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Inherit  作者: 栄家 水月
6/10

第二章⑤

「なるほどな、事情は大体呑み込めた」

 真向かいに座った芥川さんは、コーヒーをすすってから言葉を続けた。

「それは父親が悪いな」

「だよねー」

 隣の席の朱茉莉が腕を組んで、しきりに頷いている。

 我々三人は今、ホテルのラウンジでお茶を飲んでいる。今日は土曜日という事もあってか、テーブルは既に八割ほどが埋まっていた。我々は、窓際の席に着いている。

 なぜ自分が朱茉莉の部屋にいたのか、彼女に出会った経緯を話して、芥川さんに説明するはずだった。しかし、話の途中で朱茉莉がどんどん割り込んできて、気が付くと自分は「実の兄との間に芽生えた禁断の愛に反対する父親と喧嘩して、泣きながら家を飛び出した娘」という設定にされていた。

 いや、それはどう考えても父親が正しいだろう。ていうか、兄弟とかいないし。

 まあでも、なんか納得してくれたみたいなので黙っておく。本当のことを言うのもまずい。部屋で盗み聞きした会話から、標的の少年はアンヘルを持っているらしい。二人の目的がアンヘルならば、その「脚」を持つ自分もターゲットとなり得る。

 紅茶のカップに口をつけながら、芥川さんをちらりと見る。グレーのニット帽から黒の長い前髪が出ていた。その隙間から覗ける目は、眠たそうに薄く開かれているが、眼光には迫力がある。その瞳が朱茉莉を睨んだ。

「訳は分かったが、お前、あれ一人用の部屋だろ。勝手に人泊めんなよ」

 至極真っ当な指摘だが、彼女はたじろがない。むしろ胸をぴんと張って言い返す。

「だって仕方ないじゃん。私、美少女は大好物だし!」

 はい?

「どんな言い訳だよ」

 芥川さんが鼻で笑った。

 もしかして昨夜の自分は、本格的に危機的な状況に直面していたのでは……?

 十数分前に部屋で芥川さんに取り押さえられた時とは、全く別種の恐怖を感じた。悪寒でカップを置く手が震える。

「腕、まだ痛むか?」

 それを見た芥川さんが申し訳なさそうに言った。

「あ、いえ、大丈夫です」

「悪かったな」

 彼が軽く頭を下げた。その上から朱茉莉が罵声を浴びせる。

「叶子を男子と間違えるとか、あり得ないよねー。老眼始まってるんじゃないの?」

「んな歳じゃねえよ。だから、悪かったって言ってんだろ。なんせ……」

 芥川さんはそこで不自然に言葉を切ると、決まりが悪そうに視線を逸らしてコーヒーを飲んだ。言い淀む前、自分の胸の辺りを彼がちらりと見た気がした。

 なんせ、何だ。いや、言わなくても分かるぞ。悪かったな。どうせ水鏡とは雲泥の差ですよ。ほっといてくれ。

 渋い表情になっている自分を見てか、芥川さんが「すまんな」と呟いた。

 それ、何について謝ってるんですかね……?

 気落ちする自分の横で、朱茉莉が声を張り上げる。

「てか、見間違えたとか嘘でしょ。女子高生に抱きつきたかっただけじゃない?」

「んなわけねえだろ。そもそも抱きついてねえ」

「どうせ体密着させて、うなじの匂い、たっぷりと嗅いだんでしょ。この変態めっ」

「誰が、んな事すんだよ」

「私は五回くらいしたけどね」

 朱茉莉が得意げに威張る。

「お前が、やってんのかよ!」

 無意識的に手で首を押さえてしまう。

 ……ん、五回?

