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Inherit  作者: 栄家 水月
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第二章④

 来た道を引き返す。水鏡を戻したカードは、また胸のポケットにしまった。

 未だ自分が危機的状況にあることは重々承知していたが、不思議と恐怖心は小さくなっていた。空腹感を感じられるくらいには、精神状態に余裕がある。

 戦闘で生き延びられたからだろうか。いや、違う気がする。だが何はともあれ、油断は禁物だ。敵はまだ数字のカードを狙っている。そう自分を諌める。

 緊張感を取り戻そうと、先の戦いで不明な点を水鏡に訊く。

「骸骨を倒した時、どうやって海からあんな早く戻って来たんだ?」

「ファイアーウォールを足場にして移動しました」

 そうか、ファイアーウォールを空中に展開して、その上に乗ったのか。種明かしされると、非常に簡単な話だ。言われるまで気付かなかったのが不思議なくらいだ。

 自分がファイアーウォールに対して、勝手にバリアのイメージを持っていたからだろう。ゲームで出てくるバリアは、あくまで攻撃を防ぐものであり、足場に使ったりはできない。だが、空中に固定された平面という意味では、バリアも足場も同じだ。

 たかだか二百平方センチしか張れないのに、応用方法が多彩で素直に感心した。

「コートを脱いだのは?」

「攻撃前の場所交替に対処するため、コートで身を隠しました」

 骸骨は攻撃の直前、水鏡の方を向いていた。にもかかわらず、場所交替をしなかったのはそのためか。

「なるほど。でもそれ、骸骨が水鏡じゃなくて、こっちと場所交替してたら死んでたんですけど」

 ちょっと意地の悪い指摘をしてみる。

「いえ。その場合、私の攻撃は命中しません。マスターはしゃがんでいましたから」

 うん、まあ、確かに。

 そういえば、ファイアーウォールが黒かったり、透明な鏡みたいになったりするのは何故だろう。水鏡に尋ねる。

「それは、ファイアーウォールを観察している面が異なるためです。今、反射率百パーセントの面をファイアーウォールの表、透過率が百パーセントの面を裏とします。まず、ファイアーウォールの表側に立った人物Aを考えましょう。ファイアーウォールの表側から来た光は反射されて、Aの目に入ります。これは鏡と全く同じ現象です。よって、Aにはファイアーウォールに映った自分が見えます。逆に、裏から来た光は、そのままファイアーウォールを通過してAへ入射します。これは透明な硝子と同じ現象です。故に、Aにはファイアーウォールが透けて向こう側が見えます。ここまでの議論を合わせると、Aにはファイアーウォールの向こう側と自分を含む手前側の風景が同時に見えます。次に、裏側の人物Bを考えましょう。この場合は先程と逆で、ファイアーウォールの表側から来た光も、裏側から来た光も、Bの目には入射しません。故に、Bにはファイアーウォールが黒く見えます」

 うーん、分かったような、分からないような……。

 つまり、ファイアーウォールをバリアとして使用すると、自分は裏面にいるから敵が全く見えないということか。対して、表側にいる敵はバリアを挟んだこちらが見えるのだから、視覚情報上は敵の方が有利になる。

 ファイアーウォールは色んな使い方ができるが、そういう扱いにくさも持っているわけだ。これからに備えて、その特性はきちんと把握しておかなければ。いつまでも足手纏いは嫌だ。




 栄港駅に入り、改札へと繋がる長い通路を歩く。他に歩いている人物はいない。

「さっきの男が……、その、水鏡の元マスターの仲間じゃない可能性はあるの?」

「はい、第三者の可能性もあります。目的はアンヘル、或いは単にカードとバディの奪取とも考えられます。覚醒したばかりの能力者は経験も浅く、バグを充分に使いこなせないため、標的となりやすい傾向があります」

 それで自分が襲われたのだろうか。しかし、まだその方がいい。それなら突発的な戦闘であって、新手が来ることはない。

「でも、相手が初心者かどうかなんて分かるか?」

「少なくともマスターの場合、想定外の事象で容易に平静を失うことや、頻繁に見られる軽率な行動から、直ちにビギナーと分かると思われます」

「ほっとけ!」

 通路の向こうに女性の姿が見えた。慌てて黙る。声が大きくなってしまったので、聞かれたかもしれない。だとすれば、さぞや変な人と思われたことだろう。せめて電話のふりをしておけば良かった。

 女性がこちらを見る。ジャージを着た十六、七の少女だった。結局彼女はすれ違うまで、ずっとこっちの様子を窺っていた。さっきの声を聞かれたのだろう。しまった、超恥ずかしい。

