさせてたな。」
いくら鍛えても「忍者 タートルズ」には変身しないと思うんだけど・・・。片山のフミちゃんはもう小6になったんだけど、オシャレやアイドルに興味が出て来た他の女の子達とちょっと違う。男の子の友達の方が多い女の子だ。マンガやアニメが好きで、自分で描くのも得意だ。うちの教室でも、がんばり賞をあげる時にフミちゃんの描くアニメの主人公を商品に欲しがる子も多い。うちが原画を買い取ることも多いので、ある意味フミちゃんはプロのイラストレーターだ。
うちの隣の片山家には四人の子どもがいる。
長男の一平くんはこの春高校を卒業したばかりのフリーターだ。ダンスを勉強するために、お金を貯めてニューヨークに行きたいらしい。
次男の空くんは、兄とは違って堅実なタイプで貯金が趣味の健康オタクである。中3の受験生なので長年通ったうちの教室をやめて、この春からは町の中心部にある進学塾に通っている。
三男の大樹くんはフミちゃんの夫婦双子の相棒で、この辺りのガキ大将だ。
こういう男連中に囲まれて育つと、フミちゃんのような女の子が出来上がるというわけだ。
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今日は何をつくろうかなぁ。ナスがたくさん採れたから麻婆ナスにでもしようかしら。少し多めに作って木内さんちに持って行ったほうがいいかもね。この間田舎から送ってきたっていうカボチャの煮物を頂いたから、忘れないうちにお返しをした方がいいかもしれない。
私はご飯と味噌汁と卵焼きの朝食を食べた後に、キュウリの漬物を作り、麻婆ナスも大量に作りおきをした。今日は買い物に行く予定なので、出来合いのお惣菜を一品買ってくれば、トマトやキュウリのサラダをこしらえて三品で十分な夕食になる。
木内さんに麻婆ナスを渡すと、とても喜んでくれた。
「あら、悦ちゃん先生。ありがとうっ、これで夕食が楽になったわー。最近暑いからレンジの前に長時間立つのが苦痛なのよねー。」
「喜んで頂けて良かったです。私も塾で忙しい時に木内さんのカボチャの煮物に助けてもらいましたから。美味しいかどうかわかりませんけど・・。」
「何言ってんのッ。悦ちゃん先生は料理上手なのに。・・そうだ。先生は盆踊りのやぐらを組む係だったわよね。」
「ええ。・・まさかアパートのケンマチャットさんの都合が悪いんですか?」
「いいえぇ。その逆よ。男手がもう一人増えたのよ。ケンマチャットの隣の部屋に昨日市役所に勤めてる若い男の子が入ってくれたの。難波康介さんっていうんだけどね。今度の土曜日に紹介するわ。」
「はい。人手が増えるのは有難いです。準備に参加してくださる人はお年寄りの方が多いですから・・。」
これは嬉しい。やぐらを組むのは力のある男手が必要なのだが、今申し出てくれているのは、片山の一平君とアパートのケンマチャットさんぐらいだ。後は還暦を過ぎた方ばかりなのである。難波さんね。覚えとかなくちゃ。
木内さんの家から帰る途中に隣のアパートをチラリと見たら、本当に真ん中の部屋の前にダンボールを潰したものがたくさんまとめて置かれていた。前に住んでいた酒井さんは転勤だって言ってたな。九州に行ったんだったかしら。
見ていた部屋のドアが開いて、眼鏡をかけた男の人がダンボールをまとめたものを持って出て来た。
「あっ。」
「あっ、どうも先程は失礼しました。」
わわっ、今朝早くに水をかけてしまった人じゃないっ。あらー、これは困ったわね。何かお詫びの品を持って行っといたほうがいいかしら。そうねぇ、円滑な近所付き合いの為に必要ね。来週のやぐらの事もあるし・・。
私は家に帰って何を買ってこようかしらと考えて、難波さんが引っ越しをしたばかりの男の独り暮らしだということを思い出した。
食料よ。それが一番よね。
作ったばかりの麻婆ナスをパックに入れて持って行こうとして、ご飯はあるのかしら?と思い直し、結局朝の残りの卵焼きや畑で採れたプチトマトやキュウリなども入れたお弁当のようなものが出来上がった。
「これでよしっと。」
今のうちに持って行ったほうがいいだろうと直ぐにアパートを訪ねることにした。
玄関の戸をノックすると、ちょっといぶかし気な「はぁい・・。」という声が聞こえた。
「すみません。はす向かいの学習教室の日村です。」と言うと「えっ?!」と驚いた声がして、直ぐにドアが開いた。部屋の中は大混乱の様子で、玄関にもたくさんの靴が折り重なっていた。
「すっすみません。まだ片付いてなくて・・。」
「いえ、こちらこそお忙しい時に訪ねて来てすみません。あの~、今朝のお詫びと来週の盆踊りの準備に助力頂くお礼を兼ねて、手作りで申し訳ないですけど麻婆ナスを持って来たんです。よろしかったら食べて下さい。」
「はぁっ?!・・・なんかすみません。あっじゃあ有難く頂戴します。」
良かったー。受け取ってもらえた。どうもどうもと言い合って、じゃあ失礼しますと言って帰って来た。
やれやれ。
・・・しかしあの大混乱の部屋は今日中に片付くのかしら?ダンボール箱をひと箱ずつ片付ければいいのに、全部出しちゃったのね。男の人の片付け方って変わってるわ。
私は肩をすくめながら家に帰った。
家に帰ると、フミちゃんが困った顔をしてうちの玄関の前に一人で立っていた。
「悦ちゃぁん~、どうしよう。」
あらら、何があったのでしょう。
どうしたのでしょうね。