 彼女に背後を取られたのは、確か三回だ。あとの二回はいつだ? まさか就寝中に……。

 脳裏に恐ろしい情景が浮かんだ。首筋に寒気が走る。

「叶子のお兄ちゃんは、いい趣味してるね! 彼とはいい酒が飲めそうだぜ」

 朱茉莉がグラスの中でコーラを転がす。

「お前、酒とか飲んだことねえだろ」

 芥川さんが冷たい目でつっこんだ。

 一体この二人はどういう関係なのだろうか。朱茉莉と芥川さんの年齢は、ちょうど倍くらいの差があるだろう。しかし、二人のやり取りは、同世代の友人同士で交わす会話そのものだ。恋人ということもないだろう。歳の差が開き過ぎだし。自分には量りかねる。

 芥川さんが腕時計に目をやる。

「そろそろ行くか。あんまりサボってると、クライアントに怒られる」

「げ。それは恐いな……」

 朱茉莉が一瞬苦い顔をして、残ったコーラを一気飲みした。

 二人はどうやら雇われの身らしい。雇主は、水鏡の元マスターなのだろうか?

 答えは分からないが、あの朱茉莉が本当に恐がっているように見えることから、目をつけられたくない人物であることは間違いないようだ。

 芥川さんは腰を上げると、黒いジャケットの内ポケットから財布を出した。そこから何枚かの紙幣を抜いて、こちらへよこす。

「金がないんだろ? 持ってけ」

「そんな、申し訳ないです」

「いいの、いいの! 気にしない」

 朱茉莉が芥川さんからお札を奪い取って、私の手に掴ませる。五万円あった。

「なんでお前が言うんだよ」

 芥川さんを無視して、朱茉莉が続ける。

「どうせ汚いことして稼いだお金だから」

「お前な、使いにくくなるような事を言うなよ」

 割と洒落になっていない。だが、お金は必要だ。背に腹は替えられない。

「本当にすいません。必ず返しますから!」

 立ち上がって一礼する。

「返すのは、一割くらいでいいよ」

「勝手に決めんな」

 朗らかに笑う朱茉莉を、芥川さんが睨んだ。

「金は返さなくていい。それより母親に連絡してやれ。きっと心配してる」

 その言葉に大きく目を見開く。そうだ、色んな事に追い立てられてすっかり忘れていた。母に父の死を伝えていなかった。

「じゃあ、俺達はそろそろ行く。ま、後悔しないためにも、自分の好きなようにやるんだな」

 芥川さんが背を向けてラウンジの出口へと向かう。

 いや、それは道徳的にどうかと思います。

「お兄さんに、よろしくね!」

 朱茉莉が手を上げて、後を追う。が、すぐさまこちらへ引き返して、耳元で囁いた。

「でも、お父さんとも仲良くね」

 そう言って、ラウンジから駆け出して行った。

 曇った表情で、再び独り席に着く。

 母に連絡しようと、携帯電話を取り出す。電源が切れていた。昨夜、栄港で切った後、そのままにしていたことに気付く。

 起動すると、着信が一件入っていた。昨夜の二十二時過ぎ。登録されていない番号からだ。発信先の人物は、留守番電話にメッセージを残していた。内容は後で確認することにして、先に母へ電話をかける。

 呼出し音が続く。応答はない。が、ふと気付く。母は海外に住んでいる。こちらは昼間でも、向こうは深夜だ。寝ているのだろう。

 仕方ないので、メールソフトを起動する。文面を入力しようとするが、途中で指が止まってしまった。動かすことができない。父の死を伝えなければならないのに。

 目頭が熱い。視界が滲んでいる。瞬きすると、ディスプレイに滴が落ちた。

 なんで、今頃……。

 そう思うが、溢れる涙を抑えることができない。

 周囲の客にばれないように、窓の外を向く。街を見下ろすと、休日だからか道行く人は多かった。子供連れの家族が目立つ。楽しそうに談笑しながら、父親の大きな手を引っ張る少女が見えた。

