罰、始動
「あの……流石に……ちょっと……」
怒鳴り散らしてもおかしくないものを、菩薩のように優しい小夜子が苦笑だけを貼り付け、控え目に意見したのは夕刻。勉が仕事に行って適当に業務をこなして帰宅し、同じく彼女が普通に学校から帰宅したあとのことだった。
小夜子は学校が終わり、満里子から買い物をして来てとメールが入っていたのを確認して学校帰りに買い物をして帰宅し、自分と両親三人分の夕飯を作り終えて席についたところで話をされたのだ。
何の拘りもなく、手早く済ませた決して丁寧とは言えない小夜子の夕飯は満里子の本気料理よりも美味しく、それにがっつく二人はやはり口の中のものを見せながら、まるで常に骨身を惜しまない親であるかのように言う。
「勝手に部屋に入ったのは悪かった。でもお前はまだ中学生なんだ。しかも女の子。いくら女の人でも相手が俺達の知らない大人である以上、お前が俺達に何も言わずに知らない大人と付き合いがあることを知って心配しない訳がないだろう」
「私達はね、何も仲良くするなって言ってる訳じゃないのよ? 仲良くするのは歓迎よ。けど私達に教えてくれたらなって思って。ほら、そういうので事件に巻き込まれちゃったっていうのもあるでしょ?」
「そうそう、物騒なんだからな! 最近、隣市の軌鹿市で遺体発見が相次いでいるとか物騒なニュースが連日やっているし」
建前は“娘を心配している親”を気取っているが、社名を見て目が金になっているであろうことは、小夜子はとっくに察していた。満里子など“歓迎”と言ってしまっているのでバレバレであるが。
それ以上の突っ込みどころは、彼等が小夜子を心配しているように見せ掛けようとしているところだ。
小夜子はなんとか夢を完遂させたが、夢で死者の願望を連日叶えなければ死ぬという事件に巻き込んでいるお前らが言っても説得力の欠片もなければ、心配も全く見えてこないのだという話だ。阿呆二人はそのことに気付いていないらしい。
「それは……ごめんなさい。心配かけて。ちゃんと話しておくべきだったね」
二人の目が金になっていることを察している小夜子はしかし、そう言っておく。ここで心配なんかしてねえだろと言わないところは、流石と言えた。
できれば樹木のことは話したくなかったが、名刺まで見られている以上、話さない訳にはいかない。
「樹木さんは――」
小夜子が仕方なく話し出そうとした、その時。
突如バリンッという不穏な音が鳴り響き、見ると窓ガラスが一枚割れていた。
まるで、小夜子が樹木のことを話すのを止めたような、二人が樹木について訊くことを許さないとでも言うような、そんなタイミング。
「な、なんだこれ……修理にいくら掛かると……」
不気味な状況の中、他に考えることはないのか、勉は多少身を逸らしながらお金第一の台詞を呟く。
「なんで……割れたのかしら? か、風……?」
「石でも……投げ込まれたか……?」
風などで窓が一枚派手に割れるなど台風か竜巻でもない限り有り得ないことで、しかもその日は風もなく、石やボールといったものもないことから、わざとにせよ間違ってにせよ人為的なものでもないと知れた。
不審なものがないか確認しに窓ガラスに近寄って調べたのは、言うまでもなく小夜子だった。動かなくとも勉や満里子は目配せしたり直接言って来たり、どうせ小夜子にやらせるつもりであろうから、彼女は自分から動いたのだ。
悪夢のことや、事件で本物の神と相対したり悪霊と対峙したり友人の遺体を発見したりと中学生には刺激が強すぎる経験を積んだ小夜子は、その分肝っ玉が据わっていた。それに比べ、満里子と勉はすっかり怯えている有り様だ。怯えていても現金第一であることは少しも変わらないが。
「ど……どうだ? 何か……あるか?」
「何もないよ。自然に割れたみたい。怪奇現象だろうから怪我しないように気を付けてね」
割れていて危険なため、身を乗り出す訳にもいかず、先ず外に出て周囲を確かめてから再度室内に戻り周囲を調べた小夜子はこともなげにそう答え、ガラスの破片を片付け始める。
