第三章①
自宅の一室で、俺は肩を上下に揺らしながら息を切らしている。視線の先には、一枚の紙切れと変わり果てた姿の父。
誤解のないように言っておくけれど、父の死と俺の乱れた呼吸に直接的な因果関係はない。俺が高校から自宅のマンションへ帰って来た段階で、父は既に冷たくなっていた。
父の名は、黒葛原玄一郎という。
正直なところ、俺は父の事をあまり知らない。四年くらい前からだろうか、父は家を頻繁に空けるようになった。初めのうちは、俺にも理由に心当たりがあったのだけど、最近じゃあ皆目見当もつかなくなっていた。俺が目星を付けていた問題は、三年前に片が付いていたのだ。
単純に大学で研究に没頭しているのかとも思ったが、どうもそんな感じじゃなかった。時々家に戻った父からは、気迫というか鬼気迫るシリアスな空気を感じたからだ。
だから最近では、もしかすると危険な事に関わっているのかもしれないな、と勘繰っていた。そんなわけで、リビングで父の亡骸を発見した際は、驚きというより「ああ、やっぱりか」という想いの方が強かった。
父は俺宛にメッセージを残していた。フローリングに落ちている紙切れには、通報せずに父の携帯電話に保存されたあるファイルを閲覧せよ、との旨が殴り書きされていた。
父のポケットから携帯電話を抜き出して指定されたファイルを開くと、バグと呼ばれるものに関して簡単な説明がなされていた。勿論、コンピュータプログラムの欠陥を指すバグのことじゃない。どう言えば、分かり易いかな。所謂「気」とか「超能力」みたいなものを想像するといいかもしれない。冒頭は正直眉唾物だと思ったけれど、読み進めるうちにこれが父の奇行に関係しているのだと悟った。
父の持ち物は、携帯電話の他に、財布、自宅や車などの鍵、そして能力者の物と思しきカードが二枚。一枚目は砂漠迷彩柄で、所有者はTim Serman、バディはなし。二枚目は、和紙に鳥を描いた水墨画のデザインで、所有者は鷲宮征一、「Yetzirah 40」と「腕 25」が保存されていた。父のカードは見つからなかった。
父のテキストファイルには、カード破壊時に多量のバグが発生する事と、一定量以上のバグを浴びた者は能力者になる事が記されていた。
俺は迷わず砂漠迷彩のカードをかち割った。その結果、肉体に異変を来たしてリビングで膝をつくこととなり、今へと至るわけである。
しばらくして吐き気が収まると、自分の手に新たなカードが出現していた。どうやらファイルの内容は本当らしい。父が妙なオカルトに嵌ったわけではない、と分かって少し安心する。
新しいカードの裏には、黒葛原要という俺の名前が記述されていた。
よし、無事、能力者になれたみたいだ。一枚で済んだのはラッキーだったな。ファイルを見る限り、一枚のカード破壊で覚醒できるのは稀らしいし。
俺のカードは、真っ白な背景の上に黒いペンキのような飛沫が飛び散ったデザインだった。随分と淡白なことで。
さて、まずはどちらのバディを呼び出そうか。「腕」って名前は、どうにも……。本当に腕が出て来られてもなあ。それじゃあ事情が訊けないし。読み方が分からない方にしようか。
早速タッチ&フリックで、荒々しい鳥の描かれたカードから「Yetzirah」を自分のカードへ移動する。
「さてはて、これで本当にカードから何か出てくるのか?」
独り言をぼやきながらカードをタップすると、真紅の小さな光球が宙に浮かんで、人型のものが誕生した。
それは一見すると、十歳ちょっとの少女であった。
胸までかかるブロンドはクリーム色で、長い前髪が眉間を通って鼻筋まで垂れている。黄昏色に染まった瞳が、憂いを湛えてこちらを見つめていた。