 父の手も大きかった。幼い頃は、その手で頭を撫でられるのが好きだった。死に際の父の手が蘇る。血にまみれて震えていた。

 両手で顔を塞ぐ。胸が苦しくて、嗚咽が漏れそうになる。

 物心ついた時、父は家にいなかった。仕事で海外出張している、と母は言っていた。

 でも父は、私の誕生日には必ずプレゼントを持って帰って来た。いつもそれがとても待ち遠しかった。

 そういえば、父に貰ったグスタフはどうしたのだろう。

 大きな犬の縫いぐるみのグスタフ。お気に入りで、どこへ行くにも一緒だった。一度、汚れを綺麗にしてあげようと思って、自分で洗濯した事があったっけ。でも、洗濯機から取り出そうとして頭を掴んだら、額が大きく破れてしまった。グスタフは水を吸って、とんでもない重さになっていたのだ。

 自分が大泣きする横で、父は慣れない手つきで必死に裂け目を縫い合わせていた。「直った」と言って見せられたグスタフのおでこには、とても不格好な修繕の跡が残っていた。だけど、全然気にならなかった。今は何処にあるのだろう。何処かにしまったのだろうか。

 父は頭がいい上に運動神経も抜群だったが、TVゲームは苦手で、対戦するといつも負けていた。「上手いな」と褒められるのが嬉しくて、「もう一回」と何度もせがんだことを覚えている。今思えば、あれはわざと負けていたのかもしれない。