 羞恥心を振り払うように、足を早める。遠くに改札が見えた。水鏡が話を再開する。

「強奪したカードやバディを、店や個人に売却して生計を立てる能力者もいます」

「そういう仕事もあるんだな。バディ一体、安くて五百万……」

 胸ポケットのカードに目をやる。売っちゃおうかな。

「マスターが死を希望されるのでしたら、お止めしません」

「あんた、どんどん口悪くなってない……?」




「さて何処に向かう?」

 水鏡に尋ねながら、改札を抜けるため通学鞄を開ける。IC乗車カードは財布の中だ。しかし、鞄の中をいくら探しても財布は見当たらない。

 あれ、ポケットだっけ? ポケットに手を突っ込んでみるが、どれも空だった。

 ……何もない。

「どうされました?」

 異変を察知して、水鏡が尋ねてきた。

「財布がない。さっきのいざこざで落としたのか……?」

 あの時はかなり激しく動いた。落としていても不思議ではない。お金というのは、戦闘勝利時に敵が落とすものだと思っていたが、まさか自分の方が落とすとは。考えられない仕様だ。ゲームなら、クソゲー確定である。

 どうする? 拾いに戻るか?

 あり得ない選択肢だ。敵に鉢合わせる可能性が高い。その上、財布がある保証もない。だが、このままでは電車にも乗れない。ぐずぐずしていたら、また襲撃を受けてしまう。

「やばい、どうしよう……」

 口がひとりでに動いた。どうすることもできず、改札の前で立ち尽くす。

「大丈夫ですか……?」

 不意に背後から声をかけられた。ちょうど敵に襲われる想像をしていたため、反射的に振り返って素早く身を引いた。

「すみません。驚かせちゃいましたね」

 声の主は二十代後半と思われる長身の男性だった。鈍色に光るメタリックなフレームの眼鏡をかけ、上等そうなストライプのスーツを着ている。青年実業家っぽいな、と思った。

「あ、いえ……」

 咄嗟に反応できず、曖昧な返事をしてしまう。「すいません」と謝り、急いで道を譲った。

 青年はスーツの内ポケットから黒い財布を取り出す。革製で高級感のあるデザインだ。だが彼は改札を抜けずに、その場で財布を開いた。自分の前に真新しい千円札が差し出される。

「どうぞ」

「え?」

「財布をなくされたのでしょう?」

 さっきの声を聞かれていたのか。またやってしまった。羞恥で顔がかっと熱くなる。それを悟られまいと俯いて、早口で返す。

「いえ、そんな、大丈夫です……!」

「大丈夫じゃないです。どうやって帰られるつもりですか?」

 確かに。上目遣いに青年を見ると、微笑んで千円札を差し出していた。

 やたら独り言を言って、さらに財布を落とす間抜けな奴と思われているだろう。あの微笑はドジな相手への憐みの表情かもしれない、と勝手に思った。

 しかし、ここでお金を貸して頂けるのは正直ありがたい。まさに僥倖である。

「いいん……、ですか?」

 自分の不甲斐なさに打ちひしがれながらも、相手の好意に甘えることにする。

「はい。これで足りますか?」

 青年は穏やかに口元を上げた。

「はい、すいません。必ず返しますので!」

 お札を受け取って、深々と頭を下げる。

「そんな、いいですよ」

 青年は両の掌を見せる。

「いえ、そういうわけには」

「気にしないで下さい」

 青年は笑う。しかし、気にしないなんて無理だ。食い下がろうとすると、青年が続けた。

「実は僕も昔同じようなことをやっちゃいまして。近くにいた親切な方がお金を渡してくれたんです。その方に『お金は返さなくていいから、代わりに困っている人を見かけたら、助けてあげて下さい』って言われたんですよ」

 なんだ、その心温まるエピソードは。

「だから貴方も今度困っている人がいたら、助けてあげて下さい」

 仏か。若いのに、なんと人のできた青年であろうか。

 それに引き替え、自分のこの体たらくぶりはなんだろう。肝心な時に財布を落として、その上、親切にしてくれる人の態度を勝手に邪悪な方向へ解釈するとは……、我ながら本当に情けない。

「本当にありがとうございます」

 再び深く一礼する。青年は爽やかな笑顔で改札を抜けて去って行った。

 好青年過ぎる。なんという慈愛に満ちた精神。彼みたいな人物がいるなら、日本の未来は明るいな、と思った。無人の駅で一人、千円札を握りしめてそんな感慨に耽る。

「ねえ、君!」

「わっ!」

 また背中からいきなり声をかけられ、驚いて振り返る。そこにいたのは、さっき通路ですれ違ったジャージの少女だった。

 一体いつの間に。というか、何故ここにいる? 引き返して来たのか?