いつまた割れるとも知れない窓の近くにしゃがみ込んで、白く綺麗な指で、人肌を簡単に裂きそうな大きな破片を次々と拾い集め、仕上げに細かい破片を掃除機ではなく箒と塵取りで丁寧に片付けてしまった。
幸い今は六月で、今年は四月から既に蒸し暑く、窓を開けたままにしていてもおかしくない気温であったから良かったが、梅雨の季節でもある。やはり修理するまでは不安がある。
「怪奇現象って……嫌だ怖いわ。小夜子、どうにかできないの……?」
「そうだ。小夜子、お前の専門分野じゃないか。どうにかできないのか?」
望まずして異能力を宿す娘を勝手に変な仕事に引き込んでおいて良く言えたものだが、小夜子は少し考えるような素振りを見せた後、
「私は……夢を見て夢の中での行動を操る力はあるけど、霊視ができる訳じゃないから……。でも、もし夢に出たら解決できるように頑張るね」
と少し笑みさえ見せながら答える。見ていて泣けてくる健気な姿だが、二人はやや不満そうな表情を覗かせながらも“もし夢に出たら解決できるように頑張る”という言葉に一応は納得したようだ。
それはまるで、将来のことなどまだまだ考えられない中学生くらいの子供が、まあいいやなんとかなるだろうと社会を甘く見て努力もせず、気怠い毎日をすごすのと同じように、二人はまあ何かあれば小夜子がなんとかしてくれるだろうと闇黒の世界を甘く見ていた。
そんな健気な小夜子だったが、不意にふらついて片手で近くのソファーの背凭れに掴まり、もう片方の手で頭を押さえ出す。
「どうした?」
「ごめん……ちょっと……目眩、が…………」
唐突に目を虚ろにさせた小夜子は、勉の問いに対し、危うげに途切れ途切れの言葉を紡ぐと、次の瞬間には倒れ込んでしまった。
倒れ込んだ場所が丁度ソファーだったので頭を打つようなことはなかったが、目を閉じており起き上がる気配はなく、意識はない様子だった。貧血のような、熱中症のような……そんな感じだったが、当然ながら貧血でも熱中症でもない。
「ちょっと……どうしたのよ、貧血?」
「おい、小夜子?」
二人が近寄り、声を掛けながら揺するも、顔色は健康的であり通常の体温で、脈拍にも異常はない小夜子は目を覚まさない。
ナルコレプシーという突然眠ってしまう病気があるが、それのように、小夜子はまるで突然眠ってしまったかのような奇妙な状態だった。
「……取り敢えず部屋まで運ぶか」
普通の親ならパニクって救急車だとか考える状況で、勉は冷静に、軽い小夜子を抱き上げてベッドまで運んだ。何れ目を覚ますだろうと思ったからだ。もし命に関わる状態だったならこれで小夜子の死は決定した訳だが、幸い小夜子の意識が飛んだのはそういう危険な状態だったからではなかった。
……そして勉と満里子のこのずさんな対応が更なる悲劇を呼ぶこととなる。悲劇ではなく喜劇だが。
バカ二人はもっと考えるべきだったのだ。何もせず、何もできない二人にとって頼みの綱とも言える小夜子が、倒れた事実を。
「小夜子、どうしたのかしらね」
「明日の学校、休ませれば良いんじゃないか?」
「そうね、倒れただけだし」
二人がへらっと笑った瞬間、びちゃんと奇妙な音が鳴った。湿り気のある、不快感を抱かせる或る種の音。
「ん?」
阿呆面を曝し、間抜けな声を発して、振り返る。バカ二人は、バカなことに、いつものように日常と常識を決め付けて何も気にせず考えず平静に振り返ったのだ。
「うわっ!?」
「ひっ……!」
先ほどまでへらへらと笑っていた二人は、ソレを認識するや否や、勉は咽喉の痙攣で無意識に出てしまった大きな声を上げ、満里子は咽喉が引き攣って掠れた小さな悲鳴を漏らす。
振り返った先には窓があり、割れていない方の窓に何やら不穏なものが付着していた。
赤黒くドロドロとした、生臭さの漂う液体……。その液体で窓にはこんなメッセージが書かれていた。
《咲願峠、願溜寺で罰当たりな言動をした者共よ。その身を以て、我等の怒り思い知れ》
小夜子の方がまだ中学生で散々怖い思いをして来ているというのに、やはり二人はこの程度の現象でも青ざめて震え、すっかり恐怖に支配されてしまっている。