ああ、ちゃんと生き物だ。肌の白さと顔つきからして、白人種だな。まいったぞ、子供は苦手だし、英語はもっと苦手だ。
でも、数秒後にそんな懸念はたちどころに解消される。
彼女は両手を胸の前で合わせて、お祈りのポーズをとる。そのまま上目遣いで俺を見上げると、流暢な日本語で話し始めた。
「私は、この世界とは異なる位相次元から縮退時空転移して参りました。今、我々の国では、中央司法枢密院『金獅子』が行政の実権を握り、多くの国民が不当に自由を剥奪され苦しんでいます。S級最高制裁者の称号を持つ枢密院議長ベリアーは、その絶対的な力と冷酷無比な性格から『銀狼』の異名を持ち、選別審判を謳って罪なき人々を虐殺、さらに残った人達にも厳しい管理体制を強いています。私は、金獅子の壊滅を目的として秘密裏に組織されたレジスタンス『黒鷲』に所属する者です。銀狼ベリアーの支配から皆を解放するため、どうか貴方の御力をお貸し下さい! どうしても貴方が必要なのです。その身に宿る、神殺しの波動が!」
開いた口が塞がらない。これは超展開だ。
俺はしばし凍りついた後、どうにか返事を返す。
「……マジで?」
「マジです」
少女は大きい瞳を潤ませたまま、小さく頷いた。
あっけに取られている俺を置いてきぼりにして、彼女はどんどん続ける。
「我々黒鷲を殲滅するため、銀狼ベリアーは通常物質との非干渉性を持つアツィルト粒子で構成された神装兵器部隊『白夜叉』を投入しました。これにより我々の戦力は大きく削がれ、もはや全滅は時間の問題です。そこで我々は、アツィルト粒子と対消滅を引き起こす反アツィルト粒子を超時空観測で捜索し、この世界にその存在を見出したのです。そして、貴方こそが反アツィルト粒子を宿す者、神殺したる資質を秘めた唯一の存在なのです。どうか破壊天使の欠片アンヘルを集め、覇王の剣アッシャーをアライズさせてほしいのです!」
何を言っているのか、全然分からん……。
専門用語が飛び交い過ぎだよ。そのうえ、金獅子、銀狼、白夜叉って、なんで個人から組織まで規模の違うものを同じような名前にするかな。紛らわしいって。
兎に角この子を止めよう。このぶんだと夜中まで続きそうだ。
「えーっと、ちょっといいかな?」
俺が横槍を入れると、少女はしおらしく目を伏せた。肩が小刻みに震えだす。
あれ、もしかして泣きそう? やばい。俺、なんかまずいこと言った? ああ、もう、だから子供は苦手なんだ。
「……実は、銀狼は私の母なのです」
って、無視かよ!
というか、銀狼って女の人だったんだー。でもそんな設定、訊いてないから。
「以前の母は、悪を憎み、弱き者を助ける心の優しい裁判官だったのですが、あの日を境に変わってしまったのです。そう、あれは七年前――」
なんか回想始まっちゃったよ。
おかしいな。父のファイルを見るに、この子はバディだから、俺の言うことを聞くはずなんだが。さっき壮大にネグられたぞ?
あ、分かった。質問だから駄目なんだ。命令すればいいのか。
「全てはあの場所から始まりました。あの日、セン――」
「いったん話を止めてくれ。あと、俺に嘘をつくのもなしだ」
そう言うと、少女は瞼を大きく見開いて微動だにしなくなった。と思ったら、すぐに部屋中に響くくらいの大きな舌打ちをした。
「つまらん奴ダナ。せっかく人が暇潰しに、数秒で設定まで考えてやったのに」
彼女は横を向いて口を尖らせた。そこにもはや儚げな表情はない。
俺は天井を仰いで静かに息を吐く。
マジですか……。うーん、こいつから事情を聴くのは骨が折れそうだ。しかし、日本語の通じない子供を相手にするよりはマシ、……なのか?