 彼女は大きな目でこちらを見て言う。

「多分、今の奴にワームうつされたよ」

「は?」

 予想の遥か斜め上を行く発言に、素っ頓狂な声を上げてしまった。この娘は何を言っているのだろうか。あんな清らかな心の持ち主がそんなことをするはずがない。

 ジャージの少女がポケットから手を出す。

「私は君とおんなじ。ワームは知ってる?」

 彼女の手には、黄金色の狐が描かれたカードがあった。能力者だと理解する。

 どうやら自分の発した感嘆詞は、相手の正体を(いぶか)しんでか、言葉の意味を理解できなかったものと思われたようだ。

 無言で頷くと、彼女はカードをしまって続ける。

「さっさとカード確認した方がいいよ? 早く駆除しないと厄介なワームもいるし」

 少女は両手を上げて後頭部に当てた。

「それには私も同意します」

 いきなりカードから水鏡の声がした。

 え、この状態で喋るの? 相手に存在を知られてもいいのか?

「ほら、君のバディも言ってるよ」

 けろりとした表情で少女は言い放った。

 警戒しているのがばれないように、なるたけ自然に後ろへ下がりつつ、胸ポケットのカードに囁きかける。

「目の前でカードを出していいのか? 敵だったらどうする」

「仮にそうであれば、背後をとられた段階でマスターは死んでいます」

 確かにそんな気もするが、そう簡単には割り切って考えられない。なんせ命がかかっているのだ。疑心暗鬼にもなるだろう。

 そんな抵抗感を覚えつつも、水鏡の言葉に従って上着の中で自分のカードを確認する。水鏡の下に「Bugbear 21」という文字が追加されていた。

「ふーん、バグベアか」

「わっ!」

 少女がまたまた知らぬ間に背後にいて、背中越しに上着の中を覗き込んでいた。

「良かったね。普通に増えるだけの奴だよ」

 彼女は身を引いて、また両手を頭の後ろに回した。

 改めて少女の姿を観察する。肌は焼けて小麦色をしており、片側だけアップにした髪は染めているのか、金色だ。金髪色黒という風貌にもかかわらず、ギャルっぽさが感じられないのは化粧っ気がないからだろう。緑に白のラインが入ったジャージを上下に着て、足には軽そうなスニーカーを履いている。ジャージ下の裾は捲られ、日に焼けた足首が露出していた。顔には大きな目と開放的な笑顔が確認できる。

 悪い人ではなさそうだ。つい先程そう思った人物にワームをうつされたばかりだが。

「君、もう一枚カード持ってる? ないならそのワーム、私が引き取ってあげよっか?」

「いや、他にもあるから大丈夫」

 少女の提案は普通なら有り難いものだったが、むしろワームの入手が目的なので辞退させてもらう。彼女に見えないように、上着の中で数字のカードへワームを移動した。

「なんだかワケありみたいだねー。これから家に帰るわけでもなさそうだし」

「え、どうしてそれを……?」

「いや、なんとなく」

 鎌をかけられたようだ。

「何? 家出?」

「ええ、まあ、そんなところ、かな……?」

 本当のことを言うわけにもいかないので、曖昧に返す。彼女が味方とは限らない。

「じゃあ大変だねー。お金ないんでしょ?」

 さっきのやり取りを見られていたらしい。

「うん、まあ……。ところで、どうしてさっきの男がワームをうつしたと――」

 少女への質問は、途中で鈍い音に遮られた。音源は自分だ。

 お腹が鳴ってしまった。

「ははは、お腹空いてるの?」

 少女が屈託のない笑みを見せる。羞恥で体が上気する。

「じゃあ、お姉さんがご飯を奢ってあげよう」

「いや、でも」

「いいから、いいから。行こ! 質問はそれから」

 少女に手を取られて改札を抜ける。なかなか強引な人だ。

 ご飯を奢ってもらえるのは、正直な所ありがたい。空腹感はどんどん強まっていたし、なにより喉の渇きが耐え難かった。

 だが果たしてこのままついて行っていいものだろうか? 被害はなかったものの、今しがた騙されたばかりなので、どうしても勘ぐってしまう。

 胸ポケットのカードから声はない。水鏡が何も言わないのなら、大丈夫なのだろうが……。

 そんな葛藤を抱きつつも、ジャージの少女にされるがまま電車へと乗り込んだのだった。




「どうしたの?」

 ジャージ姿の少女が、不思議そうな顔で小首を傾げた。

 非常に急な展開で申し訳ないのだが、今自分は彼女とホテルの一室にいる。

 事のあらましを説明すると、まず栄港から彼女に手を引かれて辿り着いたのは、トンカツ店だった。そこで美味しい晩御飯を御馳走になった後、これからどうするつもりなのかと尋ねられた。返答に詰まると、彼女は「じゃ、泊めてあげよっか?」と軽い調子で提案した。倫理的な観点からそれは憚られたので、礼を述べて丁重にお断りしたのだが、彼女は「遠慮しない!」と言って食い下がった。満腹感と疲労からくる眠気によって支配された脳は、彼女の押しの強さに抗う術を持たず、あれよあれよという間に泊めてもらうことになってしまったのだ。

 ところが、彼女に案内された先に待っていたのは、家ではなくホテルであった。なんでも、現在ホテル住まいなのだという。多角的な面から見ても、これは流石にまずいと判断したため、辞退しようと試みたが、彼女の四の五の言わせぬアグレッシブさに阻まれ敢えなく失敗。

