プロローグ~第一話「シルバー・デストロイ」
キチ……キチ……キチ……
冷たい雨の降る夜。少女は、耳障りな歯車の音を聞いていた。
見上げれば異形の怪物が、鋭い突起物で柔らかい血袋を二つ、貫いている。
数瞬前まで父と母だった物体から溢れ出す温かい液体が、雨に混じってパタパタと、少女の顔へ降りかかっていた。
鉄の匂いと、赤黒く染まる視界。
キチ……キチキチ……キチキチキチキチ……
歯車の音は、少女を嗤う悪魔の声のようだ。
そこで少女の記憶は、一度途切れる。
次に記憶にあるのは、泣きじゃくる少年の顔。
「マキ……?」
「ごめん……ごめん、ナユタ……おじさんとおばさん、が……」
少女はひとつ年上の幼馴染みを、血に濡れた掌で優しく撫でた。
何故か、少女の着ていた服はボロボロに焼け焦げている。
「大丈夫。これからは、わたしが……わたしがマキの事を守るから」
少年を撫でる掌は、そして強く握りしめられる。
少女の拳に、悲愴な決意とともに白銀の輝きが宿った。
「ナユタ? 手が……目も、髪も、銀色に……光ってるよ……?」
少年は驚く。
頭上に月は輝かない、新月の夜。
運命のいたずら、確率の悪魔。
月は女を戦女神に、男を破壊の魔獣へと、変貌させる。
これは、恋と戦いの物語。
***
日が沈んだ、首都圏の夜。
市民向けアナウンスが、屋外スピーカーから定期的に放送される。
それはあらゆるテレビ、ラジオ、個人用の通信端末からも同様だ。
『市民の皆様。今晩の月齢は29より0.66、新月です。月子線量は十二万チャンドラを超え、月性災害が予測されます。くれぐれも隔離された場所で、男性と二人きりにならないで下さい。また、個人端末のA's通報アプリをご確認下さい。故意による誤通報や、リュカオーンを目撃したにもかかわらず通報しない場合、処罰の対象となります』
深夜、六本木の路上。屈指の不夜城もこの晩ばかりは人が少なく、ゴーストタウンに近い様相に成り代わる。
「ねーぇ? 今晩はぁ、ヤバくないのぉ?」
「なんだよオマエ、俺が化け物になるって言うのか?」
派手なワンピースの年若い女が、男の腕に抱きついている。
男は帽子を目深に被っているが、注意深く見れば、彼がテレビでよく見る有名アイドルだと気づくだろう。
「えー? そんなことぉ思わないけどぉ」
「あのさ、アレで男が化け物なる確率知ってる? 30万分の1。飛行機事故に遭うみてえなもんだよ。そうそうありえねーんだって」
男は女の肩に手を回す。
「毎月この晩はチャンスなんだよ。出歩く奴が少ないだろ?」
「アハハ、リョウ君有名人だもんねぇ? 見つかったら大騒ぎになるよぉ」
「だから、俺みたいなトップアイドルが遊ぶには絶好のチャンスなんだよっ」
「きゃー」
腰に手を伸ばし体をさらに抱き寄せる男に、女は嬌声をあげる。
「リョウ君が狼になっちゃうーぅ」
「おーし、なってやる。月のせいだ、男が獣になるのは仕方ねーんだよっ」
男も乗り気になり女を抱えホテルに入ろうとした時、夜の闇から浮かび上がるように、白い人影が現れた。
「ひっ」
女が小さく悲鳴を上げる。
「なんだオマエ!? ……その制服……!」
男は人影が着ている服装に気がつき、驚愕した。女の方も、遅れて同じ事に気がつく。
「A'sの制服?」
人影の正体は、スタイルの良い女性。
白を基調とし、銀の刺繍が施された軍服に似た独特の制服。
目深に被られた制帽で表情は見えない。
「あんた、アルテミスか!? なんでここに」
アルテミスと呼ばれた女性は、手のひらサイズの端末を男に突き出す。
「リープカウンター数値増大。リュカオーン強度A、変異確率100パーセント」
「はあ?」
ハキハキした声で、唐突に告げる制服の女性。男は事態が飲み込めていない。
「リュカオーンって、いったい誰が……?」
「あなたよ。『B−RUSH』のメンバー、伊倉涼」
次の瞬間、男の体がドクンと大きく脈打つ。
「リョウ君……?」
伊倉涼の皮膚が、一瞬にして浅黒く変色する。
服が破れ、体の体積が膨張していく。
「嘘……ウソウソ、うそぉ……!」
変貌する男性アイドルの姿に、女はいやいやと首を振りながらへたり込む。
庇うように、また別の人影が前に立った。
「伊倉さん。先ほどの発言は間違っている」
落ち着いた声を発したのは新たな人影。
アルテミスと呼ばれた女性とデザインは似ているが、グレーを基調とした制服を着た男性だ。
メカニカルな眼鏡をかけており、レンズには電子的な記号が表示されている。
男は淡々と続ける。
「確かに新月の晩、男性がリュカオーン化する確率は30万分の1。ですが飛行機事故の起こる確率は300万分の1です。ちなみに人の寿命が80歳だとして、新月を迎える回数は約千回。つまり300人に一人の男性が、一生のうち一度はリュカオーン化する計算となります。ありえない、なんてことはありえない」
「ガ……ア……」
伊倉涼は、既に人としての原型を留めていなかった。
その姿は、まさに魔獣。
