精神世界と物質世界を繋ぐ唯一の手段は「文章を作る」ことです。
人を好きになる感情の定義がよく分からない。
好きといってもそれがどこまで継続していくのか、
突如としてそれがプツリと途切れてしまうのか、分からない。
頭のなかの自分といつまでも会話をしてもそれが終わりの見えることがない。
頭の中の自分のほうが世界をよりクリアに見ているし、現実感がある。
外側に来ている自分の身体のほうはただ、他の外部情報と接しているために感触があり、ここが現実だと思い込まされているだけ。
精神世界とは何なのか。
生物学的に言えばそれは脳が作り出す世界なのだけれども、思考空間を強く感じるようになると、哲学的なものを信じたくなってくる。
哲学を学んで、学者名とか現象の分類名とか定義とかそういったことを学んで、フレームワークを多数取り込んでいく作業が大切なのだろうか。
哲学は学ぶものでなく、自分のなかから見つけだしていくものじゃないだろうか。
先人の知恵を借りて、言葉を借りて、歩いていくことも重要だろうけれども、内なる自分を見つけ出していく作業のほうが大切なんじゃないだろうか。
これまでに自分が悩んできた全ての事象は、過去の人間が既に苦悩してきた事柄ばかりだと言われればそれまでかもしれないが、自分なりの解答を見つけ出していく作業も重要視したい。
この世は受験勉強じゃないのだ。資格勉強じゃないのだ。
テストならば模範解答が存在し、解はひとつであろう。
だが、何を正と置くかは一人ひとり異なっていようとも問題はない。
常にひとつの事柄が正しいとは限らないのだ。
時代の流れ、世の流れと共に解は変化していく。
論外とされていたものが、いつの間にか世界の中心にずれ込んでくる。
自分なりの道を選び出しそれに向い進んでみて、違うと感じれば他へ行けば良い。
一度選んでみなければ、自分に合うかどうかなんて分からない。
自己に取り込んでみて、何かを吸収して捨てていく。
また、何かを始めてみて、それが合うかどうかを判断しての繰り返し。
これまでに一体いくつの判断を繰り返してきたのだろうか。
そのなかに幾つ正しかった選択が存在するのだろうか。
もしあの時にあちらの道を選んでいたのなら、一体今現在どのような自分がそこに存在していたのだろうか。
パラレルワールド的な発想についつい逃げてしまいがちだ。
そんなものは妄想、空想の産物に過ぎないのだが。
その時、其の瞬間に自分がいちばん正しいと思っていた道を選んだのだから、他のものを選ぶという気力、意思は、そこに存在しない。
あの時ああしていればなんてのは本当は無いのだ。そんなものは最初からないのだ。
常に今が続き、現実が続いていく。未来という言葉に逃げるのでなく、今が続いているという事実に目を向けて今を大切に生きるしかない。
その今を生きる時に必要なのは、内なる自分の存在だろう。
内なる自分を成長させていくことが、生きるチカラとなる。
精神世界と物質世界を繋ぐ要となる。
物質世界に支配されるのはとても悲しいことだ。
全てが物質を優勢させてしまい、そのあとに精神がついてくる。
物による支配だ。
それをぬけ出すには、考え続けるしかない。
考えるのだ。考えるチカラを養うのだ。
考える力を養うにはどうしたらいいのか。
文字を並べることだ。
頭のなかから文章をひねりだし、それを視覚的に捉えることが可能な状態にもっていくのだ。
それが唯一、精神を現実とつなげる手段である。
何も書きたいことがない。
何も伝えたいことがない。
そう感じてもとりあえず書くのだ。
気がついていないだけだ。
全てを書き記していくことが大切だ。
何をした。何を考えた。何を感じた。何がしたい。何が好きだ、嫌いだ。
すべてを羅列していくべきだ。