第二章①
「ヴェクサシオン、手に入れた?」
放課後、帰る支度をしていると、管に話しかけられた。
教室には窓から西日が差し込み、床も机もロッカーも橙色に光っている。室内に残っているクラスメイトはもうまばらだ。
「無理。あれは廃人仕様すぎる」
「ですよねー」
管が両目を瞑って相槌を打った。
「俺も無理。でもさあ、お前ならいけるっしょ! カナちゃん、頑張ってー」
「その呼び方は止めろ」
にやけ面の管を睨む。
ヴェクサシオンというのは、目下プレイ中のゲームに出てくるアイテムの名前だ。極低確率で発生するイベント中に、極低確率で出現する敵が、これまた極低確率で落とすという、その名の通り嫌がらせみたいなアイテムだ。具体的に言うと、二の二十四乗分の一の確率で手に入る。〇.〇〇〇〇〇〇〇六パーセントの確率だ。
アホか、としか言いようがない。ゲーム製作者というのは、何故こう意味もなくレアなアイテムを用意するのだろう。「どうだ、取れまい?」と、ユーザーを見下したいのだろうか。まったく、腹立たしい事この上ない。しかしそこにレアアイテムがある限り、素通りなどできるわけがないのだ。我々ゲーマーとは、そういう悲しい宿命を背負った生き物である。
己が存在の空しさに小さく溜息をついてから、管へ問う。
「大体、何を根拠に『いける』わけ?」
「だって、れっきとした廃人じゃん。なんたって、プラチナクラウン厨だし」
「誰がクラウン厨だ」
クラウンとは、ゲームで特定の条件をクリアした場合に与えられる称号で、簡単に言えばプレイヤースキルの高さや、やり込み具合を表したものだ。クラウンには複数の種類があり、獲得条件の難易度によって色が変わる。難度の低い順からブロンズ、シルバー、ゴールド、そしてプラチナといった具合だ。その中でもプラチナクラウンは、一つのゲームで得られるクラウンを全て獲得したプレイヤーにだけ与えられるという、極めて取得が困難な称号だ。
別段こだわりがあるわけでもないのだが、最近はこのプラチナクラウンを集めることが趣味のようになっている。現在プレイ中のゲームでこの称号を得るためには、先のヴェクサシオンを入手する必要があった。
ちなみにクラウン厨とは、クラウンだけが人間の存在価値であるかのように振る舞い、クラウン取得数を頻繁に誇示したり、自身より取得数の少ない相手を平然と馬鹿にしたりする人々の蔑称である。この慈愛と良識に満ち溢れたゲーマーを捉まえてクラウン厨呼ばわりとは……、全くもって心外である。
「俺はもうダメだ……、だから、お前に全てを託すぜ!」
「あー、はいはい」
管の仰々しい演技をいつも通り適当にあしらう。
管とは中学一年の時に知り合った。それから現在の高校二年に至るまで、迷惑なことに何故かずっと同じクラスとなっている。出会った時からこんな感じの馴れ馴れしい奴だ。しかしゲームの趣味は合ったので、今日までこいつとの交流は続いている。
管の特徴は、左目元の泣きボクロと明るい色の茶髪だ。非常にいい加減かつ適当な性格なのだが、見た目が割と爽やかなので女子にはモテそうな気がした。
「カンちゃん、部活」
不意に廊下から声が響いた。振り返れば、教室の入り口に沖田が立っている。
沖田は黒い短髪に黒縁の眼鏡をかけていて、管とは対照的に落ち着いた雰囲気の男である。頭が良くて進学クラスに在籍しており、その中でも成績は上位らしい。羨ましい限りだ。
それにしてもクールなイメージを持つ彼が、管のことを「カンちゃん」と呼ぶのには未だに違和感を覚える。聞くところによると二人は幼馴染みらしいので、小さい頃からの渾名なのだろうが。
