TRACK-1 近づけども遠く 2
市立図書館の職員用食堂は、一階の裏庭に面した場所にある。南向きで日当たりのいいこの空間は、職員らの憩いの場だ。
あちらこちらに少人数グループが出来上がり、ランチをとりつつ談笑している中、一人浮かぬ顔をしている人物がいた。
ランチクロスの上に広げた手製のサンドイッチを、一切れつかんだまま口に運びもせず、アルフォンセはぼうっとしていた。
「アル。ねえ、ちょっと。アルってば」
向かい席から何度か声をかけられ、テーブルをこつこつと小突かれたところで、ようやく我に返る。
「え、何? 呼んだ?」
きょとんとするアルフォンセに対し、同僚のシェリー・マクファーレは、やれやれと小さく首を振った。
「呼んだわよ。さっきから何度もね。全然返事もしないで、ぼーっとしちゃって」
「ご、ごめんなさい。ちょっと考え事を」
アルフォンセはサンドイッチを置き、紅茶を一口飲んだ。
「何かあったんでしょ?」
と、シェリー。アルフォンセを見つめる目には、好奇心のきらめきがある。しかし、こちらを気遣っているのは確かなようだ。
アルフォンセはしばし迷ったあと、意を決して話し始めた。
「夕べね、向かいの部屋の人を、お夜食に呼んだの」
「向かいの人って、時々あなたに会いにくる“ピアス男”?」
「うん。あの、“ピアス男”じゃなくて、エヴァン、ね」
「あなたたち付き合ってたんだ。知らなかった」
シェリーの瞳の輝きが、一層強くなる。シェリーは恋愛話や、芸能人のゴシップをこよなく愛しているのである。
「違うの、まだ付き合ってはないの。ただ、その、体力使うお仕事してるから、何か食べさせてあげたいなっていうか、食べてほしいなって」
「うんうん、それで?」
「後片付けしてたら、いきなり後ろから抱きつかれて」
「ええ!? じゃあ、そのまま!?」
シェリーは両目を見開き、押し倒すジェスチャーをした。
「ち、違うわ! 何もなかったの! 私が突き飛ばしたから」
「むりやりやっちゃおうとしてたのね。なんて奴。最低。女の敵」
顔をしかめ、シェリーは嫌悪をあらわにする。アルフォンセは、彼女に弁解するように手を振った。
「そうじゃないわ。違うの。違うのよシェリー」
「じゃあ、なんだっていうの」
「いきなりだったからびっくりして……、それに」
言いかけてアルフォンセは、両手に顔をうずめた。言葉とともにため息がこぼれる。
「わ、私、初めてなの。何もしたことないの。だからどうしていいのか分からなかったのよ」
「あー……」
納得がいったのか、シェリーは苦笑しながら頷いた。
「男の子とちゃんとお付き合いしたことないし、男友達だっていなかったから」
なぜか申し訳ない気分になって、アルフォンセは更に小さくなった。
「こんな、二十三にもなってまだだなんて、重くて嫌よね、男の人にとっては」
「そうかな。あなたみたいな子、今時すごく貴重よ。大抵の男は喜ぶんじゃない?」
「そ、そうなの?」
「だと思う。ねえアル、ひとつ訊くけど、あなたその“ピアス男”のこと、好きなの?」
核心をつかれ、アルフォンセは一瞬口をつぐんだ。
エヴァン・ファブレルに対する気持ちが本当に恋心なのか、冷静になって考えたことはある。ひょっとしたら、いわゆる「吊り橋効果」によるものなのではないか、と疑ってしまったからだ。
エヴァンは〈スペル事件〉において、何度も守ってくれた。身体を張って助けにも来てくれた。
男性免疫力の低い自分が、そんな彼に好意を抱くのは安易すぎるだろうか。
一時の熱病に過ぎない、ということはないだろうか。
これは本物の恋だ、いや勘違いだ。肯定しては否定し、否定しては肯定するを、何度も繰り返した。
そんな中でも、ふとした時に、彼の姿が脳裏を過ぎった。気がつけば彼のことを考えている。
この気持ちは、偽りでもまやかしでもない。
「……好き」