 そんなこんなで、彼女の部屋に突っ立っているわけである。どうも自分は押しに弱いな、と反省する。

「座ったら?」

 ベッドに腰掛けた少女が明るく言った。

 ここまでの会話から得た情報によると、彼女の名前は朱茉莉(しゅまり)といい、自分と同い年だった。高校には行っていないらしい。理由は訊かなかった。何の仕事をしているのか尋ねると、彼女は眉間に皺をよせて長考した末、「うーん、なんだろ。なんでも屋さんかな?」とよく分からない返答をした。

 ホテルの部屋は、存外広かった。八畳くらいはありそうだ。二人でも全く手狭には感じない。

 大きな窓が南側の壁についている。分厚いカーテンが掛かっていて確認できないが、外には十四階から見下ろす夜景が拡がっているのだろう。

 二人掛けのソファが置いてあったので、今夜はこれで眠ればいいか、と鈍った頭で考えた。

 通学鞄を部屋の隅に置き、ソファに腰を下ろして一息つく。体が重い。このままソファに飲み込まれてしまいそうだ。

 自分から一メートル弱の位置で、朱茉莉は両手を上げて背を伸ばしている。

 電車に乗る前にしかけた質問を思い出したので、訊いてみる。

「そういえば、どうしてワームのことが分かったの?」

「ああ、あいつはワームのホストでちょっと有名な奴でさ。ま、有名ってのは、大したことないってことなんだけど」

 顔が知れ渡るとワームは自ら流しにくくなる。長けた人間ならば、自身が特定されないようにする、ということなのだろう。

「ふーん。ところで、このバグベアってワームは、どんなの?」

「ん? じゃあ、呼んでみなよ」

 朱茉莉に促されて、バグベアを呼ぶことにする。彼女から死角となる位置で数字のカードを裏返すと、バグベアが二体に増えていた。数字のカードには、「脚 25」「Bugbear 21」「Bugbear 18」が保存されている。バグベアのコストは一定値でないらしい。

 バグベアの一体を、プラチナクラウンが描かれた自分のカードへ移動してタップする。

 茶色の光が小さく光ったかと思うと、膝の上に大きな毛むくじゃらの物体が乗った。サイズは八十センチくらいで、縫いぐるみに見えた。

 手に取って観察すると、まんま熊の縫いぐるみだった。ずんぐりむっくりな体型で、中に綿がぎっしりと詰まっているのか、なかなか重い。二、三キロはありそうだ。よく幽霊が付けている白装束と白い三角の頭巾を身に着け、顔は白目を剥いている。さらに時々、小刻みに体を痙攣させる。怖いわ。とても可愛いとは思えない。これがキモカワイイというやつなのだろうか。自分には理解できそうにない。

「可愛くないよねー。ま、可愛くても困るけどさ」

 朱茉莉が頬杖をついて苦笑いする。

 バグベアが戦闘で役に立たない事と、コミュニケーションが取れない事は分かった。充分な情報を得られたので、カードに戻した後、数字のカードへ移動した。

 あと、もう一つ気になることがある。

 朱茉莉の親切さである。自分は見ず知らずで出会ったばかりの人間に過ぎない。そんな相手に対して、彼女はいくらなんでも施し過ぎである。その理由が気にかかった。

「お世話になっておいて言うのも変だけど、どうしてここまで親切にしてくれるの?」

「ん? そうだね、えーっと……」

 朱茉莉は目を閉じて顎に人差し指を当てる。数秒そうして、ぱっと目を開いたかと思うと、こちらに身を乗り出してきた。彼女の顔が目と鼻の先まで接近する。

「私、面食いだから」

「は?」

 朱茉莉はにっと笑って、体を後ろへ戻す。からかわれた……、のか?

「ほら、歳も同じだし。あ、あと君って、バグ初心者でしょ?」

 やはり分かるのか。

「なんて言うか、危なっかしいし、見ててほっとけない感じ?」

 ああ、そうですか……。

 こちらの反応が薄いのを察してか、朱茉莉が提案する。

「とりあえず、お風呂入ったら? なんだかもう眠そうだし」

 確かに眠い。頭が重くて思考が鈍化しているのが分かった。

 熱い湯船に浸かりたい。この部屋はユニットバスではないらしいので良かった。

「服はジャージ貸したげる。サイズは……、多分大丈夫でしょ」

「ありがとう」

 ぼーっとした頭で礼を述べる。

 朱茉莉が浴室に繋がるドアの中へと消える。浴槽にお湯を張りに行ってくれたらしい。

 そういえば、彼女と会ってから水鏡と全然喋ってない。一応このまま泊まっても問題ないのか、意見を仰いでおこう。カードへ声をかけると、「はい」と返事があった。

「この部屋に泊めてもらっても、大丈夫かな?」

「こちらは一人用の宿泊費で確保された部屋と考えられますので、マスターが宿泊することは宿泊約款に反すると思われます」

 そういうことじゃなくて。いや、それも大事なことだけど、ね。

 言い直して、危険はないのかを訊いた。

「これまでの情報から、彼女は敵対関係にないと判断します。マスターの所持金は多くありません。また、疲労も溜まっていると思われます。生存確率を上げるためには、然るべき環境で休息を取る必要があるでしょう。無償でその環境が得られるこの状況は活用すべきです」