ちなみに、管の苗字は「かん」ではなくて「すが」だ。しかし真面目な沖田が「カンちゃん」と呼ぶので、周りは皆「かん」が正しい読みだと思っている。クラスメイトでさえ、半数はそう誤認しているだろう。
「うーい。んじゃねー、カ・ナ・ちゃん」
管の挨拶にイラッとくる。その呼び名は「カンちゃん」とも被っているから、余計嫌だ。
「死ね」
片手を上げて笑顔で去って行く管の背中へ、思いっきり上履きを投げつける。白い弾頭は進行方向に回転しながら綺麗な放物線を描き、見事、腰の辺りへクリーンヒットした。
「ぐはっ」とわざとらしい呻き声をあげて走り去る管を見送り、上履きを拾ってから教室をあとにした。
ここ、私立御多勢川高校、通称「御多高」は市街地から長い坂道を上った高台にある。おかげで夏は登校するだけで汗だくだ。学校周辺には、民家もなければコンビニもない。ただ樹木の乱立する森が存在するだけである。
この立地条件に関して学校側は、「勉学に適した静かな環境を得るため」と説明しているが、間違いなく土地代が安かったからだろう。でもなければ、こんな辺境の地は選ぶまい。
その代わりと言ってはなんだが、御多高の敷地面積は市内の高校で最も広い。各学年の教室がある第一、第二校舎と、理科実験室などの特別教室が集合した第三校舎、そして教員室や図書室のある中央校舎を有している。広大な土地を活かしたグラウンドと体育館は、数ある運動部がいっぺんに練習しても全く問題ない面積である。他にも武道館、弓道場、テニスコートなどなど……。巨大な部室棟もあるため、部活動には持って来いの学校といえる。
また学業方面の話をすれば、御多高の偏差値はそれなりに高い。そのおかげか、不良のような生徒はほとんどおらず、学内の治安はよい。校則もかなり緩い部類に入る。
これらの理由から、通学の不便さを差し引いても魅力を感じる学生は沢山おり、近辺では人気の高校だ。遠隔地から電車で二時間近くかけて登校する生徒も少なくなかった。
下駄箱で通学用の革靴に履き替え、運動部の練習風景を横目に正門を抜ける。自宅までは歩いて約三十分だ。そのうちの半分は、市街地と高校を繋ぐ長い坂道に要する。
家では父と二人暮らしだが、父は大抵不在である。とはいえ、家に一人というのは気も楽なので、それほど気にしていない。むしろゲームをやるには格好の環境といえる。
坂を下りて五分ほど歩いた所で、潰れたホームセンターの跡へ差し掛かる。建物に面した道は幅が狭く、他にめぼしい店舗もないため人通りは非常に少ない。こんな場所では潰れるのも止む無しと言えるだろう。何処かの高校に聞かせてやりたい話だ。まあ、あっちは繁盛しているのだが。
ホームセンターだった建物は管理が杜撰なのか、シャッターに鍵が掛かっておらず、半開きになった箇所もある。その絶妙な朽ち具合から、得も言われぬダンジョンぽさが漂っている。最深部には宝箱が眠っているに違いない。
この季節、下校時はちょうど夕焼けとなり、真っ白な廃墟のキャンバスが鮮やかな朱色に染まる。その景色を見ながらぼうっと歩いていると、ふといつもと違う部分があることに気が付いた。少し開いたシャッターに幾つか黒い染みのようなものが見える。無視しても良かったが、なんとなく観察してみようと思って建物へと近付いた。
それは手形だった。誰かが手に液体を付着させた状態で、中に入ろうとシャッターを掴んだのだろう。単にそれだけなら、宝箱はもう開けられてしまったな、などと下らない妄想をしつつ家路に戻るところなのだが、その手形の色が赤黒かったので足が止まってしまった。
これは、もしかして血だろうか?