声に出して確信した。私は彼のことが好きだ。
「じゃあ、どうして拒んだの?」
「だ、だって、突然のことだったから、頭の中真っ白になって……。それに、男の人って力が強くて、あんな力いっぱい抱き締められたら、怖くなって……」
突き飛ばした後の、エヴァンの顔が思い出される。恥と後悔と失望がない交ぜになった、胸を締めつけられる顔。
あんな顔をさせたかったのではないのだ。
「でも、好きなんでしょ?」
「うん……」
「だったら、まだ見込みあるわね」
「本当に?」
「拒否されてちゃんとやめてくれたのなら、あなたを大事に想ってるってことなんじゃない? あなたも彼のこと好きなら、ゆっくりでもいいから仲を深めていけばいいよ」
微笑みながら、励ますように掌をぽんぽんと叩いてくれる同僚に、アルフォンセもまた、笑顔を返して頷いた。
*
「本」というものは、いまや一般的には電子書籍を指すのだが、その昔は紙製書籍が主流であった。
紙製書籍はもはや製造されていないが、その価値は見直され、貴重な文化財として大切に扱われている。
図書館は、そんな貴重な紙書籍を保管維持する、重要な拠点なのである。
返却された書籍の山をワゴンに積み上げ、本棚の間を押していく。指定のジャンル棚の前で止め、アルフォンセは一冊一冊丁寧に戻していった。
紙書籍は貴重なものだが、貸し出しを禁止しているわけではない。むしろ一人でも多く、紙書籍に触れてもらうことを望んでいる。ただし、借りる際には、取り扱いに関する注意事項を承諾してもらう必要があるが。
借りた本は、再び図書館まで返しにこなければならない。面倒な手順だと思われがちだが、この昔ながらのやり方が、なかなかに受けている。実際に紙の本に触れると、電子書籍では味わえない手触りや紙の匂い、ページをめくるという行為そのものにはまってしまうらしいのだ。そのため、少々の手間であろうと、せっせと図書館に足を運ぶリピーター読書家が多いである。
とても喜ばしいことだ、とアルフォンセは心から思う。紙書籍には、電子書籍にはない味わいがあるのだ。
ワゴン上の返却本を半分ほど棚に戻した頃、アルフォンセは声をかけられた。
「ちょっと、すんません。そこの司書さん」
聞き慣れないイントネーションに、アルフォンセはすぐさま反応した。
首をめぐらせ、声の主を捜す。
「こっちや、こっち」
声は棚の向こうから聞こえた。仕切りがなく向こう側まで見通せる棚を覗くと、若い男が一人、アルフォンセを手招きしていた。
「ちょっとええか」
棚を回りこんで、男のいる側へ移動する。
小柄な男だった。アルフォンセよりも身長が低い。幼い顔立ちからして、中高生くらいだろうか。やや長い黒髪の、前髪をヘアバンドで押し上げて額を出している。瞳は灰色で、いたずらっ子のようにきらめいていた。引きずりそうなほどに裾の長いコートを羽織り、いかついミリタリーブーツを履いている。
学生は一抱えもある大きな図鑑を手にしていた。見開きに幻想的な絵が描かれている。
「はい、どう致しましたか?」
「ごめんな、お仕事中に。これ、何の本?」
言葉は普通だが、訛りの強い話し方だ。
「俺、図書館来んの初めてやねん。普段も本なんか読まんしな。けど、ちょっと気になって、これ見てみたんやけど、絵ばっかりでよう分からん。なんか説明文っぽいのは書いてあんねんけど」
「これは『幻想生物図鑑』ですね。古い時代に刊行されたものですよ」
好きな本の一冊だ。選ばれたことに嬉しくなって、アルフォンセは顔を綻ばせた。
「何? ゲンソーセーブツて」
「架空の生き物のことです。ゲームや映画、アニメでもよく取り上げられる題材ですよ。有名なのはドラゴンや妖精ですね」
「ああ、ああいうのがゲンソーセーブツか。なるほどな」
学生はしきりと頷き、「なるほどなー」と呟いた。ぱらぱらとページをめくり、話を続ける。