「うーん……、でも、やっぱり非常識だよな……」

 冷静になって思い起こすと、己の良識の無さを再認識して反省する。とはいえ、今から他を当たる程の気力はない。

「何か問題がありますか? 緊急時には、彼女を囮にして逃亡しましょう」

「あんたは、外道か!」

 囮て。こいつ、酷いな! ちょっと眠気が飛んだし。こんなに懇意にしてくれた人に対して、どれだけ恩を仇で返す気だ。

「何か言った?」

 朱茉莉が部屋に戻って来た。慌てて「何でもない」と返す。

 湯船にお湯が溜まったらしいので、ソファから部屋の出入り口付近に移動する。制服の上着を脱いで、ハンガーにかけた。所々にほつれや破れた箇所がある。買い直さないといけないな、と思った。ネクタイも外し、一緒にハンガーへ吊す。

 ソファの方を見ると、朱茉莉がふんぞり返ってカバーのかかった文庫本を開いていた。ニヤニヤとやや気味の悪い笑みを浮かべている。一体何を読んでいるのだろうか。

 彼女はいつの間にかジャージの上を脱ぎ捨て、タンクトップ姿になっていた。丈が短く、おへそが出ている。彼女の焼けてない白い肌を初めて見た。

 日焼け跡からして水泳でもしているのだろうか、とぼんやり考えていると、朱茉莉がこちらの目線に感付いた。咄嗟に顔を逸らそうとしたが、睡魔で動きが鈍ってできなかった。

 視線が合ってどきっとする。観察していたことに勘付かれただろう。気まずい。

「ん、何?」

「いや、なんでも」

 なんとか誤魔化そうとする。

「怪しいなー」

 朱茉莉が目を細めて身を乗り出す。タンクトップの隙間から白い胸の谷間が覗けた。ジャージのせいで今まで分からなかったが、彼女の胸の膨らみが意外と大きいことに気付く。

 慌てて目を逸らすが、それで逆に察知されてしまう。彼女は悪戯っぽく笑って首を傾げた。

「あ、なに、一緒に入る?」

「はあ!? 無理無理無理!」

 手を前に突き出して、思いっきり首を横に振る。顔が紅潮するのを感じる。完全に目が冴えてしまった。

「ははは、そんな慌てなくても」

 朱茉莉が白い歯を見せて笑う。冗談か。なんだか弄ばれている気がする。

 彼女から茶色のジャージを受け取って、浴室に続くドアを開ける。小さな脱衣所があって、奥に浴室が見えた。脱衣所には鏡と洗面台が置かれている。

 服を脱ぐと、体に幾つか内出血の跡があった。脚には何か所も擦り傷がある。小さく溜息をついた後、念のため二枚のカードを持って浴室に入る。

 白い小奇麗なバスルームだった。角部屋だからか、小さな窓がついている。

「いたた」

 頭から熱いシャワーを浴びると、体のあちこちが痛んだ。内出血痕と傷に湯が沁みる。湯船に浸かるのが、少し憂鬱になった。

 目が覚めても、脳は相変わらず重い。疲労で何も思案する気にならない。明日の事を考えなければならないのだが、肉体がそれを拒否している。いや、拒んでいるのはむしろ精神の方か。

 ゆっくりと湯船に浸かる。やはり沁みる。が、我慢して全身をお湯に浸けた。

 浴槽の傍らに置いたカードへ手を伸ばし、中の水鏡へ他愛のない話を振ってみる。

「バディって、お風呂入ったりしなくても平気なの?」

「はい。カード内で一定時間が経過すれば、肉体と衣服は自動的に既定の条件で更新されます。これによって、清潔性の保持と損傷の修復が行われます」

「ふーん。じゃあ食事は?」

「必要ありません。私は味覚神経がありますが、実際に食事をしたことはありません」

「勿体ないなー。さっき食べたトンカツとか凄い美味しかったのに。食事もゲームもしないなんて、明らかに人生損してるよ。今度なんか食べさせてあげようか」

「そんなことより、逃亡へ資金を割くべきです」

 あっさり断られた。可愛げのない奴め。

「ですが」

 水鏡が一呼吸空けてから続けた。

「やはりマスターは異常ですね」

「異常って……。どこが?」

「元マスターは、私をあくまでバディとして扱っていました。食事の誘いなどは勿論、日常会話もしたことがありません。叱責や罵倒を受けたこともなければ、謝罪されたこともありません。ですが、マスターとバディの関係としては、その方がむしろ一般的かと」