視線を戻すと、少女が目を細めてこちらを睨んでいた。
「……まあまあ、ダナ」
そう呟いて、彼女はくるりと身を翻した。
俺は音を立てずに鼻で笑う。どうやら品定めされたらしい。
少女は室内を見回して、ソファにどかっと飛び乗る。背もたれに腕を回し、足を組んで仰け反った。
「で、小僧。お前は誰だ?」
小僧て。
「黒葛原だ。そっちは、イェ……、ツィラ……? でいいのか?」
彼女はニヤリと笑って返す。
「ああ。特別にイェツィラ様と崇め奉ってもいいぞ」
「それは遠慮しておこう」
イェツィラと名乗る少女を観察する。身長は百四十センチメートル程度、体系は痩せ型から平均の間、といったところだろうか。ニット製でボディラインにフィットした緋色のノースリーブワンピースに身を包み、腕には同色のアームウォーカー、ミニスカートから伸びる脚には黒のストッキング。首には長いストール、腰には黒のベルトを巻き、革製のショートブーツを履いている。って、人んちに土足で上がるんじゃない。ここは日本だぞ。
大きく欠伸をする少女に尋ねる。
「イェツィラ、どうして父が死んでいるのか知ってるか?」
親指で背後の遺体を指す。彼女はそっちを向いて、大きく顔をしかめた。
「はあ? 知るか、そんなの」
そうですか。まあ、そう上手くはいかないよな。
「ん? こいつは見覚えがあるナ」
彼女が身を乗り出す。
「ま、おおかた、あの筋肉ダルマにでも殺されたのだろうよ」
彼女はそう吐き捨てて、また背もたれにふんぞり返った。
「誰だ、それは」
「お前が持っている、そのカードの持ち主さ」
イェツィラが顎で黒い鳥のカードを指す。彼女の見立てでは、父は鷲宮征一という人物に殺害されたらしい。
「この鷲宮って人は?」
「覇王だよ」
イェツィラが怪談話でも披露するかのような笑みを浮かべた。
「覇王……? なんだ、その現代社会に不釣り合いな響きは。世紀末か」
「ああ、そういや、お前は新人バグ使いか。無知というのは、哀れダナ。己の死すら予見できんとは。ご冥福を祈るぞ」
彼女はぞんざいに手で十字をきる。
「おい、それはどういうことだ?」
「さあナ」
「説明しろ」
彼女はめんどくさそうに溜息をつく。
「バグについては、知ってるナ?」
「まあ、基本的なことは」
「いいか? 覇王というのは、それはそれはお強い天下無双の能力者様だ。遭遇は即ち死、とまで言われて、全てのバグ使いから恐れ戦かれる存在だぞ。知らないのは、お前のようななりたてぐらいダナ。奴は狂暴かつ獰猛な性格でナ、邪魔する奴は即、肉塊というわけだ」
イェツィラが父へ目をやり、不敵に笑った。
嘘はつけないはずだ。でも、こいつの性格からして、過剰な演出が入っているかもしれない。話半分くらいに聞いておこう。ただ、その男は少なくとも父を殺す程度の危険性は持っている。
「お前の親父は、その覇王様の妨害をしたわけだ」
「なんでそんな危ない真似を?」
「知るか。ま、タイミング的にアンヘル絡みだろうがナ」
父の指定したファイルが格納されているフォルダには、他にもバグ関連と思われる文書が山ほど入っていた。その中に、アンヘルって名前の付いたファイルがあったような……。
該当のファイルを見つけて開く。アンヘルというバディに関するメモ書きだった。
情報の確実性を上げるため、イェツィラにも説明を求める。けれど、彼女はあからさまに嫌そうな顔をした。構わず命令すると、渋々といった感じで解説を始めた。
アンヘルは、マスターの願いを一度だけ成就するアプリを持っていること。しかし、それを呼び出すためには、散り散りになったアンヘルを一枚のカードに集めなければならないこと。そして、黒い鳥のカードに入った「腕」こそが、そのパーツの一つであること。
その内容は、父の携帯電話に残されたデータとも一致した。父はこれで何か叶えるつもりだったのか。
次にイェツィラは、父と覇王の闘争について語り始めた。昨夜、覇王が最後のアンヘルパーツを強奪した後、父を含む大勢の能力者が襲撃を仕掛けて大規模な戦闘となった。イェツィラの読みでは、父は覇王のカードを奪うことに成功したが、致命傷を負わされ、逃げて来たのだろう、とのことだった。彼女自身は戦闘開始から十分そこらで、カードへ強制的に戻されたため、直接見たわけではないらしい。
父のファイルには、「一般にバディの戦闘能力は、能力者を遥かに凌駕する」って書いてあったぞ。カード無しでも戦えるって、覇王とかいうのはチートか。