 二年くらい前、父は出張が終わって家に帰って来た。あの時は無関心を装っていたけど、内心はこれから一緒に住めることで胸が高鳴った。

 それから一年程経つと、今度は母が海外へ行くことになり、家族三人が揃って暮らせたのは結局一年だけだった。そして、もう三人で暮らせる時は二度と来ない。

 こんなことなら、もっと素直に父と接すればよかった。

 涙が次から次へと流れ出してくる。気持ちを立て直そうとするが、なかなかできない。

「マスター」

 不意にカードから水鏡が話しかけてきた。

 涙を拭ってなんとか止める。カードから外は見えないはずだ。泣いていたのを気取られないよう、返事の前に紅茶を飲んで喉の調子を整える。もうすっかり冷めていた。

 返事をすると、水鏡が神妙な声で言う。

「マスター、申し訳ありません」

 少し面食らう。これまで水鏡が謝ったことなどないはずだ。

「え、何が?」

「昨夜、栄港駅で朱茉莉のことを敵対関係にないと判断しましたが、誤りだったようです。マスターを危険に晒す結果となり、申し訳ありませんでした」

「いや、いいよ」

 自分もそう考えていたし、ホテルの部屋の件は、特に水鏡のせいだとも思わない。

「いえ、私には謝罪する義務があります」

「義務って。なんで?」

「自身の過失により相手が不利益を被った場合、謝罪をしなければならない、とマスターが仰っていましたので」

 ああ、骸骨を撃退した時か。確かに言った。そんなに堅苦しい言い回しではなかったが。

 よく覚えていたな。けど、そんな言いつけまでいちいち守るとは、なんて律儀なのだろう。

 少し可笑しい。自分もこの娘ぐらい素直だったら、と思った。

「分かった。でも、最終的に決めたのは自分だから」

 プラチナクラウンのカードをそっと撫でる。つるつるして指触りは良かった。

「それにしても、水鏡でも間違うことがあるんだな」

「はい。私の知能は、一般的な成人と同じ水準ですので」

「じゃあ、これからは水鏡の言いなりじゃなくて、自分でも何をすべきか考えるよ」

「いえ、それは危険です」

 水鏡が即答した。

 こいつ……。さっきまで健気に謝っていたと思ったら……、まったく。

 携帯電話を再び手に取り、母へメールを送る。今度は泣かずに入力できた。

 次に、見知らぬ番号からかかってきた留守番電話の内容を聞くことにする。

 メッセージの開始を告げる電子音の後、激しい息遣いと聞き覚えのない男性の声が響いた。

「よく聞いてくれ。これから話すことは、決して嘘や冗談じゃない。にわかには信じがたいだろうが、全部本当のことだ」

 男の切羽詰まった声に身構える。

「俺は、君の父親の友人だ。君の父親を含む俺達は今、複数の人物に追われている。相手は俺達を皆殺しにする気だ」

 内容に息を飲む。水鏡に聞いた話と全く同じだ。まさに今、自分が直面している事件に関するものだった。

「仲間の多くが殺され、俺も深手を負っている。君の父親とも連絡がつかない」

 それはそうだろう。昨夜の二十二時なら、父はとっくに死んでいる。

「もし、連絡が取れたら伝えてほしい。今、仲間の息子が敵に狙われている。アレを持っているらしい。かなり危険な状況だ。助けてやってくれ!」

 男の悲痛な叫びと共に、甲高いアラームが鳴る。

「クソ、電池が切れそうだ。敵は明日の深夜、息子を御多高に誘き出す気だ! 息子の名前は、か――」

 そこでメッセージは切れた。ゆっくりと携帯電話を耳から離す。視線が泳いで定まらない。

 メッセージに出てきた息子というのは、芥川さん達が探す人物に間違いないだろう。彼らはターゲットを息子に変更したと言っていた。ならば「アレ」とは、アンヘルのことに違いない。敵は御多高でその息子からアンヘルを奪うつもりらしい。御多高の周辺は森が広がるだけで、人は住んでいない。たとえ彼が助けを求めて叫んでも、誰にも届かないと思われた。

「どうされました? マスター」

 様子がおかしいのを感じてか、カードから水鏡が声をかけてきた。留守番電話の内容を伝えると、彼女は冷静に返す。

「罠の可能性があります」

「そうかな? だって私を罠に嵌めるってことは、敵にこのカードを持っていることを気付かれたってことだよな?」

 アンヘルの「脚」が入った数字のカードに手をかける。

「ならすぐにでも、芥川さん達がここへ戻ってくるはず」

「芥川らの雇主が、元マスター達とは限りません。アンヘルで願望の成就を図ろうとする能力者は大勢いますので。また、そういった人物に、アンヘルのパーツを高額で売却しようとする者に関しても同様です」

 水鏡の分析を聞きながらも、自分がどうしたいかは既に分かっていた。

 席を立って、ラウンジを後にする。




 ホテルのお手洗いへ移動して個室に入り、水鏡を呼び出す。

 柔らかな光と共に、純白の少女が出現した。その猫のように大きな両目には、黄金の瞳が輝いている。もう昨日の傷跡はなかった。服にも血痕はなく、新品同然だ。

 彼女の真っ直ぐな瞳をじっと見つめる。

「水鏡」

「はい、何でしょうか? マスター」

「私は、父さんの仲間の息子さんを助けたい」

 誰かが殺されようとしているのを、黙って見過ごすことなどできない。それが父に関係する人物なら尚更だ。

 それにもしかすると、敵は勘違いで自分と彼を間違えているのではないだろうか。彼は、敵のカードもアンヘルも持っていないのかもしれない。もしそうなら、彼は自分の身代わりになって、最悪殺されてしまうことになる。そんなことは我慢ならない。

 無表情な水鏡を見据えながら続ける。

「それで、水鏡の気持ちを聞かせてほしい」

「マスターの身に危険が及ぶため、推奨できません」

 彼女は即座に返した。

「分かってる。でも、聞きたいのは私のことじゃなくて、水鏡自身がどうしたいか」

「私が、ですか?」

「そう。私は彼を助けたいけど、独りでは無理。きっと水鏡の力が必要だと思う」

 自分が命令すれば、水鏡はどんな相手とだって戦うのだろう。でも、そんなの嫌だ。自分の勝手な考えのために、彼女が相手を傷付け、自らも血に塗れてぼろぼろになるなんておかしい。