 そうなのか。しかし、なんだか胸の辺りにもやもやしたものを感じる。

「これに反して、マスターは人間と対するかのように私と接されますね。何故ですか?」

 しばらく考える。

「……分からないな。でもそういうの、なんか違う気がする」

 なんだか気に入らない。しっくり来ない。しかしその感覚は、上手く言葉にできなかった。

 そういえば、父はどうだったのだろう。どんな風にバディと付き合っていたのだろうか。

 湯船の水面を見つめる。映り込んだ灯りがゆらゆらと揺れている。頭がぼんやりとしてきた。

「水鏡、父さんのバディは……、どんなだった?」

「詳しくは存じません。ただ昨日の戦闘中、バグ適性を一時的に変化させるアプリケーションを有しているのではないか、と元マスターが推察していました」

 うーん、そういう意味の質問ではなかったのだが。

 浴槽から出る。熱い。のぼせてしまいそうだ。カードをバスタブのへりに置き、シャワーを浴びる。

「そうじゃなくてさ、例えばどんな感じの関係だったとか、外見はどうだったとか……」

 何の返事もない。カードへ目をやる。反応が返ってくる様子はない。

 少しむっとする。なぜ無視するのか。

 が、数秒遅れて気付く。カードが手元から離れているので、何も聞こえないのか。忘れていた。手を伸ばしてもう一度訊こうかとも思ったが、止めた。

 体を洗うため、壁かけの鏡に対面してプラスティックの腰かけに座る。ボディソープを手に取り、泡立たせて体に擦り付ける。なんだか背中に冷たい風を感じた。後ろを振り返る。

「ハロー」

 朱茉莉が片手を上げて立っていた。

「ぶっ!」

 あまりの衝撃に言葉にならない声が漏れる。

 彼女は裸だった。ハンドタオルを前に垂らしているものの、完全には隠れていない。布の脇から腰のくびれ、白い胸の膨らみがこぼれていた。即座に顔を正面に戻す。

「なっ、なんで」

「背中でも流してあげようと思ってさ」

「結構です!」

 目を瞑って叫ぶ。体が縮こまる。片目を開けると、湯気で曇った鏡越しに、朱茉莉が近付いて来るのが見えた。

「まー、そう遠慮しなさんなって。お姉さんに任せなさい」

 ボディソープのつけられたタオルが背中に当てられる。おそらくさっきまで彼女の体に密着していたタオルだ。頭に血が昇る。

「力入れ過ぎ」

「か、体洗うのに、力は関係ありません! っていうか、ホントいいですから!」

「なんで敬語になってんの?」

 彼女が面白そうにつっこんだ。

 背中のタオルが上下に動く。この歳になって、他人に体を洗われることなど勿論ない。体験したことのない感触だ。

 忽然、背骨の辺りをくすぐったい感覚に襲われる。

「ひっ」

 反射的に悲鳴が出た。

「ほら、力を抜いて」

 朱茉莉が指で背中を撫でたのだと理解した。動悸が激しくなり、体温が上がる。脳内でアラートが鳴り響いた。コンディションレッドだ。

「なかなか、いい体してますなー」

 朱茉莉の手が体を這う。頭が真っ白になる。

「へっ、変な所、触らないで下さい!」

「変な所って?」

 彼女がからかうように聞き返した。今度は両手で撫で回される。

 だだだ、誰か、助けて。

 背中に柔らかく温かなものが密着する。

「前も洗ってあげる」

 朱茉莉が耳元で囁いた。自分がドロドロと融解していく気がした。

 も、もうダメ……。緊急退避だ!