イェツィラが、おもむろにソファからローテーブルの上にのぼる。目線の高さが俺と同じになった。
「そして、私は覇王のバディだ」
「ふうん」
口元をつり上げる彼女へ、俺は気のない返事をした。彼女は不満そうな表情を浮かべる。
「驚かんのダナ」
「覇王のカードに入っていたし、まあ、そうじゃないかと思ったよ」
「ほう。だが何とも思わんのか? お前の親父を殺した奴のバディだぞ?」
イェツィラが真剣な顔つきになり、俺達は睨み合う。リビングに剣呑な空気が漂った。
「でも今は俺のバディだ。バディはマスターに服従する。そうだろ?」
「まあナ」
「つまり俺の手元には、最強のバディがいる。存分に利用させてもらうさ」
イェツィラが鼻で笑う。
「ふ、成程ナ。だが、お前は勘違いしているぞ。別に私は最強じゃあないし、私の力をどれだけ引き出せるかも、結局のところ、お前次第だ」
てっきり唯我独尊みたいなキャラかと思ったけど、意外とまともな奴だな。
「それに、たとえ相性のいいバディだろうが、マスターが雑魚じゃ話にならん。今のお前ではバグが少な過ぎる。私が全力を出せば、ものの数分で燃料切れだ」
「なるほどね。それはそうと、さっさと机から降りろ。行儀が悪いぞ」
イェツィラが小さく笑って絨毯に足をつける。いや、靴も脱いで欲しいんだけどな。
「しかしお前の親父どもは、仮にアンヘルが奪えたとして、それからどうするつもりだったんだろうナ?」
「どうって?」
「何十人で徒党を組もうが、叶えられる願いは一つだけだ。仲間割れになるのが、オチだと思わんか?」
「そりゃあ、そうならないように協定でも結んでたんだろ」
「そんなの、全員が守るわけないだろ。目の前に欲しくて堪らなかった物があるんだぞ?」
俺が知るかよ。でも、父さんがその辺を有耶無耶にしてたとは思えないけどなあ。
俺は父の傍らに落ちている紙切れを拾う。父の遺言には、バグに関する文書の閲覧指示の他に、もう一つ伝言が残されていた。その部分を指差し、イェツィラへ見せる。
「ところで、イェツィラ。多分ないだろうけど、こいつに心当たりは?」
そこには「もし可能であれば、彼女を助けてあげて欲しい。彼く」と書かれていた。終わりの「く」は、「女」を書いている間に力尽きた跡だと推察された。
「ないナ」と、イェツィラはすぐさま首を左右に振る。
まあ、そうだよな。父とは昨日の戦闘で会っただけなんだし。
この「彼女」って人が、父の異様に多い外出と関係あるのかね。
……恋人か? 三年前から独り身だし、不倫には当たらない。四年前からいたら別だけど。
「彼女」の正体は、確かに気になる。父が何をしようとしていたのか、も含めて。
とはいえ、まずは俺の命が最優先だ。俺は覇王のカードとアンヘルの「腕」を持っている。敵は、間違いなく俺を探している。さっさと、とんずらすべきた。
さっきの二つに関しては、どうしても気になるようなら逃亡中にでも調べればいい。父の携帯電話を漁れば、手がかりぐらいはあるだろうし。
しかし分かったところで、俺に「彼女」を助けられるかは甚だ疑問だ。覇王絡みだったら、まず無理だぞ。まあでも、そういう心配は無事逃げ切ってからか。
とは言ったものの、何処へ避難したものだろう? 一応イェツィラに訊いてみるか。
「覇王の手から逃れられそうな場所はあるか?」
「そうダナ、蒐集家の所にでも行くか」
「誰だ、そりゃ」
「バグ使いのカードを収集している変人さ。奴に匿ってもらえば、すぐには居場所も特定できまい。ついでにワームでも貰っておこう」
父の携帯電話でワームに関して調べる。カードの容量を喰い潰すだけのバディらしい。それで覇王をガス欠にしてやろうって魂胆だな。なかなか順調な滑り出しじゃないか。
「あとは、バグ適性の診断ダナ。お前、自分の適性なんて知らんだろ?」
「ああ」と俺は頷く。
能力者は各個人でバグの使い方に得手不得手があり、それを表すのがバグ適性だ、と父のファイルには書かれていた。詳細は後で読むことにして、とりあえず出かける準備をする。
制服を脱いでカーゴパンツを穿き、上にはパーカーを羽織る。
次にリビングに戻って、父から財布を貰っておく。中にはキャッシュカードやクレジットカードも入っている。これで当分は逃亡資金の心配をしなくていい。