「だから、水鏡がどうしたいのかを聞かせて欲しい。それで、これからどうするか決めよう。二人で」

 私達の行動は、私達二人で決める。後悔しないためにも。

 固唾を飲んで返事を待っていると、水鏡が戸惑いの表情を見せながらも口を開いた。

「私は……、私はマスターのお役に立ちたいです。マスターが望まれることでしたら、私はそれに全力を尽くすだけです」

 水鏡が微笑んだ気がした。胸の辺りが熱くなる。

 彼女はつぶらな瞳でじっとこちらを見て、返事を待っている。

 忠犬か。

 急に水鏡と見つめ合っているのが気恥ずかしくなって俯く。

「そっか。……ありがとう」

 でも、お礼ははっきりと言えた。

「謝辞など不要です。私は、マスターのバディですから」

 水鏡の手を取る。

「行こう、水鏡」

「はい」

 彼女が、ぎゅっと手を握り返した。

 その感触を静かに確かめていると、個室内に低い異音が響いた。……また、お腹が鳴ってしまった。

 ばつが悪くなって、頭を掻く。だが水鏡は無反応で、相変わらずこちらを見据えている。

「……えっと、ご飯、食べよっか」

「推奨される行動です。御多勢川高校では戦闘が予想されますので、コンディションは万全にしておいた方が良いでしょう」

「いや、そうじゃなくて。一緒に食べよう」

 彼女が一瞬の間をおいて訊く。

「私と、ですか?」

「そう」

「私に栄養補給は必要ありません。限られた資金は有効に使用された方がよろしいかと」

 うん、正論だ。だが折れない。

「まあ千円くらいだし、いいじゃん。これに着替えて」

 通学鞄から自分の制服を取りだして渡す。

「……了解しました」

 水鏡はシャツとネクタイ、スカートを受けとって白いコートを脱ぐ。私は後ろを向いて、着替え終わるのを待つことにする。

「サイズが合わなかったら、言ってくれ」

「はい」

 背後から衣擦れの音がする。

 自分が着ているジャージなら、間違いなく水鏡でも着られるだろうが、なんせ彼女は黒のブーツを履いている。ジャージとは、絶望的に合わない。流石に新しく靴を買うのは、資金が勿体ない。というわけで、悪いが自分の制服で我慢してもらう。ちょっと心配なのは、昨日一日着ていたことだ。

「多分、臭わない……と、思う」

 ぼそりと漏らした言葉に、水鏡が返事を返す。

「いえ、少しマスターの香りがします」

 すぐさま振りかえると、彼女がシャツに鼻を埋めていた。

「なに嗅いでんの!?」

 急いでシャツを取り上げる。顔面が熱くなった。

「マスターが匂いに関して言及されましたので」

「確かめなくていい!」

 また大声をあげてしまった。この場に他の誰もいないことを願うばかりである。

 取り上げたシャツを嗅いでみる。……特に何も感じない。無臭である。

 水鏡は直立不動でこちらの指示を待っている。彼女は嘘などつくまい。なら、実際に嗅ぎとれたのであろう。

 なんと言うか、いよいよもって犬だな。

 半裸の水鏡にシャツを返す。否が応でも彼女の胸部の膨らみが目に入った。

 着られるかなー……。再び向き直りながら心配した後、少し凹んだ。

 数分後、再び背中へ声をかけられる。

「マスター、完了しました」

 制服姿の水鏡を見る。彼女はシャツのボタンを全て留め、裾はピッチリとスカートの中へ入れていた。ネクタイは非常に美しく結ばれている。自分の知らない結び方だ。

 うん、なかなか似合っている。日常的な服装の彼女は、非常に新鮮だ。何故か少々気分が高揚した。なんだ、この感覚は。着せ替え人形的な楽しさ、だろうか?

 だが、水鏡の脚が長いのか、プリーツスカートの丈が短いような気がする。静脈の透けた白い太腿が、やや過剰に露出されている。見えてしまうのではないか、という危うさを感じた。

 そういえば、水鏡には羞恥心というものがないのだった。注意しておいた方がいいだろう。

「あ、パンツは隠すこと」

「はい」

 水鏡がおもむろにスカートをたくし上げて、前屈みになる。こちらがあっけにとられている間に、彼女が太腿に沿って手を下ろし始めたので、慌てて制止する。

「って、何やってんの!?」

「マスターが下着を隠せと仰られましたので、脱衣しています」

「そういう意味じゃない!」

 信じられない。こいつ、正気か。そう解釈するか? 普通。

 水鏡は姿勢を変えず、水色のショーツに指をかけたままこちらの様子を窺っている。早く穿き直すように促した後、言葉の真意を説明した。水鏡は素直に「了解しました」と返事をしたが、本当に分かっているのであろうか。非常に心配である。