「し、失礼します!」

 瞬間的に浴槽脇のカードを回収し、浴室から脱兎の如き早さで駆け出た。服を鷲掴みにして急いで脱衣所を通過し、ドアを閉める。

 ひんやりとした空気が火照った体を冷やした。どうやら朱茉莉は追って来ないようだ。

 た、助かった――。

 危うく何か未知の領域へと誘われるところであった。

 胸を撫で下ろすと、今度は強烈な眠気が襲ってきた。体に残った水を拭き、なんとかジャージを着ると、ばたりとベッドに倒れこむ。

 体が重い。もう動けない。そのまま泥のように眠りについた。




 眩しくて目が覚めた。顔にレースカーテン越しの陽光が当たっている。

 ここは何処だっけ? と一瞬考えて、ホテルだと思い出す。気怠いながらも起き上がると、上腕二頭筋が鈍く痛んだ。筋肉痛のようだ。

「あ、おはよー」

 椅子に腰かけた朱茉莉が挨拶してきた。手にはまたカバーのかかった文庫本を持っている。

「おはよう……」

 眠い目を擦って挨拶を返す。寝起きはいい方ではない。

 朱茉莉が文庫本を机に置く。彼女はスポーティなデザインのパーカーに、ハーフパンツという出で立ちだった。

「もう十時過ぎてるよ」

 そんなに寝ていたのか。しかしまだ眠い。

「爆睡だったねー。何しても全然起きないんだもん」

「そう?」

 少し気恥ずかしい感じがして、頭を掻いた。

「うん。一向に目覚める気配がないから、お姉さん色々いいコトしちゃったよ」

 朱茉莉が目を細めて、含みのある笑みを浮かべた。昨夜の風呂場での出来事が思い出されて、冷や汗が出る。

「やだなあ、冗談だって」

 彼女が大きく笑った。ほっと胸を撫で下ろす。

「それより準備した方がいいよ。ここ、十一時でチェックアウトだから」

 部屋と浴室の間にある洗面所へ移動する。ドアを閉めて、ジャージのポケットに手を入れる。ちゃんと二枚のカードがあった。プラチナクラウンのカードには「水鏡 30」が、数字のカードには「脚 25」「Bugbear 21」「Bugbear 18」「Bugbear 20」が保存されている。つまり数字のカードの所有者は、最大の十六パーセントしかバグを使用できないことになる。しかし、昨夜確認した時からバグベアが一体しか増殖していないことに、釈然としないものを感じる。

 自分のカードに忍び声で話しかけると、返事があった。

「マスター、おはようございます。体調はいかがですか?」

 少し驚く。挨拶とかするのか。

「お、おはよう……。ちょっと筋肉痛がするくらい、かな」

「そうですか。では敵に襲われても、支障はありませんね」

 敵に襲われている段階で支障があるわ、と心の中でつっこむ。

 話題を切り替えて、バグベアが想像外に増えていない理由を尋ねる。

「それは新たに増殖したバグベアの保存に必要な容量が、カードに残っていないためです。バグベアはおよそ六十分周期で増殖します。そのコストは、平均値が二十、標準偏差が二のガウス分布に従って変化します。この際、増殖したバグベアのコストが十六以下になる確率は約二.三パーセントです。現在カードには三体のバグベアがおり、それぞれが増殖するため、カードに新たなバグベアが保存される確率は一時間当たり約六.七パーセントになります」

 新たに増えたバグベアは、コストが大体ランダムで決まるらしい。そして、そのコストよりもカードのバグ残量が少ない場合、バグベアは消滅してしまうということのようだ。

 水鏡の算出した確率を信じると、十五時間に一回くらいの割合で新たなバグベアが保存されるようだ。あと数時間すれば、高確率でカードにバグベアが増える。そうなれば、水鏡の元マスターの最大MPは数パーセントしか残らないはずだ。残る問題は、元マスターの他にどれだけ敵がいるか、だろう。

 歯磨きと洗顔を済ませて部屋に戻ると、朱茉莉の姿がなかった。御手洗いだろうか。机の上に帽子が置いてある。運動時に着用するキャップと呼ばれるタイプのものだ。

 昨晩、港では襲撃者を逃した。自分の顔は敵に割れているかもしれない。

 キャップを手に取り、目深に被ってみる。部屋の壁にかかった鏡を見ると、しっかりと顔が隠れているのを確認できた。変装とまではいかないが、一目では分からないだろう。

 水音がして背後のドアが開く。御手洗いから朱茉莉が出てきた。

「お、似合うじゃん」

「あ、ごめん」

 キャップを脱ごうとする手を、朱茉莉が遮った。

「いいよ、それあげる。それにしてもその格好、なんか逃亡犯みたいだねー」

 あながち間違いではない。

「ごめん、ジャージまで貰っちゃって」

「そんくらい気にしない。でも、足元が変な感じだね」

 鏡にはジャージの上下とキャップに、ローファーを履いた奇妙なスタイルの人物が映っている。外を歩く際は、これに通学鞄が加わることになる。なんてアンバランスな服装だろうか。だが、贅沢は言っていられない。

 ハンガーにかかった上着とネクタイを鞄に入れる。残る荷物はシャツだけだ。「はて、何処にやったんだっけ?」と考える。おそらく昨日の夜、風呂場から飛び出した時に回収し損ねたのだろう。そう思ってちょうど脱衣所のドアノブに手をかけた時、外から部屋がノックされた。

 朱茉莉が「はいはーい」と言いながら、応対に向かう。まだ十一時は回っていない。せっかちな清掃員だろうか。そんな考えを巡らせながら、ドアの先へと入った。

 シャツは案の定、脱衣所に置き忘れていた。ドアの向こうからは、朱茉莉と男性の話す声が聞こえる。部屋に戻るのが憚られた。外の男性がホテルのスタッフなら、今自分が出ていくのはまずいだろう。仕方がないので、シャツをたたみながら男性が去るのを待つ。