そういえば、イェツィラを連れて歩いても大丈夫なのか? 外人の子供なんて、それほど珍しいものでもないけど、覇王側の人間に見られるとまずい。カードに戻して移動するか? でも、それはそれで不意打ちに対応できない。
そんな事を考えつつ身支度をしていると、だしぬけにインターホンが鳴った。
自身の携帯電話を手に取り、ドアカメラの映像を確認できるソフトを起動する。画面に三十代と思しき男性が映った。知らない顔だ。黒のパーカーの上にネイビーのジャケット、頭には黒のニット帽。全身から気怠いオーラが放たれている。訪問販売の人じゃなさそうだ。
「おい、私にも見せろ」
イェツィラが袖を引っ張った。彼女に見える位置まで腕を下げる。
「お、芥川ダナ」
「覇王の仲間か?」
イェツィラが首を水平方向に振る。
「いや、金さえ払えば強盗やら暗殺まで請け負う、所謂『何でも屋』ダナ」
「覇王が雇ったのか」
「それはないナ。あいつはアンヘルに関する情報漏洩を警戒して、昔馴染みの奴らとしか行動していない。ここで新たに人を雇う可能性は低い」
俺は一瞬考えてから尋ねる。
「……こいつに対する勝算は、どのくらいある?」
「限りなくゼロに近いナ」
「マジで?」
嫌な笑いが漏れた。お前、強いんじゃないのかよー。
「マジだ。バグ使いとしての腕は悪くない。私をバディで足止めしている間に、お前を瞬殺できるぐらいにはナ」
「……昨日こいつを見たか?」
「いや、お前の親父の陣営にはいなかったナ。無論、たまたま違う場所にいた可能性もあるし、戦闘後に雇った可能性もあるぞ?」
悪ガキみたいな笑みを浮かべるイェツィラと、頭を抱える俺。どうしたものか。この芥川という男は、どっち側の人間だ?
父の携帯電話で電話帳と電子名刺の管理ソフトを調べる。芥川の名はなかった。
俺の携帯電話には、携帯灰皿を片手に煙草を吸う芥川の姿が映っている。彼は再びインターホンを押した。
俺は大きく息を吐いてから、イェツィラに切り出す。
「逃げよう」
「ま、そうだろうナ」
「問題は、どうやって逃げるかなんだけどさ。ここ、マンションの二十階だし」
「私は飛び降りても平気だがナ」
「俺は死ぬな」
「脆弱な奴め」
「どうするか……」
俺が頭を悩ませているのに、イェツィラの方は全く何も考えている気配がない。
「お前も考えろよ、俺のバディだろ」
彼女がまた大きく舌打ちする。
「じゃあ、お前を担いで飛び降りようか?」
「いやそれ、着地の反動で充分死ねるから」
「世話のかかる奴ダナ」
しかめっ面のイェツィラが右手を差し出すと、その掌から乳白色の結晶が出現した。
「なんだ、それ。サイ・ババか?」
「バグを物質化したものだ」
「……それが、お前のアプリ?」
「違う。こんなことは、変異適性が高ければ誰でもできる」
良かった。ショボ過ぎて、ちょっと引くところだったわ。
イェツィラが結晶を床に落とす。だけれど、彼女の手から離れた途端、結晶は急速に崩れて床へ到達する前に雲散霧消した。
「ふむ、接続適性は低いみたいダナ」
俺のバグ適性を調べているのか。ここから脱出する策があるみたいだな。
「なんとかなりそうか?」
「黒葛原、下に誰もいないか確かめろ」
イェツィラが顎でベランダを差した。
「芥川の仲間か?」
「確か最近は、若い娘を相棒にしていたはずだ」
俺はベランダに繋がった窓に手をかける。
「そいつはどのくらい強い?」
「単純な戦闘能力なら、芥川より上じゃないか?」
上なのかよ。
俺は窓を開けずに手を下ろす。
「……もし下でこの部屋を見張っていたら、開けると誰かいるのがばれるぞ」
「確かにそうだナ。だが、仕方あるまい?」
「いや、そうでもない。イェツィラ、いったんカードに戻すぞ」
彼女に黒い飛沫痕のカードを当てて戻す。
ベランダへの窓をゆっくりと極微小に空ける。その僅かな隙間に俺のカードを差し込む。カードの半分以上が外に出ている状態で、イェツィラを呼び出す。彼女は俺と窓ガラスを隔てたベランダに出現した。周りを囲む手すりに阻まれ、地上から彼女の姿は見えないはずだ。
「よくまあ、こんなせこいことを思い付くナ」
イェツィラが呆れ顔で呟いた。あれ、ファインプレーだと思ったのにな……。
彼女が確認した結果、下には誰もいなさそうだった。音をたてないように注意して玄関からスニーカーを回収し、自分もベランダに出る。さて、ここからどうするつもりだ?