 しかし、何処へ隠すつもりだったのだろう。土にでも埋める気か。

 予想外の事態に水鏡を衆目に曝していいものか、不安になる。見た目に変な所がないか、チェックしたが、特に問題はなさそうだった。私のシャツで苦しそうに圧迫されている彼女の胸元以外は。その光景に気持ちが沈む。

「どうされました?」

「いや……、なんでも、ないです……。あの、上着着てもらっていいですか」

 しまっていた制服の上着を取り出して渡す。それで胸元が隠れると、幾分心が持ち直した。まあ、上着の膨らみ具合だけでも充分なダメージなのだが。




 水鏡を連れて、ラウンジに戻る。数人の客が彼女をちらちらと見たが、気にしない。

 先程のテーブルに再び着く。ランチメニューは豊富だったが、ハンバーガーセットを二人分頼んだ。水鏡がお箸やフォークをどの程度使いこなせるのか、未知数だったからである。

 しばらくして運ばれてきたハンバーガーを、水鏡に示すように食べる。ハンバーグが熱々で美味しい。噛むと旨味に満ちた肉汁が溢れた。

 彼女も真似してかぶりつく。

「どう?」

 もぐもぐと咀嚼している水鏡に感想を尋ねた。飲み込んでから、彼女は答える。

「牛以外の肉は、ほぼ使用されていないようです。その他の材料はバンズ、レタス、トマト、玉葱で、調味料は塩コショウとケチャップと思われます」

 いや、そんなのは見れば分かるから。うーん、美味しいという言葉を期待していたのだが。

 しかし、背筋をぴんと伸ばして黙々とハンバーガーを頬張る水鏡の姿は、なんとなく微笑ましいものがあった。そんな彼女の口元にケチャップが付着しているのを見つける。

「ケチャップ付いてる。まったく、子供じゃないんだからさ……」

 しっかりしているようで、何処か抜けている感じがするな、この娘は。

 紙ナプキンを取って水鏡の口元を拭き取ってやる。完全にケチャップが取れたかと思うと、彼女が私の手から紙ナプキンを引き抜いた。

「大丈夫。もう取れてるから」

「いえ、マスターも付いています」

 そう言って、彼女は紙ナプキンを私の口元へ当てた。

「あ、そう……」




 ハンバーガーとフライドポテトを平らげて、しばし休憩する。食べ過ぎた。少々苦しい。

 正面では軍人並みにいい姿勢で、水鏡がコーラのストローを吸っている。

 すると突然、携帯電話がバイブレーションした。母からだ、と一瞬思ったが、メールなので違うだろう。母なら用件から考えて電話の方が自然だし、そもそもまだ寝ているはずだ。

 メールを確認する。管からだった。昨日の夕方、こいつと他愛のないゲーム話をしていたのが、随分と昔の事のように思えた。とはいえ、あれからまだ一日も経っていない。

 どうせ下らない内容だろうと思ってメールを開封してみるが、予想に反してその中身は眉をひそませるものだった。件名もなければ、本文もない。画像だけが添付されている。

 管からのメールでこんなことは初めてだ。いつもは無駄に絵文字を使った長ったらしい文章がしたためられているのに。

 この時、不吉な閃きが脳内を駆けた。

 芥川さん達のターゲットは、御多高二年の男子。

 父の仲間からの電話。敵の狙いは、「か」から始まる名前の人物。

 管の苗字は「すが」だが、よく「かん」と勘違いされる。

 生唾を飲む。まさか……!

 慌てて添付画像をタップする。ダウンロードバーが、不規則に進行と停止を繰り返す。

 もどかしい。早く!