 が、その思惑とは裏腹に、二人の声は近くなる。どうやら朱茉莉と男性が、部屋に入ってきたようだ。一体どういう状況だろう。

 部屋と脱衣所の扉は閉じてはいるものの、完全には閉まっていない。ドアの向こうは見えないが、何を喋っているかは聞き取れる。耳を澄ませて会話を盗み聞きする。

「……で、ターゲットはガキらしい」

 男がだるそうに言った。

「あれ? おじさんじゃなかったっけ?」

 朱茉莉の明るい声がした。

「昨日その男の死体が出た。だが、カードは持ってなかった。どうやら自分の子供にアンヘルとカードを渡したみたいだな」

 あまりの驚愕に喉から声が漏れ出しそうになる。全身が硬直し、さっと血の気が引いた。

 なんてことだ。朱茉莉が敵だったなんて。しかもドアの先にはもう一人いる。やばい――!!

 焦る自分をよそに、ドアの向こうの会話は続く。

「で、その子供って何歳くらい?」

「高二だから……、十六、七ってとこだな。つーか、送ったメールは見ろよ。何のために携帯持ってんだ」

「あー、これか。なになに……、御多高の二年生、石ノ森市在住。父親と二人暮らしで……」

 どうする? どうしたらいい?

 朱茉莉にまだ自分の事はばれていない。ならば、このまま何食わぬ顔で出ていけば大丈夫か?

 いや、彼女はターゲットの情報を知らなかった。だが今は、そいつが御多高の生徒だと知っている。自分の制服姿は既に彼女に見られている。

 しかも部屋の通学鞄は開けっ放しだ。中の制服とネクタイが丸見えになっている。男がそれに気付けば、間違いなく疑われるだろう。

 部屋に戻るのは、危険過ぎる……!

「そういや、例のワーム男を捕まえた」

「ああ、私も昨日見かけたよ」

「たまたま蒐集家(コレクター)が賞金かけてたんで拘束したんだが、そのガキを栄港で見たって言ってたな」

「ふーん、じゃあ……」

 朱茉莉の言葉が途中で止まる。

 なんだ……?

「煙草」

 耳を疑う。恐ろしく威圧的で冷たい声。だが朱茉莉から発せられたものだと分かった。

「あ?」

「止めてくれる? ここ禁煙」

 それは彼女が初めて発する声色だった。いつもの楽しげな話し声とはまるで違う。非常に攻撃的で害意に満ちていた。

 空気がぴんっと張り詰める。言い知れぬ緊張感が漂った。

 男が舌打ちする。煙草をしまったようだ。少し胸の鼓動が収まる。だが、事態は何も好転していない。

 一体どうすれば……、どうすれば生き延びられる?

「マスター、浴室から逃げましょう」

 カードの水鏡が、ぎりぎり聞き取れる声でもちかけた。

 そうか、浴室の窓から――! って、ここ十四階だよ! 死ぬわ!

 ……いや、違う。死なない。昨日のことを忘れたのか。ファイアーウォールだ。空中にファイアーウォールを展開して足場にすれば、地上まで降りられる。逃げられる!

 問題は風呂場の窓だ。転落防止のため、完全には開かないはずだ。出られるだろうか? 最悪壊せばいいが、破壊音は聞かれてしまうだろう。

「ところで」

 男が会話を再開する。

 鞄は諦めよう。一刻も早く浴室へ――。

 その刹那、全身を風が吹き抜けた。風下を向く。男がドアを開いていた。年齢は三十代で、頭にニット帽を被り、シャツの上に黒のジャケットを羽織っている。

「こいつは誰だ?」

 男が鋭い眼光でこちらを睨んだ。咄嗟に身を翻して、浴室へ走る。

 いや、走ろうとした。

 が、背後に引っ張られる。抗う間もなく体が回転して、脱衣所の壁に正面から叩き付けられた。後ろ手にされ、とてつもない力で壁に押さえつけられる。

 煙草の匂いがした。背後にいるのは、ニット帽の男だ。

「なんで逃げようとした?」

 男の束縛からは全く抜けられない。抵抗したことで、手首を捻られる。腕に激痛が走った。

「あのネクタイはお前のか? あれは御多高のだな?」

 ニット帽の男は淡々と質問を続ける。

 どうしたらいい?  カードはポケットの中だ。取り出さなければ、水鏡は呼び出せない。だが両腕はニット帽の男に掴まれ、動かすこともできない。

 ……駄目だ。何の考えも浮かばない。頭を絶望が塗り潰した。

芥川(あくたがわ)! ちょっと、放して」

 朱茉莉がすぐ隣まで来ていた。普段の彼女の調子だった。

「ターゲットは、息子でしょ?」

 壁に押しつけられた顔から、彼女の持つ携帯電話が見えた。画面には、「件名:ターゲットは息子に変更」という文面が表示されていた。

 頭の帽子を朱茉莉に掴まれ、脱がされる。中に入れていた髪が解放されて、背中へ垂れた。

叶子(きょうこ)は女の子だよ?」

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