周りを見渡すと、駐車場にも点々と血痕らしきものが続いているのに気が付いた。
昨日まではなかったように思う。昨夜は雨が降っていたから、それ以降に付いたことになる。朝は急いでいたので見落としたのかもしれない。
酔っ払いや血気盛んな連中が、ここで喧嘩でもしたのだろうか。そう思って建物から離れようとした時、内部から人のいる気配がした。
どうすべきか、少し躊躇する。面倒な事に巻き込まれたくはなかった。しかしもしかすると、中の人は早急に助けが必要な状態かもしれない。確率はとても低いと思ったが、一応シャッターの隙間から様子を窺ってみることにした。
廃墟の中は薄暗く、ぼんやりと柱や棚の輪郭が確認できるだけだった。しばらくして目が暗闇に順応すると、一つの柱の根元で何かが動いているのを見つけた。それはゆっくりと振動しており、呼吸している人間を連想させる。他に動いている影はない。
シャッターの隙間から内部へ侵入する。建物内の空気はひんやりとしていて淀んでいた。周囲を警戒しつつ、ゆっくりと音を殺して動く影へ近付く。自然と通学鞄を持つ手に力が入る。
影の傍まで来ると、荒い息遣いが耳に入ってそれがしゃがみ込んだ男性だと分かった。少し迷ってから「大丈夫ですか?」と声をかけようとしたところ、不意に静寂が破られた。
「お前か」
突然話しかけられて驚いたが、意外にもその声はよく知る人物のものだった。
「……父さん?」
「ああ……」
廃屋の中にいたのは父だった。
すぐに駆け寄って隣に屈み込む。すると床についた右膝をぬるりと冷たい感覚が過ぎった。固体の感触ではない。目を凝らして、はっとする。
――血だ。
父の周りには巨大な血だまりができていた。それは熱を失って既に凝固し始めている。
父が頭を上げてこちらを向く。顔には幾つもの傷が付いていて、病的なまでに青白かった。
「見つけて、くれて……、助かった」
喋るのも辛そうだ。制服のポケットから携帯電話を取り出す。
「すぐに救急車を呼ぶ」
「いや、駄、目だ」
父が携帯電話を持った腕を痛いくらいに強く掴んで拒否した。その掌には、べったりと血液が付着している。
なぜ拒絶するのか、言葉の背景を読み取ろうとしたが、思考は停止して動かなかった。
「言われた、通りにしてくれ。質問は、なし……だ」
父の顔には、もはや生気が感じられなかった。だが、その瞳には真に迫るものがあった。父が弱々しく震える手で一枚のカードを差し出す。それは図書カード等と同じ大きさで、表にカラフルな正方形が幾つもプリントされていた。何のカードなのか、全く想像がつかない。
「割、れ」
その行動の意味は不明だったが、言われるがままにカードを受け取って真っ二つに割る。
するとその瞬間、体の中で何かが弾けた。眼の裏で眩い閃光が走る。心臓が破裂したのかと思うくらいの衝撃の後、全身に熱いものが駆け巡っていくのを感じた。その異物感に筋肉が硬直して呼吸が止まる。しかし、やがてそれは体に馴染んで感知できなくなった。
ふと我に返ると、割ったはずのカードが消えていた。その代わりに、手には新しい一枚のカードが握られている。先ほどの物とはデザインが違っていた。真紅の背景の上に、自分には馴染みの深いオブジェクトが描かれている。それはゲームプレイヤーに与えられる最高の称号、プラチナクラウンだった。
このカードは何だ? いつの間に手の中にあった? そう自問しながら裏返すと、そこには自分の名前が記されていた。
「なっ――」
「よし、次は……、これだ。割るな……よ」