「俺の趣味やないけど、絵はきれいやな。お、なんやこれ。このおねえちゃんもゲンソーセーブツか」
学生が指差すページには、悲しげな表情をした、半裸の女性像が描かれていた。ページ左下に、説明文が載っている。が、図鑑の内容を覚えているアルフォンセに、その説明文を見直す必要はなかった。
「これはエコーです」
「エコー?」
「はい。森のニンフ、精霊です。下位の女神を指す場合もあります」
「精霊ねえ」
「エコーは、音楽に長けた精霊です。牧羊神パーンが、エコーの音楽の才能に嫉妬し、羊飼いたちを操って彼女を殺してしまった、というお話が有名ですね。それ以外だと、美しい青年ナルキッソスへの恋のお話でしょうか」
「精霊が人間に惚れたゆうんか」
「ええ。でも、その時のエコーは、事情があって声を失っていました、そのためにナルキッソスに話しかけることが出来ず、彼に相手にされませんでした。悲しみのあまりエコーは肉体を失くし、声だけの存在になってしまったんです。これが木霊ですね」
「木霊って、あの、山で『ヤッホー』て叫んだら『ヤッホー』て返ってくるアレか?」
アルフォンセが頷くと、学生は感嘆の声を上げた。
「キミ、めっちゃ詳しいなあ。司書ゆうんは、そんなんまで頭に入れとかなあかんのか」
「いえ、別にそういうわけでは。私、こういうものが好きなんです」
「ロマンチストなんやなあ。美人で仕事が出来てロマンチスト! 文句の付け所がないな!」
「いえ、そんな」
気のせいだろうか。学生はこちらとの距離を詰めてきているように感じる。アルフォンセは相手に失礼のないよう、ほんのちょっとだけ離れた。
「よっしゃ。ほな、これ借りるわ。借りられんねんやろ?」
「ええ、もちろん。本館のご利用は初めてですよね? 貸し出しには利用者登録をしていただきますが、よろしいですか?」
「そんなもん、いくらでもしたるわ。そしたらまたキミに会いに来れるやん」
学生は歯を見せて、ニカっと笑った。人懐っこい笑顔である。が、アルフォンセはその笑顔に、何か危険なものが潜んでいるように思えてならなかった。
アルフォンセは曖昧に頷き、彼を貸し出しカウンターまで案内した。
「それでは館内利用について説明しますね。こちらのシートをご覧ください」
図書館利用規約が表示されたデジタルシートを、向かい席の学生に向けて差し出す。学生はシートを引き寄せ、興味なさそうに眺めた。
「登録していただきましたら、館内のほとんどの書籍を借りていただくことができます。ですが一部館外持ち出し禁止の書籍や、閲覧に申請書を出していただく書籍もありますのでご注意ください。では、特に重要な、紙書籍の取り扱いについてですが」
アルフォンセは慣れた口調で、シートのデジタル表示を指差しながら説明を続けた。その間、相手は質問も挟まず黙っていたので、本当に聞いてくれているのか不安になり、ちらりと様子を伺った。
学生は頬杖をつき、デジタルシートではなくアルフォンセを見ていた。
「あ、あの、聞いてますか?」
おずおずと尋ねる。
「司書ちゃんは指きれいやなあ。細くて白くてハリがあって、爪もぴかぴかや。指先には人柄が出るて言うで。司書ちゃんはきっと、心もきれいなんやろなあ」
「は、はあ……」
一体どこを見ているのだろうか。先ほど感じた危険信号は、あながち気のせいではないかもしれない。
アルフォンセは彼の言葉を聞かなかったことにした。気を取り直し、本題に戻す。
「せ、説明は以上です。ご承諾いただけましたら、こちらの必須項目の入力をお願いします」
学生は人差し指で、デジタルシートの入力欄に触れた。なぞった形にそって、シートに文字が表示される。
彼の名前は「マキシマム・ゲルトー」というらしい。
「では、何か身分証明になるものをお持ちですか? 保険証でも学生証でも結構ですよ」
