第一章
ある廃工場の一室で、私は壁に背を付けてしゃがみこんでいる。呼吸は激しく乱れ、全身は疲労感に支配されていた。
眼前には砕けた硝子とコンクリートの欠片、そして数多くの死体が転がっている。首を折られた者、内臓を抉られた者、頭を砕かれた者……、どれも目を背けたくなるような死に様だった。
彼らはつい先程まで私と共に戦っていた仲間だった。我々はある共通の目的を持って、一人の男に戦いを挑んだ。
その男は圧倒的なまでの力を有し、己が前に立ちはだかる者を容赦なく殲滅した。
彼が何者なのかは分からない。名前、年齢、国籍……、一切が不明であった。その正体を探ろうとする者もまた、彼の手で次々と屠られたからである。それ故、何人も彼の目的を把握していなかった。そしてそれは、彼に敵と見なされる条件が分からないことを意味した。
男はもはや天変地異に等しかった。遭遇すれば、訳も分からぬまま全てを無茶苦茶にして去って行く。途方もない大災厄を前に人は逃げることも能わず、ただ祈るしかない。そして、たまたま運の良かった者だけが生き残る。
このような経緯から男は畏怖の対象となり、こう呼ばれていた。
覇王。
およそ現代社会に不釣り合いなその呼び名は、誰が付けたのか定かでない。だが、我々と同種の人間であれば、彼の存在を知らぬ者はいなかった。
覇王とは本来、武力をもって人々を統治する王を指す。とはいえ、男の目的も分からぬ我々には、この呼称が相応しいのかさえ判断できなかった。
私が息を切らしながら額の汗を拭っていると、急に建物全体が地響きのような唸り声をあげて揺らめいた。音のした方へ目をやれば、巨大な砂煙が開け放たれた扉を通ってこちらへにじり寄って来ていた。隣の広間では、今も仲間と覇王の戦闘が繰り広げられているのだろう。夜の闇と砂埃が作る濁った暗幕によって私の視界は制限され、戦場と思しき隣室の様子は窺い知れなかった。
我々の目的と私が前線を離れている理由は、私の右手にある一枚のカードにあった。
このカードは覇王の物だ。
覇王を含めた我々には、「バグ」と呼ばれる特殊な力があった。バグを扱える者は能力者と呼ばれ、通常では起こり得ないような現象を発生させることができた。例を挙げれば、空中浮遊や未来予知などだ。そして能力者は各々、バグの源となる自身専用のカードを持っていた。もし自身のカードが手元になければ、力の大半は使用できなくなってしまう。故に、我々がカードを奪ったことで、覇王の戦力は大きく減退した。
しかし同時に、私は自分のカードを失ってしまった。たとえカードが手元にあっても、他人の物では意味がない。私はもはや足手纏いにしかならなかった。私が覇王に狙われてカードを奪還されれば、仲間の犠牲は全て水泡に帰すこととなる。それを避けるため、私は独り戦線を離脱したのだった。
隣の部屋まで消耗しきった身体を引きずり、半ば崩れるように壁際へ腰を下ろすと、ずっと張り詰めていた精神を幾らか安らげることができた。だが、それはほんの束の間のことに過ぎず、私の頭の中は湧き上がる激しい焦燥と慙愧の念にたちまち覆い尽くされてしまった。四肢が引き攣ったように震えだし、脳内で幾度となく「急げ! 早く戻れ!」という怒号が飛び交った。
まさかこれ程までの衝迫に駆られようとは、全く予想だにしていなかった。ただ姿形が似ているだけのニセモノ。そう理解し、完全に割り切っていたつもりだったのだが……。
私は奥歯を強く噛み締めると、怯える幼子のように丸まって手足の震えを抑えつけた。そして右手のカードを握りしめながら、変わり果てた姿の仲間達を見た。ただじっと見つめていた。でなければ、今にも駆け出してしまいそうだったのだ。
しばらくそうして、ようやく荒れた息遣いが治まったかと思うと、突然けたたましい衝撃音が鳴り、再び廃墟が大きく身震いした。振動で天井の塗装が剥げ、はらはらと頭上へ零れ落ちてくる。