いきなりイェツィラに体を担がれる。彼女は軽々と俺の体を脇に抱えた。
え、ちょっと待って。
「おい。まさか、飛び降りる気じゃないだろうな?」
「そのまさか、ダナ」
「だから、死ぬんだっつーの!」
イェツィラが小さくジャンプして、ベランダの手すりに立った。遥か下方にアスファルトの大地が見える。
車、小せえ~。やばい、死ぬよこれ。マジで。
「なあ、マスターに危害が及ぶことは、できないんだよな? な?」
「はあ? 私がそんなことを言ったか?」
顔面蒼白になっている俺へ、イェツィラが目を細めて微笑む。悪魔にしか見えなかった。
嘘だろ……。だって父さんのファイルには、そう書いてあったぞ!
イェツィラがゆっくりと、前のめりになっていく。
え、え、え。こいつマジか!? ちょ、ちょっと待っ――!!
「う、わあああああああッ!!」
俺は悪魔と一緒に、地獄の淵へとダイブした。
顔に冷たい風が当たり、耳には風切り音だけが聞こえる。
先程は非常にお見苦しい姿を晒してしまったが、死を目前に控えた今の俺は異常なまでに冷静であった。
マンションの二十階というのは、およそ地上六十メートルである。重力加速度は約九.八メートル毎秒毎秒だから、初速及び空気抵抗をゼロとすると、ものの二.五秒で地面へ到達する計算だ。ちなみに、地表すれすれにおける俺の速度は、約時速八十七キロメートルということになる。うん、間違いなく死んだ。
一瞬のうちにこんな算段を楽々こなせるほど、俺の脳髄は研ぎ澄まされていた。もう何も恐くない。今なら小指一本で悟りも開ける勢いだ。
誕生から十六年十ヶ月の日々が、頭の中を駆け巡る。これが走馬灯か。
俺が誕生した時、父は狂喜乱舞したという。「この子は、完全だ!」などと意味不明なことを連呼して、看護師を恐怖させたらしい。今の父からは、全く想像できない光景だ。
その一年後には、妹が誕生した。物心の付いてない俺には全く記憶がないが、さぞ可愛らしい赤子であったことは間違いない。
まあ、それほど愉快な人生を歩んでいないので、これ以降は割愛しよう。ここまでは俺の思い出ですらなかったけれど。
ああ、妹が両手を広げて俺を呼んでいる……。結、五年も待たせてごめんな。寂しかったろう。お兄ちゃんも、今そっちに行くよ……。
「ぐえっ」
体が急に水平方向へ移動した。ああ、結が遠のいていく……。
乳白色の結晶が空中に浮かんでいるのが見えた。リビングでイェツィラがバグから生成したやつだ。直後、肉体に上空方向へ強い負荷を感じる。
見ると、イェツィラがマンションの外壁に足を擦りつけて減速していた。どうやら、バグで造った結晶を蹴って、壁のある方へ飛んだらしい。
みるみる内に落下速度は小さくなり、ほぼ速さゼロの状態で地表に達した。
マンションの敷地の一角で、俺は四つん這いになって命の儚さを噛み締めている。目の前のアスファルトには、こちらを見下す悪魔のような少女。
「お前な……」
「わははは、なかなかの狼狽ぶりだったナ」
先だっての達観した俺はいずこへと消え、今はただただ放心状態となっている。イェツィラに対する静かな怒りがあったけれど、それを発するほどの気力がない。
「いつまでそうしているつもりだ? さっさと行くぞ」
彼女に引っ張り上げられ、よろよろと石ノ森駅へと向かった。
駅に併設されたショッピングセンターの中へ入る。我が家から駅を目指す場合、ここを突っ切るのが一番早い。金曜の夕方だからか、施設内はそれなりに混雑していた。
ちらちらと背後を振り返りながら歩いていると、隣のイェツィラが前を向いたまま呟いた。
「安心しろ。尾行はなさそうだぞ」
おお、なんか歴戦の強者っぽい。何を根拠にそう判断しているのか、全く分からないけど。
「ただ……」
イェツィラが言いかけて止める。
「なんだよ?」
「……いや、ずうっと前の方に、金髪の娘がいるだろう」
目を凝らすと、五十メートル以上先にそれらしい少女が見えた。緑のジャージを着ている。
「ああ、あれがどうした」
「芥川の相棒が、あんなだった気がするナ」
俺は表情を変えずに、大きく息を吐く。
「待ち伏せかよ……」
「いや、そうでもなさそうだぞ。こっちに気付いた気配がない」
確かに。金髪の少女はこちらへ向かって来るものの、携帯電話に夢中といった様子だ。
イェツィラが俺の袖を引っ張る。
「この店に入って、やり過ごすぞ」
彼女がすぐ横にある書店を目で示した。小さく頷いて、それに従う。
店の奥まで進み、背表紙も見ないで適当に文庫本を取って開く。隣ではイェツィラがきょろきょろと店内を見渡していた。
しばしの間、読んでいるふりで時間を潰す。少し経ってから腕時計を見る。そろそろ通り過ぎたかな?