尋ねると、彼――マキシマムは、やんちゃな笑みを満面に浮かべた。
「学生証なんか十年以上も前にへし折ったったわ。免許証でええか?」
マキシマムはコートの内ポケットから、掌に収まるほどの半透明なカードを取り、アルフォンセに差し出した。
カードを受け取ったアルフォンセは、カードリーダーにスラッシュさせる。直後、カードリーダーのディスプレイに、マキシマムの個人データが表示された。そこに記された内容を確認したアルフォンセは、驚いて彼を凝視した。
「えっと、ごめんなさい。私てっきり」
「俺が中坊か高校のガキやと思てたやろ? 童顔でチビやしな。よう勘違いされんねん」
生年月日をみれば、なんと自分より二歳年上だ。
「本当に失礼致しました」
「ええってええって、慣れてるしな。これで名前が“最大”なんやから、よー出来たギャグやな」
けらけらと笑うマキシマムは、やはり伸び盛りの少年のように見える。その屈託のない笑顔に、アルフォンセはエヴァンに似たものを感じた。
手続きは無事終了し、マキシマムは『幻想生物図鑑』を収めたブックケースを脇に抱えて立ち上がった。
「ほなまた、一週間後までに返しに来たらええんやね」
「はい。その時はまた、ぜひ本を借りていってくださいね」
「本は、まあええわ。俺はまたキミに会いたいねん。俺のことはマックスでええよ。司書ちゃん、お名前は?」
「アルフォンセ・メイレインと申します」
「アルフォンセ! 名前まできれいやなー。ほなまたな、アルちゃん」
空いた片手を上げ、マキシマムことマックスは、颯爽とその場を後にした。
少し変わってはいるが、悪い人ではなさそうだ。なにはともあれ、紙書籍に少しでも興味を持ってくれたことに感謝しつつ、アルフォンセは新しい登録者リストの作成を始めた。
*
図書館裏手の道路脇に、電動車が一台停車している。
運転席には、明るい栗色の短髪の男が乗り込んでおり、ハンドルに両腕を乗せて外を眺めていた。
やがて小柄な人物が、電動車に歩み寄ってきた。助手席側のガルウィングを開けて乗り込むと、抱えていたブックケースを大事そうに後部座席に置く。
運転席の男は、助手席の人物の顔を覗き込んだ。表情が晴れやかだ。守備は上々、といったところか。
「おかえり。なんやえらいでかいお土産やな、マックス」
「『幻想生物図鑑』や。次にアルちゃんに会うための口実やからな。汚したり傷つけたりしたらしばくで、ディーノ」
「アルちゃんてゆうんか。実物はどうやってん?」
「実物? そらもうびっくりするくらい可愛かったで! おっとりしとるし、仕事も丁寧やしな。前から目ェつけてて正解やったわ。今時あんな子めったにおらんで」
マックスは両手を前にかざし、うっとりと見つめる。
「指がな、めっちゃきれいやってん。唇もな、ツヤっとぷるっとしててな。あれはもう、いろいろしたいし、されたいな」
「そうかそうか、そらよかった。わざわざこっちまで寄り道した甲斐があったな。何をいろいろしたくてされたいんか、まあだいたい見当はつくけど、どの角度からでも中坊がエロ妄想しとるようにしか見えんから、そのへんでやめとこか」
ディーノは愛想のいい笑顔で相槌をうち、ばっさりと話を切り捨てた。
話題を切り捨てられたマックスだが、しかしあまり気にする様子はなかった。マックスが取り留めのない話をして、本題が進まなくなると、軌道を修正するのはディーノの役目である。
「なんか動きがあったんか?」
「さっき別班から連絡きたわ。メガネさんと相方くん、合流するで」
ディーノの報告を聞くと、マックスは怪訝な顔つきになり、両腕を組んだ。
「それにしても、あのスケコマシが誰かと組むやなんてな。どういう心境の変化や。まあええわ。俺らには関係ない」
「ほな、行きますか」
ディーノは電動車のスタートキーを押した。電気エンジンは、ほとんど音を立てることなく起動する。
「お仕事開始や」