TRACK-6 北風と太陽 3
エヴァンは、レジーニの瞳の奥が、小波のように揺らいでいることに気づいた。
普段絶対に見せない動揺と、推し量れない哀しみが、そこにはあった。
「どうすればよかったんだ」
決壊しそうな激情を堪え、一語一語を噛み締めるように、レジーニは言う。
「俺はただ、自分の居場所を守りたかっただけだった。家族や、ルシアがいてくれれば、それだけで充分だったんだ。大きな望みじゃなかったはずだ。ほんの数人、側にいてくれるだけで、俺は幸せだったのに」
「レジーニ……」
銃を握らせる手に力がこもる。エヴァンは引き金を引かぬよう、精一杯抵抗し続けた。
「なのに、俺が望み、守ろうとすればするほど、何もかも遠ざかっていく。家族は家族の手で奪われて消えた。住む場所も追われた。誰も頼れなかった。味方は一人もいない。やっと仲間と呼べる人たちに巡り合えたと思っても、それは仮初めだった。
自分の居場所が欲しくて欲しくて、誰かに『ここにいていい』と言ってほしくて、間違った場所で足を止めた。
そうだよ、俺が間違ってたんだ。あの男の言葉に耳を貸すべきじゃなかった。
だけど、その間違いを正そうとするのは、いけないことだったのか?
間違っていたと気づいたものを、正しくあるようにしようとすることが、間違いだったのか?
俺が間違ってしまったから、ルシアは死んだのか?」
瞳の揺らぎが深くなる。苦悶と自責の念が、零れ落ちようとしている。
「だったらどうすればよかったんだ。間違ったまま、独りで外れた道を進み続ければよかったのか。俺は二度と、光の下に出てはいけなかったのか。
俺の犯した間違いは、どうすれば清算出来たんだ。ラッズに復讐したところで何も変わらない。そんなことは分かってる。でも、そうする以外になかった。ラッズへの憎しみを糧にしなけりゃ、歩くことも出来なかったんだ。ルシアはもういないのに、どこへ行けばよかったんだ。
考え方も、話し方も、服装も、何もかも変えて違う自分にならなけりゃ、息をするもの辛かったのに。
こんな俺が、死に場所を探す以外に何が出来たって言うんだ!」
銃を握り締めた手が震えている。きりきりと、締めつけられる心を投影しているかのようだ。
碧眼から伝い落ちた一雫は、拭われることなく頬を濡らす。
「お前……」
相棒が流す涙を、エヴァンはしっかと目に焼きつけた。この涙を忘れてはならないと感じたのだ。どんな想いでこの一雫をこぼしたのか。それを、決して忘れまいと誓った。
「いつも俺のこと、バカだバカだって言ってるけど、お前、他人のこと言えねえだろ。大馬鹿野郎だ! 何だよこの様は! こんなボロボロになるまで、どうして……」
今ならレジーニの痛みが見える。心の傷を周囲に悟られまいと、自分自身もごまかそうとして、必死に隠し続けていたのだ。
痛みに耐えるために、魂を凍える氷で覆い尽くした。その氷が、己のすべてを傷つけ、ズタボロにしてしまうのを承知で。
そうでもしなければ、今日まで生きることさえ出来なかったのだ。
「辛いなら辛いって言えよ! 助けがいるなら言えよ! 俺のこと悪く言っていいから、そういう大事なこともちゃんと言ってくれ。でなきゃ、お前に何をしてやれるか分かんねえから。
俺はバカだけど、お前が立てなくなった時に貸せる肩くらい持ってんだぜ」
ふっと、銃を握る力が抜けた。
「お前は、ちょっとだけ間違ってたかもしれねえ。だけど、それが間違ってたって気づけたから、だからお前の前にルシアが現れたんじゃねえかな。ルシアがお前を、明るい所に引っ張り上げてくれたんだって、俺は思う。ルシアが死んだのはお前のせいじゃない。お前はルシアと、人生やり直そうって頑張ったんだから。
もう充分苦しんだろ? もういいじゃん、な?