 画像が開いた。それを見て呼吸が止まる。

 管だ。管が写っている。画像の中の管は、アホ面でダブルピースをしていた。なんだ、この画像は。

 よく見ると、管の後ろにはTVモニターが置かれている。その中には、自分のよく知るゲーム画面が表示されていた。ゲーム内のメッセージウインドウには、こう書かれている。

『ヴェクサシオンを入手しました!』

 大きく息を漏らす。が、安堵の胸を撫で下ろした後、沸々と怒りがわいてきた。

 もう一度画像を見ると、管の後ろのTVには携帯電話を構えた人物が映り込んでいる。沖田だ。どうやら管の家に遊び来て、写真を撮るように頼まれたらしい。

「なんなんだ、こいつらは」

 憤怒で勝手に声が漏れた。まったく、人の気も知らないで。

「どうされました?」

 コーラを飲み干した水鏡が尋ねてきた。

 耐え難い苛立ちに身を任せて、「アホ」とだけ書いたメールを返信した。

「いや、なんでもない」

 次に会ったらタダでは置かない。御多高へ戻る途中、殴りに寄りたいくらいだ。

「ああ……、こんなにイライラしたのは久しぶりだ」

「ですが、マスター」

 独り言に乱入してきた水鏡が指摘する。

「口が笑っています」




 日が落ちてから、御多高へと忍び込んだ。

 校舎は真っ暗で、駐車場にも車は停まっていない。この時間、校内にいるとすれば巡回の警備員くらいだろう。そもそも御多高に警備員がいるのか、よく知らないが。現代の深夜警備は、センサー等の機械警備で済ませているのかもしれない。

 御多高の出入り口は、正門と西門の二つだけだ。二つの門が同時に見渡せる唯一のポイントへ移動する。運動場の端にあたるそこには、用具入れの小屋がある。

 小屋の脇に、男物のジャケットが落ちていた。部活の指導教員が忘れて帰ったのだろうか?

 身を隠すために用具入れの裏へと回る。

 留守番電話を残した男性は大丈夫だろうか? 彼は自身も深手を負ったと言っていた。何回かかけ直したが、連絡はつかない。無事だといいのだが……。

 だがもし、留守番電話のメッセージが罠だった場合はどうするか?

 カードの水鏡に話しかける。彼女と想定される様々な状況への対策を話し合い、事が起きるのを待った。




 用具入れの裏に潜んでから、だいぶん時間が経過した。携帯電話を見ると、既に時刻は零時を回って、日曜日に突入している。

 もしかして、標的の少年は敵の罠を回避したのだろうか。或いは、あの電話の内容は間違いだったのか? 残る懸念事項は、少年が校門をくぐる前に捕縛されてしまったケースだ。

 一度門の方まで移動してみようか。いや、それは危険か。

 そうこう迷っているうちに、西門に人影を見つけた。数は一人だ。

 その人物は、真っ直ぐこちらへ向かって来る。

 何故? 偶然か? それとも、自分の居所がばれているのだろうか。

 狙われている少年か? 敵か? 或いは、第三者か? 息を飲んで、ジャージのポケットにあるカードを強く握る。

 月明りで運動場を歩く人物の姿が見えた。上は黒っぽいパーカーで、頭にフードを被っており、両手はポケットにつっこまれている。体格からして男性だろう。

 その人物の所作は、非常に落ち着いているように見えた。敵に怯えているとは思えない。

 自分との距離が少しずつ埋まっていく。

 どうする? ここで水鏡を呼び出しておいた方がいいか?