驚きの連続で困惑するこちらを尻目に、父は新たなカードを差し出す。今度は数字が羅列されたデザインだった。数字は殆どがとてつもなく桁の大きい値だったが、中央付近には「6」と「28」という桁の小さなものが鎮座していた。この二つだけが他の数字より文字が大きく、色も濃い。
「裏の……、水鏡に、触れ」
数字のカードの裏には、人の名前の他に「水鏡 30」という文字が書かれていた。そのすぐ下には「脚 25」という文字もあった。
左手に二枚のカードを並べ、指示通り水鏡という文字に触れると、指先が微かに光った。
「そのまま、指を……自分のカードへ、フリック……」
スマートフォンと呼ばれる携帯電話の操作でいつもしているように、水鏡の上に置いた指をそのままプラチナクラウンのカードの方へ払う。すると、水鏡という文字が数字のカードからプラチナクラウンのカードへ移動した。
「水鏡を……、タップ」
指で軽く押す。また水鏡の文字が青白く発光した。しかし今度は、光がみるみる広がって目の前をやんわりと照らしだす。そして、その煌めきの中から人が現れた。
十六歳くらいの少女だった。
白銀のショートヘアは雪のように柔らかで、大きな目には金色の瞳を輝かせている。肌は透き通るように白いが、唇と頬は仄かな赤みを帯びており、少女が人形ではなく血の通った生き物であることを主張していた。ほっそりとした身体はフードの付いた純白のコートに包まれているが、その下には殆ど衣服らしい物を身に着けてない。まるで水着のようだ。ビキニブラで包まれた彼女のふくよかな胸によってコートの前は大きく開かれ、白いおなかと小さなへそが覗けている。ホットパンツから伸びる細い脚には、ニーソックスと黒地に青のラインが入ったブーツが履かれていた。
こちらを無言で見つめる少女の眼差しは何処か儚げで、触れればその存在自体が壊れてしまうのではないかとさえ感じられた。
明らかに自分の生きる世界とは、異質な存在。ゲームの中でしか登場しないような少女が、目の前にいた。
あっけに取られて呆けている自分を、父の咳が現実へ引き戻した。
「……詳しい事は、それ、に訊け」
父はもはやこちらを見ていない。ぐったりと頭を垂れて弱々しく肩を揺らしている。しゃがんで覗き込むと、その目は濁って虚ろになっていた。
「もう喋らない方がいい」
「いや、い……話さなければ、二度と、話せ、ない……」
すぐに否定しようとしたが、言葉が出なかった。確かにそうかもしれない。父の顔は色を失い、体は冷たく固まって無機物でできているかのようだった。
「お前を、巻込みたく……かった。長い……独り、して済ま……た」
声はだんだんと小さくなり、不連続な呼吸音と区別できなくなっていく。その言葉を汲み取ろうと、微かに動く唇をじっと見つめる。
「なにひ……父親、らしい事を、してやれ……た」
唇はほとんど動かなくなる。だが、ただそれを見守ることしかできない。
「生き……れ。た、の……」
父の言葉はそこで途切れた。いくら待っても続きは始まらない。息をする音も聞こえなかった。脈に指を当てる。反応はなかった。
喪失感に全身の筋肉が弛緩する。それでも父の唇を、ずっと凝視していた。
どのくらいそうしていたのか分からないが、不意に聞き覚えのない声が話しかけてきた。
「マスター」
光の中から現れた白い少女だった。その呼びかけを無視すると、再び声がかけられた。
「マスター」
「しばらく……、黙っていてくれませんか」
少女は抑揚のない声で反論する。
「承知しかねます。マスターの生命に関わりますので」
この人は何を言っているのだろうか。
今はとても話をする気分ではなかったが、内容が内容だけに質問せざるを得なかった。
「……どういう、意味ですか?」
「ここにいては危険です。早急な移動を提案します」