「お……おおおい……。な、なんだよあの……文字は……!?」
「知らないわよ……あなた……ちょっと確かめて来てよ……」
「えぇえ!? 俺が!? い、嫌だよ……」
「あ、あなた男でしょ!? 行って来てよ……!」
「男でも怖いものは怖いんだよ……! おい、小夜子……小夜子!!」
確かに男でも怖いものは怖いが、怖くともこういう時に男の意地で動くのが男というものだが、この男はなんと情けなく恥ずかしいことに、先ほど倒れてしまって二階に運んだ小夜子に助けを求めようとしていた。
だが二階からはシンとした静けさが返って来るばかりで、当然のように小夜子から返事はない。それがより一層、不気味さを助長した。
「そもそもなんで小夜子は急に倒れたんだ……。これ……アレじゃないのか……? 邪魔する者は目を覚まさないようにして、みたいな……。ホラービデオとかで良くあるじゃないか! どうするんだ!?」
「ま、まさか……偶然でしょ? 取り敢えずあの文字を写メって……あれっ?」
いざという時は女が強いとは良く言うが、血で書かれたような文字を写真に撮って証拠に残そうとした満里子は、素っ頓狂な声を上げる。
有り勝ちなことだが、いつの間にか血文字は跡形もなく消えてしまっていたからだ。
「うぅう……なんだったんだ……?」
プルプルと震えながら半べそで呟く勉に、携帯片手に不自然な態勢で固まる満里子。
「と……取り敢えず今日はもうお風呂に入って寝ましょ……。まあその前に窓を塞がないといけないんだけど……」
「わ、分かった……。離れないでくれよ……?」
「私だって一人になりたくないわよ……」
その後、二人はダンボールとガムテープで不器用にグチャグチャに滅茶苦茶に、間に合わせで簡易に窓を塞いだ後、気色悪いことに怖いからと二人で一緒に風呂に入って就寝したのだった。
二人はその間中、風の音、木の葉の揺れる音、鳥の鳴き声にもびくびくしていた。
そうして迎えた朝。いつもなら小夜子に起こされるまでグースカピーピー鼾をかいて寝ている二人だが、昨夜恐怖体験をしたためか、その日はハッと目を覚ました。
寝惚け眼とまだボーっとする頭で、小夜子が静かに家の中を動く気配が感じられる。
先に起きた満里子が大欠伸をしながら時計を見ると、時間は七時四十分を回っていた。
「え?」
思わず間抜けな声を漏らす。
この家は小夜子の通う学校から徒歩二十分程度の距離にある。八時半が始業時間であるため、遅くとも十五分には学校に着けるように小夜子はいつも七時四、五十分前後に家を出るのだが、その前に必ず両親を起こすのだ。朝食を食べる七時前には、二人を必ず起こす。
それに勉の会社は、通常九時が仕事開始時間で、八時三、四十分頃には出社しているため、この時間に起きたのではギリギリなのだ。
故に満里子は不審に思う。
「あなた起きて! もう七時四十分すぎてるわよ!」
「んー……あと少し…………って四十分!?」
最初は寝惚けていた勉も、事態を認識した途端、飛び起きる。
「おい、小夜子! 酷いじゃないか起こしてくれないなんて!!」
グレーの毛玉だらけのダサいスウェット上下を脱ぎ捨て、よれよれのトランクスと白のアンダーシャツ姿で、大急ぎにYシャツのボタンを留めながら大声を出す勉。
若干涙目だが、そもそも世の中には出社規定時間が八時なのに六時七時頃に出社しなければいけない人や、会社によっちゃ出社時間が早くて五時出勤している人、規定時間より一、二時間早めに出社しているのに嫌味を言われたりしている人も居るのに、自分で起きろという話だ。
しかもそれで自分で弁当を作っているリーマンも居るのに、勉は小夜子の稼いだ金で――大事なことなので二回言うが小夜子の稼いだ金で弁当を買ったり食堂に行ったりしているのだからいい加減にしろという話だ。泣く泣く仕事して限られたお小遣いで昼食をとったり自分で弁当を作って持って行っている世の中の会社員に謝って欲しい。
「え……?」
リビングで鞄を肩にかけた格好で、今は関係ないが普通に立っているだけで妙に可愛らしい姿なのだが、小夜子は丁度今、家を出ようとしていたようだ。