五メートル以上の身長に、路地裏の一方通行を塞ぐほどの体格。
堅牢な昆虫の如き外殻に身を包み、角を生やして牙をぎらつかせ、紅い目を禍々しく輝かせている。
そして、鋭い爪を備えた四肢で体を支える、地獄の怪物。
「ガオォォォォォン!!」
空気が振動するほどの咆哮をあげる、かつてのアイドル。
連れの女は失禁し、そのまま意識を失った。
「那由多、ケルベロス級強化外殻タイプだ。予測通り強度はランクA!」
「分かってる!」
倒れた女を引きずって、怪物から離れる制服の男性。
那由多と呼ばれた女性は頷くと、体から銀のオーラを噴出させた。
「一撃で仕留めるっ……!」
目の前で拳を強く握りしめると、銀のオーラはその拳に集中する。
勢いで、目深に被っていた制帽が吹き飛んだ。
露わになる流れるような長髪。
その髪も、絶対の意思を秘めた双眸も、拳に集中したオーラと同じ銀に輝いている。
整った目鼻立ち。強く結ばれた薄い唇。白い肌。鍛えられながら、女性らしい曲線を描く豊かな胸と引き締まった腰回り。
白い荘厳な制服と相まって、その姿はまさしく月の女神。
魔獣を屠る為に顕現した、美しき戦乙女……
「喰らえェえ! 根性ぉぉ!」
……から発せられる、体育会系の気合い。
「右ストレートォォ! ぶっ飛べーー!!」
ドオォン!!
銀光とともに爆破音が炸裂する。
怪物、リュカオーンの巨軀は吹っ飛ばされ、後方のビルに突っ込んだ。
鉄筋コンクリートビルの一、二階部分は大きく破壊され、無事だった部分にも多数ヒビが入る。
「何やってるバカ那由多! ランクAの強化外殻は平均106トンの衝撃まで耐えるんだ、『根性』で効くか!」
「あり? ……駄目だった?」
那由多の右ストレートはリュカオーンを吹っ飛ばしたものの、外殻には傷一つ付いていない。
そのせいで破壊された背後のビルが、倒壊寸前だ。
「ちっ……保護班!」
『もう現着しています』
制服の男が眼鏡型の戦術用観測機器『グラスカウンター』で通信すると、素早く回答が返ってくる。
ビルの周囲に、那由多と同じ制服の女性が二名、現れていた。
それぞれビルに向けて差し出された両手が発光している。
『貴重なPKタイプを二名、浪費しています。管理官、迅速に処理するよう〈シルバー・デストロイ〉に指示を』
「分かっている。那由多、まずは動きを止めるぞ!」
通信で管理官と呼ばれた男は、グラスカウンターでリュカオーンの構造分析を行う。
「脚部関節を狙え。『根性』で十分だ、外殻は無事でも衝撃でダメージが通る!」
「了解っ! 見ててよ今度こそ……て、え?」
指示に応じ、再びオーラを拳に纏わせる那由多。
しかし、リュカオーンは体を起こすと背を向けて、その巨軀からは想像もできないスピードで駆け始めた。
「ちょっ、逃げるとか!」
「早く追え、鈍間バカ! これ以上損害を出すな!」
「バカバカ言わないでよっ!」
アスファルトの地面を踏み砕きながら、六本木の街を駆ける大型リュカオーン。
それは時速100キロで爆走する超大型タンクローリーのようなものだ。
路駐されていた自動車を破壊し、電柱をへし折りながら駆ける先に見えるのは、街のランドマークである超高級マンションが入っている複合型タワー商業施設。
「目的はヒルズか? チッ、あそこを破壊されたら責任問題だ」
「待てこのっ! 女相手にしっぽ巻いて逃げるとか、それでも『B−RUSH』のメンバー!?」
管理官の通信を聞きながら、那由多は地面とビルの壁面、電柱の間を飛び跳ねるように追いかける。
銀光を纏い跳ぶその身体能力は、人間の限界を遙かに超えていた。
「待てよ、『B−RUSH』の……?」
管理官は近くに止めていたバイクに跨がり、後を追いながらグラスカウンターを起動させ、『伊倉涼』の個人データを検索する。
「……! まずい那由多、止まれ!」
「大丈夫、追いつく!」
時速100キロで駆ける怪物に迫る、生身の那由多。
背後から関節に向けて一撃を加えるべく、最後の跳躍をし、拳にオーラを集中させる。
「違う罠だ! 伊倉涼はニュース番組のキャスターも勤める頭脳派だ、無駄に逃げてる筈がない!」
「え?」
ガガガガッとアスファルトを削りながら、リュカオーンが急ブレーキをかけて動きを止め、振り返る。跳躍中の那由多は空中で止まることができず、間合いを詰められ拳を繰り出すこともできない。
「やばっ……」
「那由多!」
カウンターで、魔獣の角が那由多の体に突き刺さった。
「おい、那由多! しっかりしろ、那由多!!」
管理官の通信に、那由多は答えない。
追いついた彼が遠目に見たものは、リュカオーンの角で体を貫かれ、そのままぐったりとしているアルテミスの姿。
「そんな……こんなことで……」
バイクを停めて、呆然とする管理官。
リュカオーンは那由多を突き刺したまま、悠々と歩みを再開する。その先には六本木のランドマーク。
『伊倉涼』が活躍していた業界人たちが多く住まう場所。
「俺の指示を待たないで、熱血バカみたいに突っ込むからだ!」
ガン! ガン! ガン!