「危険? 何が?」
「敵が接近している可能性があります」
敵……? 無表情で答える彼女の言葉は新たな疑問を生み、また質問を繰り返さなければならなかった。それがますます苛立ちを加速させる。
「敵って、何です?」
「マスターの御父上と戦っていた能力者です」
戦うとか、能力者とか、まるで本当にゲームかなにかの世界観だ。ふざけているのか。
「一体、何を言っているんですか!?」
思わず語気が強まった。顔には敵意が剥き出しになっているだろう。
「私に対して敬語は不要です。質問には移動中に答えますので、まずはこの場からの離脱を優先すべきです」
一向に核心へと至らない問答により、私の苛立ちは臨界点を超えた。
「だから――、んんっ!」
怒鳴りつけようとしたら、突然少女の手が口を塞いできた。その掌は氷のように冷たい。
彼女は出入り口の方へと顔を向ける。
「何者かが接近しています」
耳を澄ますと、外からアスファルトを擦る音が聞こえた。確かに誰かいるようだ。
「隠れて下さい」
少女の掌で口を覆われたまま体を引き寄せられる。彼女に背後から羽交い絞めにされたような形となった。背中に柔らかな感触がある。
足元の通学鞄は少女の踵で蹴られ、背後にある商品陳列棚の付近まで滑っていった。彼女に体を押さえ込まれ、同じ棚の陰まで引きずられる。
凄まじい力だ。全く身動きが取れない。この華奢な体の何処にそんな力があるのだろうか。
棚の裏へ到達すると、ようやく拘束が解かれた。
「一体な――」
どういうつもりなのか、理由を問いただそうとしたが、またも少女に口を封じられた。
彼女はこちらを見つめ、表情を変えずにゆっくりと顔を近付けてくる。ガラス細工のような黄金の瞳の中で、自分の姿がだんだん大きくなっていくのが見えた。吸い込まれるような錯覚に陥る。近い。緊張で体が強張る。しかし、少女の顔はぶつかる寸前で右へと逸れた。
「喋らないで下さい」
彼女が耳元で小さく囁いた。吐息がそっと耳を撫でる。そのくすぐったい感覚に身震いすると、建物の出入り口からシャッターの鳴る音が聞こえた。外にいた人物が入ってきたらしい。
薄暗い廃墟の壁が丸い光に照らされる。懐中電灯の灯りだろう。
床と靴が擦れるような、独特の歩行音が響く。その音から察するに、侵入者は一人だ。
「ツチシト、来い」
掠れた低い声がして、相手が男だと分かった。
その声の後、ひゅんひゅんひゅん、という周期的な風切り音が鳴り始めた。その不気味なリズムと、擦るような足音がこちらへ近付いて来る。鼓動が早くなった。生唾を飲む。
少し経つと、足音はぴたりと止んだ。棚の陰から覗き込めば、男は父の遺体を離れた位置から懐中電灯で照らしているところだった。
身長は百七十センチくらいだろうか。蛍光色のパーカーを羽織り、デニムを非常に低い位置で穿いている。なかなかお目にかかれないレベルの腰パンだ。未だにあのファッションは理解に苦しむ。男はこちらに背を向けて立っているため、人相までは確認できない。
ただそれより問題なのは、男と父の間にいる人形のようなものだ。百二十センチくらいの大きさで、埴輪のようなフォルムをしている。驚くべきことに、それはフワフワと宙に浮いていた。繰り返される風切り音は、その埴輪から発せられているようであった。
「し、調べろ」
男が喋った。声が上ずっている。
埴輪が体をくねくねとうねらせながら、泳ぐように空中を進んで父へ這い寄る。その動きからは、生物特有の有機的な気持ち悪さがした。
埴輪がその手を父へと伸ばす。男はそれを凝視しつつ、ゆっくりとこちらへ後ずさってくる。
あの浮いているものは何だ? 父に何をしようとしている?