だが、何か様子がおかしい。それにいつもは流石に洗濯機を回して行くだけなのに、庭にはちゃんと洗濯物が干してあった。
「え、じゃないよ!! なんで起こしてくれないんだ!?」
だがYシャツを着た勉はそれどころではないので何も疑問に思わず、深いグレーのスラックスを急いで穿きながら再度叫ぶ。
そろそろ、だからテメエで起きろよと怒鳴ってやりたいところだが、彼は急いでいたせいでスラックスに足が引っ掛かり、無様にも転んで尻を突き出す格好となって、ダサいストライプ柄のトランクスが半脱ぎ状態のスラックスから見えているという現状なので、罰が当たったということなのだろう。
勉は、小夜子ならここで謝って手を差し出してくれるものと思っていた。
……だが勉の無様な様子を呆然と見ていた小夜子の口から発せられた言葉は、その予想を大きく裏切る、思ってもみない言葉だった。
「あ……あの……どちら様ですか……?」
時間が止まり、
空白が流れる。
今、小夜子が、自分の娘が何を言ったのか。勉は勿論、その後ろで見ていた満里子も判らず、硬直していた。
先ほどまで勉の頭は遅刻してしまうということで一杯だったが、今は急いでいたはずなのにゆっくりと立ち上がり、
「な……何を言ってるんだ? 小夜子……俺はお前の父親じゃないか!」
などと情けなく小夜子に問い掛けるのが精一杯だった。
「父……親……?」
だがか細い声で呟く自分の娘は、冗談を言っている様子もなく、一歩後ずさる。
怪訝。不審。警戒。そんな色が全身に、全霊に、出ていた。
小夜子はこんな変な冗談を言ったりしたりするような性格ではなく、だからこそ妙に強く感じられる。他人行儀に、余所余所しい。今の小夜子は、勉を不審者として見ていた。
「ちょ、ちょっと小夜子! 何言ってるの!? 変な冗談言うと怒るわよ!?」
これが普通の親なら当たり前の反応なのだが、この女が言うとなんかムカツクのは、満里子が普段から親らしいことをしていない人間だからだろう。怒るわよも何も、何もしていないあんたに怒る資格などない。
だが勇んでそう言った満里子に対しても、小夜子は不審者を見る眼差しを向けた。
「あ、あの……本当に、誰なんですか? 警察を呼びますよ?」
昨日まで普通に話していた自分の娘から放たれたその言葉に、今度こそ二人は言葉をなくし、完全に固まった。
小夜子の対処は冷静で、とても中学生とは思えなかった。普段の言動から中学生とは思えないが。普通の女子中学生なら、かなり怯えているだろうからいきなり大声を上げたり泣き出されたりしてもおかしくはなく、そこは小夜子が娘で良かったねと二人に言ってやりたいところだ。
また、小夜子は観察力というか人を見る目があるため、二人の言動が自分を騙そうとしたりなど演技で言っている訳ではないということを見抜き、いきなり襲って来るような人ではないと冷静に判断したためでもある。
「な……何がどうなってるんだ……? なあ、満里子……」
「私だって……判らないわよ……」
どうしたら良いかまるで判らない二人。
「あの……」
そんな時、口を開いたのは言うまでもなく小夜子だった。
「私が本当にあなた達の娘かどうかは判らないです。けどもしかしたら私が忘れている可能性もあると思うんです。最近、そんな非現実的なことがありましたから……。完全に信じることはできませんが、あなた達が嘘を吐いていないってことは判るので、取り敢えず話し合いをしませんか?」
不審者だとギャーギャー騒ぐどころか理解を示した。小夜子が偉人にしか見えない。
その後、少し話し合った結果、小夜子は、他に行くあてがないという二人がこの家に住むことは構わないということだった。
今の小夜子からしたら赤の他人と寝泊まりするという気持ち悪いことのはずなのにやはり偉人だったと思うが、しかし取り敢えずまだ生活は別々が良いということで、両親は明日から自分達のことは全部自分達でやることになった。というかそれが当たり前なのだが。
こうして見事に罰が当たった二人の、苦悩に満ちた新生活はスタートした。