「玄一郎!」
掠れた声が私の名を叫んだ。振り返れば、ちょうど一人の男が隣室への通路から姿を現したところだった。
彼はゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「大丈夫か? カードは?」
「まだ無事だ」
私は覇王のカードを掲げて答えた。
「当たり前だ。人の苦労を無駄にするなよ」
男が左の口元を上げた。おそらく笑いたかったのだろうが、苦痛に耐えるようなその顔はとても笑顔に見えなかった。
彼は五十嵐といい、私の小学校時代からの知り合いだ。とはいえ、同校だったのは中学までで、再会したのはそこから三十年ほど経った最近のことだ。二、三年前までは海外にいたらしい。私は彼に誘われて、覇王との戦いに身を投じたのだった。
五十嵐はけして大柄ではないが、筋肉で引き締まった体をしている。普段は四十代半ばという年齢を感じさせないほどに身のこなしが軽く、活力に満ち溢れていた。しかし今の彼の足取りは、まるで死を目前にした老犬のように鈍い。右手で左脇腹を押さえ、その甲には赤黒い血が流れている。脂汗が滲んだ額と歪んだ表情から、負傷の深刻さが伺えた。
私は壁にもたれることで、なんとか重力に逆らい立ち上がった。
「何人残っている?」
「分からん。俺が確認できたのは、五人だけだ。俺とお前を合わせてな」
そう言って、五十嵐がぎこちなく歯茎を出した。彼の言葉が正しければ、仲間は既に二十人近くが殺されたことになる。
私は覇王のカードを示しながら尋ねる。
「破壊するか?」
能力者は自身のカード無しでは力の殆どを行使できない。だがそれは逆に言えば、カードが手元になくとも一部の能力なら使用可能ということだ。一般的にその効果は軽微なものであったが、覇王の場合、それだけでも我々にとって充分な脅威となり得た。しかしカードが破壊されれば、バグは一切使用不能となる。完全に力を失い、無防備な状態となるのだ。
五十嵐が少し考えてから首を振る。
「いや、それは危険だな。こっちもカードの残ってる奴が、ほとんどいない。かく言う俺もだが」
彼がまた口元を緩めた。今度は幾分、笑っているように見えた。
「しかも別動隊からの連絡が途絶えた。もうすぐ覇王の取り巻きが来るかもしれん」
覇王には、彼に付き従う何人かの部下がいた。無論、彼らも能力者である。我々は覇王と部下を分断して、それぞれに戦力を割いた。その部下達を足止めするチームから連絡が途絶えたらしい。
我々の仲間は壊滅的な被害を受けていると予想された。
もし部下達が加勢に駆けつければ、形勢は一気にあちらへ傾き、覇王は生き延びるだろう。この場合、カードの破壊はリスクが高い。何故なら、カードは破壊から二十四時間後に所有者の下で再生するためだ。つまり、ここで覇王のカードを破壊しても、彼が生きている限りカードは再びその手元に返り、振り出しへと戻ってしまう。
それだけは絶対に回避しなければならない。冷たいコンクリートに横たわる仲間達の亡骸を見て、私はそう思った。
「なら、どうする?」
私が質問した直後、通路の砂煙を引き裂いて何かが飛び出して来た。
それは私達のすぐ横の壁にぶつかり、低い衝突音をあげた後、床へと滑り落ちた。事切れた仲間の肉体であった。
その刹那、死体の飛んできた方向から凄まじい威圧感が発せられた。数十分前、初めて覇王と対峙した際の情景が蘇る。
その男は、二メートルはあろうかという巨体を強靭な筋肉で固め、身体からは肌で感じ取れるほどの高密度なバグを放出していた。東洋系と思われる顔には、鋼鉄の刃のように鋭利で冷たい瞳が光り、見下ろされた私はまともに動くことができなかった。破滅的な未来しか予測できない。まさしく蛇に睨まれた蛙の如き状態に陥った。
その恐怖が再現される。全身を強烈な寒気が襲い、膝がカタカタと笑い出す。にもかかわらず、体中の汗腺から汗が噴き出して滝のように流れ落ちていった。呼吸をすることさえ困難だ。通路の先にいるモノは、あらゆる苦痛を相手に与えんとする意志を持っているように感じられた。