得体の知れぬモノが父の亡骸をまさぐる姿には、耐え難い不快感を覚えた。内臓がざわつく。
「父に触るな」
まさにそう言いかけた時、突風と共に真っ白な影が視界を裂いた。白い少女だ。
男がこちらを振り返える前に、彼女は素早く飛び掛かる。ぷしゅっと、ペットボトルを開けた時のような音が鳴り、直後に硬い物が床を打つ音が響いた。光の筋が暗闇を激しくのた打ち回る。落ちたのは懐中電灯だと理解する。
すると次の瞬間、埴輪のような生物が少女めがけて高速で突進してきた。
しかし、彼女の目の前で忽然と埴輪の動きは止まる。よく見ると、黒い小さな板のようなものが空中に浮いている。板は薄暗い廃墟の中でもひと際黒く、真なる闇を思わせた。埴輪はその板にぶつかって失速したらしい。
停止した埴輪の上へ、少女の強烈な踵落としが入る。埴輪の体が激しく床へと叩き付けられた。大きな鉄球を落としたような衝撃が建物を揺らす。
少女の左足が埴輪を勢いよく踏みつける。岩石が砕けるような破壊音と共に、埴輪の体がコンクリートの床を割いてめり込んだ。
少女が右手を振り上げる。その手には光るナイフが握られていた。ナイフの刃は異様なまでに滑らかで、鏡のように周りの風景を映しこんでいる。
彼女がナイフで足元の埴輪を滅多刺しにする。鋭い刃が突き立てられるたび、床に大きな亀裂が走り、埴輪は中へと押し込まれていく。
その間に、腰パンの男はふらふらと後退して少女から離れる。左手で首元を抑え、右手にはカードを持っている。彼はそのカードを握り潰したかと思うと、力が抜けたように後ろへ倒れ込んだ。少女に踏みつけられていた埴輪が、黄色い光となって消え失せる。
屋内に静けさが戻った。しかし、体は石のように動かない。視線はずっと少女の背中にトラップされている。
「マスター、排除が完了しました」
彼女がこちらを振り返った。その顔には相変わらず表情がない。右手にあったはずの短刀は知らぬ間に消えていた。
少女が感情を欠いた顔のまま、こちらへと近付いて来る。思わず身を引いた。
「私への警戒は無用です。バディにマスターを傷付けることはできません」
そう言って、彼女は出口の方を向く。
「早く移動しましょう。他にも敵がいるかもしれません」
少女が背を向けたのを確認して棚の裏から出る。恐る恐る二、三歩前へ進むと、目に飛び込んできた光景に息が止まった。
床に倒れた男の周りには、おびただしい量の血が流れていた。口は半開きになり、目は焦点を結んでいない。父と同じ目だ。
男は、明らかに死んでいた。
少女を見る。
「殺したのか!?」
「はい」
彼女はあっさりと答えた。
「そんな……、なんで!?」
「敵と判断したためです」
「はあ!?」
信じられない。こいつは正気なのか。
「マスターの安全を最優先とした結果、殺害することが最適と判断しました。それよりも早急に離脱するべきです」
その返答に絶句する。少女は外見の異質さ以上に、倫理や価値観において自分とは全く相容れない存在だった。
頭が重い。くらくらする。喉に痛みが走り、吐き気がした。立っているのも辛いが、なんとか気を落ち着けて携帯電話を取り出す。
「警察を呼ぶ」
「同意しかねます。根本的な解決になりません」
「殺人に根本的な解決なんてあるか……! 裁判を受けて、相応の罰を受けるしかない」
「私に法は適用されません。人間ではありませんので」
その言葉を聞いて、ようやく気が付いた。
「あんたは……、もしかしてさっきの埴輪みたいなのと同じ……?」
「はい。我々は能力者によって作成された生命体、バディです」
先ほど彼女は、脚で軽々とコンクリートを砕いていた。明らかに人間の筋力ではない。
しかし彼女が人外の存在だと知っても、特に狼狽えはしなかった。むしろ、やや冷静さを取り戻せたといえる。そんなものがいるのなら、この異常事態も不思議ではない。彼女の常軌を逸した思考回路も、少しだけ合点がいった。だが無論その行動には納得していない。