 自分まであと五十メートルという所で、パーカーの人物がポケットから手を出し、フードを下げた。自分と年端の変わらない少年の顔が見えた。

 少年は、諸手を上げてこちらへ歩み寄ってくる。害意のない証しだろう。

 なぜ自分の位置が分かっているのかは気になったが、こちらも手を上げて彼の方へ進む。

 お互い五メートルくらい離れた位置で停止した。

 少年の身長は百七十センチ程度で、スリムな体型だった。ワニ革のような模様がペイントされた黒のパーカーに、カーキのカーゴパンツを着用している。髪は黒から薄く灰色がかっており、ショートヘアだった。ややつり上がった目の中にある真っ黒な瞳と、真一文字になった口から、冷たい印象を受ける。

 彼の顔は、何処かで見たことがある気もした。標的の少年ならば同じ学校なのだから、顔を知っていても不思議ではない。

 まず彼が何者なのか訊こうと思ったら、先手を取られた。

「こんばんは。そちらは、父の仲間の娘さん?」

 緊張した空気に不釣り合いな挨拶に面食らって、「あ、はい」と少し間抜けな返事をした。

「そっか。何度か学校で見かけたことがある」

 少年が穏やかな表情で、背後の校舎を指差した。彼も御多高の生徒らしい。どうやら狙われている少年で間違いないようだ。しかし、私のことを誰に訊いたのだろう。

「他の人は?」

 彼が左右を確認しながら尋ねてきた。

 他の人? 質問の意味がよく分からず、眉をひそめる。父の仲間のことだろうか。

「いや、分からない。私は独りで来たから。それより、敵が君を狙ってる」

 少年はそれを聞いても、慌てる素振りがない。

「知ってる。なんせボス敵のカードを持ってるからな」

 彼は落ち着いた手つきで、パーカーの右ポケットからカードを出した。白地に墨で黒い鳥が描かれている。能力者のカードだろう。

「ついでに、アンヘルも」

 彼は困ったように笑って言い足した。

 自分もポケットから数字のカードを取り出す。

「私も持ってる」

 ずっと微笑を携えていた少年の顔つきが、そのカードを見て曇った。

「そのカードは……?」

「敵のカード。アンヘルが入ってる」

 少年から表情が失われる。瞳は焦点を結んでない。口が微かに動いた。

「……まえ」

「え?」

 聞き返すと、彼の黒い瞳がこちらを捕えた。

「所有者の名前は?」

 彼の様相に異様な雰囲気を感じながらも、カードを裏返して所有者を示す。

「この人。読み方は分からないけど」

 彼はそれを見るや否や、俯いてしまった。長い数秒の沈黙を隔てて、横一文字だった彼の口が一瞬だけ笑ったように見えた。

 が、すぐに頭を上げた彼の顔は、まるで能面のようになっていた。

「その人が、敵?」

 空気がおかしい。変に張り詰めている。

「そう、父を殺した敵の一人」

「……違うか」

 少年が溜息を吐いてから呟いた。

 違う? 何が? カードの持ち主は、敵じゃないという意味か?

 彼は私が持った数字のカードを指差す。

「『つづらはら』って読むんだ、その苗字」

 彼は、ゆっくりと瞬きをした。

「知ってるよ」

「は?」

「その男」

 その言葉に息を飲む。父を殺した相手。知りたい。一体、何者なのか。

「教えて! 誰?」

「こっちの質問に答えたらな」

 少年が表情を変えずに淡々と喋る。月光に照らされたその眼差しは不気味だった。

「お前と覇王の関係は?」

「ハオウ?」

 何のことか分からず、オウム返しをする。彼は黒い鳥のカードを裏返して、こちらへ見せた。

「こいつだよ」

 カードは、バディでいっぱいになっていた。アンヘルのパーツであろう「腕」と、「Bugbear」四体が保存されている。

 所有者の名前に目をやる。息が止まるくらいの驚愕。

 鷲宮(わしみや)征一(せいいち)

 私の、父の名前だった。

 唇がわなわなと震える。

「どうして……、父の、カードを……?」

 やっとのことで出た言葉は、それだった。

「そうか」

 少年の淀んだ瞳が、こちらを見据えている。吸い込まれそうに黒い。

 この感じは、何処かで……。

「今度はこっちの番だな。その男、黒葛原(つづらはら)玄一郎は――」

 彼の漆黒の瞳に、自分が映っているのが見えた。

 ……そうだ、水鏡に見られた時と感覚が似ている。

「俺の父親だよ」

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