覇王は、すぐそこまで迫っている――。
「玄一郎」
突然名前を呼ばれ、体の筋肉が痙攣を起こしたように強張った。だが、その五十嵐の声のおかげで、私は幾ばくかの冷静さを取り戻せた。
ゆっくりと横を向くと、先程までとはうって変わって、彼の顔からは笑いも苦痛も読み取れなかった。
「……行け。奴は俺が足止めする」
予想した通りの言葉だった。
「だが」
「お前の方が足は速い」
私の反論を五十嵐が遮った。
子供の頃、徒競走で彼に勝った記憶はない。だが彼の肉体の状況から察するに、私の方が速く走れるのは自明だろう。
そう思いながらも結論を出せずにいる私へ、彼は続けた。
「家族を取り戻すんだろ? その願いを叶えずに死ぬ気か?」
願い……、そう、私には叶えたい願いがある。私はそのために能力者となった。
能力者達の間でのみ知られる、どのような望みも一つだけ実現できる存在、――アンヘル。それは不老不死や死者の蘇生でさえも成し遂げられる、と言われている。
ただし、アンヘルで願いを叶えるためには二つの条件があった。一つ目は、その人間が能力者であること。二つ目は、世界中に散らばったアンヘルのパーツを四つ全て集めること。
条件自体は極めて簡素であるため、達成は容易いと感じるかもしれない。現に私も初めて知った時はそうであった。
しかしアンヘルの存在が知られてから、既に五十年以上の歳月が経過している。その間に何度もアンヘルを巡る壮絶な抗争が繰り広げられたそうだが、誰一人として二つの条件をクリアした者はいない。この事実が何よりも条件達成の困難さを示していた。
だがここにきて、遂にその壁を打ち破らんとする者が現れた。
覇王である。
私は頭を抱えた。アンヘルを求める他の能力者達も、それは同様であったろう。何故なら、アンヘルで願いを叶えられるのは、最初に条件を満たした一人だけだからだ。
そのため、我々は結束してこれを阻止することにした。
我々は皆、以前から仲間だったわけではない。覇王の条件達成を危惧して集結した能力者集団なのだ。その中には、もともと対立関係にあった者達もいた。
無論、皆、自身の願いを叶えたいから、という動機はあった。だがそれ以上に、「得体の知れぬ怪物が、望みを実現させてしまったらどうなるのか」という恐怖があった。その怖れが皆を繋ぎ合わせたのだった。
五十嵐ら数名を中核として、四十名を超える能力者が集まった。その中には、私では到底及びもつかないほど優れた能力者もいた。
しかし、それでも戦力は充分とは言えなかった。特に、何人かの実力者を味方につけられなかったのは大きかった。私も自身の知り合いの中で最高の能力者に声をかけたが、断られてしまった。だが、それは仕方のないことだった。覇王の強大さは皆知っていたし、全ての能力者がアンヘルを求めているわけでもないからだ。私の誘いを断った彼も、アンヘルには興味がないようだった。加えて彼は、私に戦闘を思い止まるよう強く諭した。私はその場では「分かった」と答えて彼と別れたが、考えを改めるつもりはなかった。
そうやって我々が仲間を集めている最中にも、覇王は条件達成へと着実に歩を進めていた。そして今宵、遂に全ての条件を満たしてしまった。
しかし、我々もそのタイミングは見越していた。そのため兼ねてより計画を練り、先刻、覇王が願いを叶える前に襲撃を仕掛けたのだった。
だが、彼の力は想像を遥かに超越していた。戦闘が始まると、仲間達は次々と葬り去られた。カードの奪取に成功したのは、計画よりも幸運に恵まれたからに過ぎない。とはいえ、我々がカードを奪ったことで覇王は望みを叶えられなくなった。何故なら、アンヘルの効果を発動するためには、その能力者自身のカードが必要となるからだ。
「叶えたい願いがあるのは、君も同じだ」