出入り口へ顔を向けると、俺のすぐ左にさっきのジャージの少女が立っていた。
思いっきり吹き出しかける。なるたけ自然な感じで、早急に本へ顔を戻した。
おいおい、マジかよ! どうすんだ、これ。
横目で盗み見ると、彼女は本を探しているようだった。慌ててイェツィラに目配せする。
て思ったら、あいつ、いねえええええっ!!
隣にいたはずのイェツィラの姿がない。どこ行ったんだよ! この一大事に。
「ねえ」
九時の方向から声をかけられた。
俺はゆっくりとそちらを向く。当たり前だが、声の主は金髪の少女だった。
彼女がこちらを指差す。俺は生唾を飲んだ。
「……その本、買う?」
「は?」
ジャージを着た少女の指は、俺の体ではなく、手を指していた。
俺が開いている文庫本を指差すと、彼女は大きく頷いた。
本の表紙を見る。そこには、「妹しか愛せない 下」の文字。なんて漢らしいタイトルだ。この作者、……できる。
裏表紙の粗筋にさっと目を通す。日本に住むごく普通の男子高校生が、実の妹との許されぬ愛に突如として目覚め、倫理という名の時代錯誤な幻想に囚われた父親と、血で血を洗う死闘を繰り広げた後、気が付けばトルコの危機を救ってしまう話らしい。なんでトルコなんだ。
しかしよりもよって、なぜ俺はこんな本を手に……。無意識とは、恐ろしいものだ。
俺が「どうぞ」と言って書籍を手渡すと、少女は眩しいくらいの笑顔を見せた。
「良かったあ。この本、全然なくってさー」
彼女は文庫本を大事そうに胸へ押し当てると、目を爛々と輝かせて言う。
「やっぱ兄妹モノは、アツいよね!」
この娘、なかなかの慧眼だ。敵にしておくのは惜しい。
……あれ、そもそも敵だったっけ?
少女は俺の右手を取って無理矢理に握手した後、元気よく腕を振って立ち去った。無事その姿を見送ると、途端にどっと疲れが体を押し潰した。
死ぬかと思った。しかし、なんだか知らんが乗り切れたぞ。
額の汗を拭って、かっと目を見開く。
……で、あいつは何処だ。
店内を探すと、イェツィラは雑誌コーナーで少年ジャンクを立ち読みしていた。軽い眩暈を覚える。
「なにやってんだ、お前……!」
「ああ、今週は読めてなくてナ。ちょうど終わったところだ」
彼女が漫画雑誌を棚へ戻した。
「あのな……、俺は今、普通に死にかけたぞ」
「ほう。えらく治安の悪い本屋のようダナ」
「お前のせいだよ!」
「あー、分かった分かった」
彼女は瞼を閉じて片手を上げた後、身体を反転させて出口へ向かう。
「もう用は済んだし、蒐集家の所へ急ぐぞ」
俺は顔をしかめて、その背を追う。
「お前それ、完全にジャンク読みに来ただけだよな?」
素知らぬ顔のイェツィラに抗議しながら、駅へと入って行った。