管理官は背中から大口径ロングライフルを構えると、脚部関節を狙って正確に発砲した。
リュカオーンに、通常兵器は一切通用しない。だが、外殻が薄い関節部を背後から狙い撃たれ、「気になる」程度の感覚は抱いたのか、怪物は彼に振り返った。
ガン!
「グル……ル」
振り向きざま、管理官はリュカオーンの眼球に銃弾を命中させる。
高性能グラスカウンターと同期し命中補正しているとはいえ、凄まじい技量だ。
ガン! ガン!
連続で眼球を撃たれ、ダメージは通らないものの、怪物は彼に「不愉快」な感情を抱く。
ヒルズに背を向けて、発砲を続ける管理官に歩み寄った。
そして愚かな人間を一撃で引き裂こうと、鋭い爪を備えた前脚を振りかぶる。
「……いつまで、そうしているつもりだ? この寝坊助バカ」
「だから、バカバカ言わないでってば!!」
閃光が、夜を切り裂くように炸裂した。
魔獣の角に貫かれたままの那由多。そのカッと見開かれた瞳が、長い髪が、再び白銀に輝く。
「おおおおッ……!!」
組み合わせ振り上げた両拳に、オーラが集中する。那由多は雄叫びとともにそれを振り下ろした。
「ド根性ぉぉ!! ハンマーナックル!!」
「グギャアアァァァ!!」
角を叩き折られ、絶叫する魔獣リュカオーン。
那由多は管理官の目の前に降り立つ。
貫かれたはずの体は、制服に大きな穴が開いているものの、瞬時に治癒されて絹のように美しい肌が露出している。
「よくも……やってくれたわねえ……!」
「自業自得だ、猪突猛進バカ」
「ねえ! 今夜だけでバカって何回言った!?」
那由多は涙目で抗議する。
「怒った。もう怒った。これだからアイドルなんて嫌いなんだ、もう」
「待て。伊倉涼に罪はない」
「分かってるよ! でもこんな恥をかかされて、何よりあんたにまで攻撃しようとして、わたしもう許せない」
「今更だろ。ってオイ!?」
銀のオーラが那由多の全身から吹き上がる。
「月より彼方に……イかせてあげるわ!!」
これまでとはオーラの密度が違う。
物質化寸前にまで高められ魔力が、纏っているA'sの制服をも吹き飛ばした。
露わになる美しい裸体。
その身に新たに纏われたのは、魔力の結晶たる白銀の魔法衣。
真なるアルテミスへと変身したのだ。
「根性でもド根性でも、イけないっていうんならぁ!」
「待てふざけんな、オマエまさかこんな街中で!?」
角を折られのたうち回るリュカオーンに向けて、那由多は地面を蹴る。
アスファルトが砕け、余波で制止しようとした管理官も吹き倒された。
「やめ――」
「喰らえ! 『超・ド根性』ぉぉ!!」
那由多の拳が輝く。
突進の勢いを活かしながら大きく振りかぶり、魔獣の懐から上に繰り出される破魔の拳。
「ルナブレイク・アッパーカット!!」
これまでの攻撃と比ではない衝撃が放たれる。
リュカオーンの強化外殻は一撃で粉砕され、巨軀は爆散した。
「……あの……爆弾バカ……」
「どうだぁ! 見たか、牧! あんたの愛するわたしの力を!!」
頭を抱える、牧と呼ばれた管理官。
セクシーな魔法衣姿で高らかに宣言する那由多は、気づいていない。
ビルを解体する鉄球クレーンの衝撃を上回る100トン超の攻撃に耐える強化外殻。それを一撃で粉砕する力を込めたパンチが、周辺施設になんの影響も与えないはずがない。
リュカオーン直下の地面は砕け、水道管が破裂し水が噴き出している。近隣の建物のガラスはすべて衝撃波で割られ、周囲の自動車は横転し爆発炎上。
そして。
ドゴォォォン……
「……あ」
「見たよ。俺の愛する〈シルバー・テストロイ〉は、A's最強のバカ女だってな……」
爆発四散し、吹き飛ばされたリュカオーンの頭部が落下した場所。
そこは六本木のランドマーク、超高級マンションの最上階だった。