五十嵐の問いに対して、私は反射的にそう答えていた。
彼の判断が正しい。頭では理解していたが、体は動かなかった。
五十嵐は表情を変えずに言う。
「……お前がここで死んだら、お前の息子はどうなる?」
その言葉を聞いて、私は固まった。
私には息子が一人いる。
そして、妻と娘がいた。二人は既に他界している。
娘は五年前、ある事件に巻き込まれて命を落とした。まだ小学生だった。
妻と息子は、目の前でそれを見た。妻は多大なショックを受け、体調を崩して寝込んでしまった。息子も同様に辛かっただろうが、彼は私に自身の事より妻の看病をするように頼んだ。私はそれを受けて床に伏せった妻を必死に励まし介抱した。
その甲斐あってか、事故から一年後には妻の体調は回復した。
しかし、彼女の精神は少しずつ崩れ始めていた。
妻には、亡くなった娘のことしか見えていなかった。彼女は娘の死に関して頻繁に私を責めるようになり、家では口論が絶えなくなっていた。
丁度この頃、私はある友人からアンヘルの存在を聞いた。私はアンヘルを集めて娘を蘇生させることを決心し、能力者となった。それからの私は、日中には大学で講義と研究を行い、夜は遅くまでアンヘルの情報収集とバグの訓練に時間を費やすようになった。地方や海外で学会があれば積極的に参加し、現地でアンヘルの情報を集めた。
私は、自身が家族のために心血を注いでいると思っていた。だが、それは違った。
娘の死から二年経ったある日、帰宅すると、妻は風呂場で手首から血を流して死んでいた。
それを見つけた瞬間、全身の力が抜けて私はその場に跪いた。そして、自分の行動を悔いた。
何故こうなる可能性を考えなかったのか。
いや、私は分かっていたのだ。分かっていながら、逃げていた。残った家族と向き合わず、これが皆のためだと、既に失われたものしか見ていなかった。
私も妻と全く同じだった。
そしてそう後悔する傍ら、妻の死に少し安堵している己に気が付いて、無性に腹が立った。
私は残された息子の身を案じた。しかし彼は辛そうな素振りなど見せず、気丈に振る舞っていた。そんな彼を見ると、私は堪らない衝動に駆られた。本当に申し訳ないと思った。
結局息子は、私の前で一度も涙を見せなかった。だがそれがかえって、私に新たな苦悩を与えた。あれから三年経った今も、私はその答えを出せずにいる。
しかし何れにせよ、息子の精神に大きな負荷をかけてしまったのは、私の責任だ。彼の家族は、もはや私だけだ。私は彼と一緒にいなければならない。彼は私を恨んでいるかもしれないが、私は傍にいて償わねばならないのだ。
息子は、この春で高校二年生になった。私が死んだら、彼はどうなるのだろうか。経済的な心配もあったが、何より彼を独りにするわけにはいかなかった。
私はここで死ねない。
だが、それは五十嵐も同じはずだった。
彼にも家族はいる。一人娘がおり、偶然にも私の息子と同じ高校だという。もしかすると、息子達は互いに面識があるかもしれない。
五十嵐だって、我が子を残して死ねるはずがない。
おそらく彼は、私をこの戦いへ引き入れたことに負い目を感じているのだろう。だが、それは違う。これは私の意志だ。私が自ら望んで覇王に刃を向けたのだ。
そんな五十嵐に対して、「君の娘さんだって」と返そうとしたが、声は喉で止まってしまった。息子のことを考えると、喋れなくなった。
「……すまない」
やっとのことで出た言葉は、謝罪だった。感謝だった。
五十嵐は親指を立てて、白い歯を見せながら笑った。私はそれを見て、どんな顔をしたのか、自分でも分からなかった。
私は覇王のカードを手に走った。廃工場を抜け、市街地を目指してひたすら駆けた。すぐに雨が降り出し、冷たい滴が顔を打ちつけた。
しばらく走ると、後方から何度も轟音が聞こえてきた。私は振り返らなかった。
「要……」
無意識に小さく息子の名前を呼んでいた。