父は彼女の言うことを聞けと言っていた。なら、こちらに危害を加えることはないはずだ。
少女が屍となった男の隣にしゃがみこみ、パーカーから黒い塊を抜き取った。こちらへ差し出されたそれは、拳銃だった。
「え、何?」
「トカレフTT‐33です」
そういうことを訊いているのではない。
「これを、どうしろと?」
「携帯して下さい。敵との遭遇時にリスクが低減されます」
「相手を撃て、と? 無理だ。そんなことできない」
自分に人が撃てるとは思えなかった。それに撃ったとしても、まともに当たらないだろう。
「撃たずとも、威嚇手段として使用できます」
少女に右腕を引っ張られ、無理矢理拳銃を握らされた。想像より重くない。銃身の所々には小さな傷や凹みがあり、使い古されている印象を受けた。おそらく本物だ。少し手が震える。
血の海の上で果てた男を見る。
「その人は誰だ? どうして拳銃なんか持ってる?」
「これは、マスターが受け取ったカードの奪取を目論む敵です」
「このカードのことか?」
父に渡された数字のカードを見せると、彼女は頷いた。
「一体このカードは何なんだ?」
少女が口を開きかけた時、すぐ近くから異音が鳴り始めた。音は床に倒れた男の死体から発せられている。どうやら携帯電話のバイブレーション機能のようだ。
暗闇の中、虫の羽音のような低音だけが周期的に響く。男の死体を見つめていることしかできない。とにかく早く音が止むように念じた。
携帯電話は何度か呻き声をあげた後、ぴたりと止まった。とても長く感じたが、実際に鳴っていたのはほんの十秒程だろう。
しかし男の携帯電話が鳴ったことで、強い焦燥感が襲ってきた。今の着信は、男の仲間からではないのか。応答がなかったとなると、すぐにそいつらがここへ駆けつけるはずだ。相手は拳銃を持っている。いや、脅威はそれだけではない。敵にはバディと呼ばれる生き物もいる。
先程の凄惨な戦いが蘇った。コンクリートを砕く少女。首を斬られて絶命した男。
額に汗が流れる。
「即刻移動すべきです。質問にはその途中でお答えします」
少女の提案を飲む。通学鞄を拾い上げ、少し迷ったが拳銃をその中へしまった。
出口へ向かおうと振り返ると、視界の端に父の亡骸を捕えた。父をそのままにしてこの場を立ち去るのは気が引けた。だが、自分にはどうすることもできない。
せめて遺体に何かかけようと思い、制服の上着を脱いで被せようとする。しかし、白い少女がそれを阻んだ。
「その行動は推奨できません。死体が発見された際、マスターの身元が敵に伝わります」
「いや、でも」
「現在の状態ならば、死体が発見されてもカードの所在に関する情報はありません。しかし制服を残せば、敵はその持ち主がカードを所持していると考えるでしょう。さらに、その制服が子供であるマスターの学校のものだと分かれば、敵は戦力をマスターの捜索に集中するはずです。よって、その行為は著しく危険、かつ不合理であると判断します」
奥歯を噛む。何も言い返せなかった。
上着を着直し、ハンカチで手など、血の付いた箇所を拭う。
「マスター、外へ出る前に私をカードへ戻して下さい」
「戻す……? どうやって?」
「マスターのカードを私に接触させた状態で、カード裏面の私の名前をタップするか、命令して頂ければ戻ります」
どうやら水鏡というのが、彼女の名前らしい。
プラチナクラウンのカードを水鏡の額に当てて「戻れ」と命令すると、彼女は青白い光となってカードへ吸い込まれた。
「バディを呼び出す際も、同様にタップか命令して下さい。ただし、呼出しには充分なスペースが必要です。カードはポケット等から取り出すようにして下さい」
カードから水鏡の声がした。
「会話できるんだ」
「はい。マスターがご自身のカードを所持していれば、カードを通して会話が可能です。まずは駅へ向かいます。急ぎましょう」
無惨な姿の父と見知らぬ男の死体を残して、追い立てられるように外へと向かった。