レジーニ。もういいんだよ」
銃が落ちる。かたん、と床を打つ。
よろよろと後退したレジーニは、後ろの壁に背を預け、そのまま崩れ落ちた。
天井を仰ぎ見た碧眼が、そっと閉じる。
瞼からもう一雫、涙がこぼれた。
*
ビルの屋上には、一機のヘリコプターが待機していた。操縦席にはパイロットが搭乗しているが、彼はシートに背を預け、かっくりと頭を垂れている。
ラッズマイヤーが這々の体で屋上にたどり着くと、出迎えたのはそのパイロットではなく、ヘリコプターの前に立つマックスであった。
ラッズマイヤーはマックスに気づくと、血塗れの顔を怒りで歪めた。
重そうに身体を引きずりながら近づくラッズマイヤーを、マックスは冷めた目で迎える。
「おーおー、派手にやられたな。お疲れさん」
「貴様……」
ラッズマイヤーは憎しみを込めてマックスを睨む。しかし当の本人は、まったく気にしていない。
「心配せんでもええ。パイロットは気絶させとるだけや。俺らはあんたと違うて、余計な殺生はせえへん。それとな、オブリールの身柄は確保したで。あのおっさんは俺らの手で処分するより、ブラッドリーの御大にまかした方がええやろからな」
「貴様ら賞金稼ぎが、ジェラルドの犬だってことは、最初から知ってたんだよ! いくらで釣られたのか知らねえが、ふざけた真似しやがって!」
息巻くラッズマイヤーを、マックスは嘲笑う。
「三下奴みたいな台詞やな。昨日までの余裕はどこ行ったんや。スケコマシにボコボコにされて、元からペラペラやった鍍金の仮面が剥がれ落ちたらしいな。まあ、あんたみたいなクズの雑魚には、それくらい下卑た言葉がお似合いやで」
「三下……? クズの、雑魚だと……?」
ラッズマイヤーの顔色が、血管も透けるかと思うほどに青褪めた。プライドへのダメージが大きかったのだ。
「首に金のかかったゴミを漁る野良犬の分際で、この俺によくもそんな口を!」
「そうや、俺らは賞金稼ぎや。首に金のかかった奴を相手にすんのが商売や。けど、野良犬には立派な牙があんねん。あんたの牙は何や? それとな、賞金首をゴミ呼ばわりすんのやったら、もれなくあんたもゴミっちゅーことになるで」
「黙れッ!」
ラッズマイヤーは目を血走らせ、数歩マックスに近づいた。
「俺が賞金首だと? 俺はな、ジェラルドが放り出した問題を、すべて片付けてきたんだ! 俺はもっと感謝されるべきなんじゃないのか!? あの野郎がやるべきだったことを、この俺がやったんだぞ! なのに粛清だ? 懸賞金だ? 一体この仕打ちは何だってんだ!」
マックスは、泥水が耳に入ったかのように、不快感を露にした。
この男は何一つ分かっていない。自分がこれまで犯してきた罪を、振り返って反省するどころか、自身の不遇を嘆く始末だ。もはや救いはない。
当然、レジーニや、彼の最愛の女性に対しての非道についても、何の感慨のなかろう。
「あんたはやり過ぎたんや。何事にも匙加減ちゅーのがあんねん。あんたはそれを超えた、何度もな。いくら御大でも、あんたみたいなの、いつまでもほっとかれへんわ。あんたはもう、いい加減立ち止まった方がええで」
「うるさいッ! こんなことで終わってたまるか! 俺は、俺はこんな所で終わる男じゃない! 必ずまたのし上がってやる。ジェラルドを引きずり降ろして、この俺の名を轟かせてやる!」
「あんた、絶対ろくな死に方せえへんな」
呆れて首を振るマックスに、ラッズマイヤーは引き攣った笑みを返した。
「上等だ。抗争にでも巻き込まれて蜂の巣にされるか、暗殺者を送り込まれるか、いずれにせよ、死ぬ時は派手に死んでやるよ」
マックスも笑い返す。見下すように、鼻を鳴らして。
「あんたなんぞが、そんな大物みたいな派手な最期迎えられるかい。所詮は御大の威光借りてふんぞり返っとっただけやろが。あんまり妄言ばっか吐きよったら、小物感が滲み出んで」
ラッズマイヤーが、獣の咆哮を上げた。懐からぎらりと光る何かを抜き出す。バタフライナイフだ。
マックスは小さく溜め息をつき、更に小さな声で言った。ラッズマイヤーには聞こえない程度の声量だ。聞こえなくてもいい。どうせ届きはしないのだから。
「あんたが己の小ささを認めとったら、もうちょいマシやったんやろうけどな」
ナイフを構えて叫びながら、ラッズマイヤーが突進してくる。
マックスは微動だにせず、ひたとラッズマイヤーを見据えていた。
あと数歩で、ナイフの切っ先が届く。刹那。
ラッズマイヤーの側頭部から、鮮血が噴出した。
衝撃で横に飛ばされたラッズマイヤーは、そのまま倒れ伏す。
握られていたナイフは手中からこぼれ、虚しく地面に転げ落ちた。
ラッズマイヤーは両目を見開き、口を開け、頭から血を垂れ流し、
事切れた。
マックスはラッズマイヤーの遺体に歩み寄り、つまらなそうに見下ろした。
「あんたのしてきたことを考えたら、苦しまんとあっさり逝けたんはありがたいこっちゃで。まあ、あんたには、こんくらい呆気ない終わり方がお似合いや」
転がったバタフライナイフを拾い、急速に体温を失っていくラッズマイヤーの掌に乗せる。
「あんたが本物の悪党なら、このナイフ一本で地獄をのし上がって見せえ」
立ち上がり、マックスは隣のビルを見やる。こちらのビルより数階高い建物の屋上にいる相方に向けて、親指立てした。
その屋上で、ボルトアクションライフルを構えていたディーノは、スコープで相方の親指立てを確認した。ディーノはにやりと笑うと、同じように親指を立てる。マックスには見えていないが、構わない。
ライフルを解体していると、ディーノの手の甲に、何か冷たいものが落ちてきた。
はて、と空を見上げる。
地上のネオンに照らされて、星がまばらにしか見えない夜空から、白くて冷たい粉のようなものが、ひらひらと舞い落ちてくる。
ディーノは天を仰いだまま、掌を上に向けた。
「寒いと思たら」
自然と笑みがこぼれた。
「この冬最後の雪やなあ」
*
エヴァンは床に胡坐をかいて、じっと待っている。
正面の壁に背を預け、座り込んだままの相棒が、自分から立ち上がるのを待っている。
そうしているとレジーニが顔を上げ、ぽつりと言った。
「いつまでそこにいるつもりだ」
エヴァンは、至極当然のように答える。
「お前が立つまでここにいる」
「いつまでも立たなかったら、どうする気だ」
「そん時ゃ、首根っこ掴んで無理やり立たせる。って言いたいところだけど、待っててやるよ」
「奇特なことだな」
「そう思うんなら動け」
「猿の指図は受けない」
「あーそーですか。じゃあどうするよ、寝袋でも持ち込んで一泊するか?」
「お前と一つ屋根の下で夜を明かすなんて、ぞっとするね」
レジーニの返しに、エヴァンは吹き出した。
「戻ってきたな、いつもの調子がさ」
そう言うとレジーニは、気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
やや沈黙が流れた後、エヴァンの携帯端末が鳴った。電話の呼び出し音である。
掛かってきた電話に出たエヴァンは、手短に会話を済ませて切った。
「レジーニ」
「なんだ」
「終わったよ」
レジーニは背けていた顔をエヴァンに向ける。言葉にし難い思いを眼差しに乗せて。
エヴァンが頷いてみせると、ゆっくり目を閉じ、こつ、と壁に頭をもたせかけた。
「そうか」
目を開け、一呼吸の後、レジーニは立ち上がった。エヴァンも腰を上げる。
歩み寄ったエヴァンに、レジーニは柔らかい表情を見せた。笑ったのだろうか、と思った次の瞬間、エヴァンの顔面に拳がめり込んだ。
「痛ッてえ! 何すんだよいきなり!」
殴られた鼻の頭を押さえながら抗議するエヴァンを、レジーニはいつも通りの冷たい口調で突き放す。
「黙れ。猿の分際で先輩様に説教した罰だ。鼻骨が折れてたら整形するがいい。多少は見目も良くなるだろ」
「てめーなあ! ったく、ちょっとしおらしくなったと思ったら、すぐこれだ。俺はサンドバッグかっつーの」
「サンドバッグなら、口答えせずに殴られている。お前より職務に忠実だ」
「そーかいそーかい! そいつァ悪うございましたね!」
ぷりぷり怒るエヴァンを尻目に、レジーニはブリゼバルトゥと銃を拾い上げる。
まだ文句をまくし立てているエヴァンの側を通り過ぎざま、
「ありがとう」
呟きほどの小さな声。
ぶつくさ言い続けていたエヴァンは、レジーニが何かを言ったような気がしたので、
「あ? 何か言った?」
尋ねると、レジーニは、
「別に」
と、肩をすくめ、さっさと歩き出す。
「よく聞こえなかったから、もう一回言えよ。あ、やっぱいい。どうせ猿だのバカだのなんだろ」
「そうさ。よくお分かりで」
「お前ほんっと可愛げが無え」
「はいはい」
降り始めた粉雪は、少しずつ地上に積もっていった。
次の季節を迎え入れるために、残った雪を天が降らせている。
ふわふわと風に舞う軽い雪はやがて、ネオン輝く大地を白く染めた。
街が隠した傷を癒すように。




