TRACK-1 近づけども遠く 1
エレベーターの到着音が鳴り、ドアが開いた。アパート十二階の廊下は、しんと静まり返っている。目に優しい淡い照明に照らされた空間は、今日の勤めを終えたエヴァン・ファブレルを温かく迎えてくれた。
とある部屋の前を通りがかった時、少しだけ足の運びを遅くした。自分の帰宅に気づき、部屋の住人が顔を出してはくれないか、と期待して。
だが、残念なことに、ドアは開かなかった。
がっかりしつつも、仕方がないので潔く自室へ行こうと、歩を進める。
すると、かちゃり、と背後で音がした。
しぼんだ期待を再び膨らませて振り返ると、半分開いたドアから、ほっそりした人物がこちらを見つめていた。
深い海のような青い瞳は、エヴァンの心を掴んで離さない。今日も顔が見られた。ただそれだけで、なんと幸福を感じることか。
「おかえりなさい」
包み込むようなまろやかな声で言い、アルフォンセ・メイレインははにかんだ笑顔を浮かべた。
「た、ただいま」
エヴァンも笑顔を返す。心臓はとくとくと鳴っている。
彼女が向かいの部屋に引っ越してきたのが、約五ヶ月前のこと。挨拶に訪れた彼女を見たその瞬間、エヴァンは恋に落ちた。初めての恋である。
さて、挨拶は交わしたが、そこからどうやって会話を続けるべきなのだろう。
特に用があるわけでもない。かといって、たった一言だけでこの場を去るなど、そんなもったいないことが出来ようか。
どういう行動をとるべきか分からず、ただ突っ立っていると、アルフォンセがおずおずと口を開いた。
「あ、あの、エヴァン」
「うん」
「おなか、空いてない?」
「え?」
「その、ビーフシチューがあるんだけど。おなか空いてたら、どうかなって」
言うなりアルフォンセは、慌てて片手を顔の前で振った。
「でも、晩ごはんならお店で済ませてるのよね。じゃあ、空いてるわけないね。ごめんなさい、変なこと言って」
「い、いや別に変なことじゃあ……。どうっていうのはつまり、そ、そっちの? へ、部屋で?」
こくりと頷くアルフォンセ。
「余計なお世話だったら……」
消え入りそうな声で、恥ずかしそうに言うアルフォンセの言葉を遮り、エヴァンは想いの丈を迸らせた。
「空いてるめっちゃ空いてるもうこれ以上ないってくらい空いてる腹減って死にそうなくらい空いてるので食べさせて下さい!」
長時間かけて煮込んだであろう角切り牛肉は、口に含んだ途端にほろほろと崩れた。ごろっと大きめに切られた野菜にも、しっかりと味が浸み込んでいた。文句なしに絶品なビーフシチューは、好きな女性の手料理であるという、最高級スパイスの効果も相俟って、エヴァンの腹も心もたっぷりと満たしてくれた。
店――〈パープルヘイズ〉で賄い夕飯は食べていたが、その後働き通しだったため、事実空腹ではあったのだ。
結局三杯四杯とおかわりをした。アルフォンセはふんわりとやわらかに微笑みながら、エヴァンの食事を見守っていた。
「ごちそうさまでした!」
きれいにたいらげ、天に祈りを捧げるがごとく手を合わせると、アルフォンセはクスッと笑い、
「お粗末さまでした」
と、返す。
どうぞ、と差し出されたカップには、赤みがかった色の紅茶が注がれていた。
エヴァンは食後の紅茶を飲んでいる間、キッチンで後片付けをするアルフォンセの後ろ姿をじっと見ていた。
このシチュエーションは、以前にもあった。〈スペル〉という厄介なものを飲まされ体調を崩した時、介抱してくれたアルフォンセは、今日と同じように手料理を食べさせてくれた。食後はやはり、後片付けをする彼女の様子を見つめていたのだ。
(これってほんと、恋人みたいだよな。そうじゃなかったら、夫婦だな)
妄想すると、ニヤニヤ笑いが抑えきれない。
(恋人。そうだよ。俺たち恋人同士になれるって。絶対)
すでに告白済みである。アルフォンセからの返事はまだだが、手応えはあったはずだ。
返事を聞かせてほしいと言った時の彼女の反応は、確実に肯定方向に向いていた。
(アルも、俺のことが好きなはずだ)
でなければ、こんな風に部屋に招くだろうか。
そう考えた時、エヴァンの中で抑えがたい衝動がこみ上げてきた。
部屋には二人だけだ。邪魔をする者はいない。
出会ってから五ヶ月。決して長い期間ではない。だが、お互いがお互いを好きなのであれば、時間の長短など何の問題もないはずである。
(いいよな。だって俺たち、両想いなんだし。いいんだよな)
そっとテーブルを離れ、アルフォンセに近づいていく。
アルフォンセが食器をディッシュウォッシャーに入れ、スイッチを入れた。屈めていた姿勢を正した時、エヴァンは背後から彼女を抱き締めた。
アルフォンセの身体が、びくっと小さく跳ねた。
抱き締めた瞬間、アルフォンセのうなじからいい匂いが漂ってきて、エヴァンの鼻をくすぐると同時に、男の本能を刺激した。アルフォンセの匂いをもっと吸いたいと、首と肩の間に顔をうずめる。彼女の匂いを嗅げば嗅ぐほど、エヴァンの本能が理性を圧倒していった。抑え込んでいた欲情が、一気に主張し始める。
「エ、エヴァン」
アルフォンセは身を硬くし、戸惑いを隠さない。
「あ、あの」
「アル、俺、君が好きだ」
彼女を更に、強く抱く。左手を腰に回し、細いくびれをまさぐる。
「俺たち、出会ってまだ五ヶ月だけど、そういうのあんまり関係ないって思うし、もうちゃんと付き合ってもいい頃だと思う」
「でも、私……」
「アルが好きでたまらないんだ」
「エヴァン、だめ。わ、私、まだ」
アルフォンセは硬直したまま、か細い声を上げる。儚く弱々しい彼女の声は、エヴァンを押しとどめるどころか加速させた。
アルフォンセが欲しい。彼女の心と身体が欲しい。唇と華奢なその身体を、思う存分貪りたい。
「アル、俺」
「お願い、待って。まだ……」
「俺、もう我慢できない」
肩を抱いていた右腕が、アルフォンセの柔らかな二つの膨らみに触れる。
「いや! 離して!」
どん、と強い力がエヴァンの胸を押した。ふいをつかれたエヴァンはたたらを踏み、テーブルにぶつかった。
尻に硬い衝撃を受け、そこでエヴァンははっと我に返る。
数度瞬きをして正面を見ると、怯えた子猫のように小さく震えながら、身を縮めるアルフォンセの姿があった。
深海色の眼から、つうと流れる一筋の雫を見た瞬間、激しい後悔と罪悪感がエヴァンを奈落に突き落とした。
「あ……、アル」
そっと手を伸ばすと、アルフォンセは逃更に縮こまった。エヴァンから目をそらし、床を見つめる。
「アル、お、俺」
何か言わなければ。黙ったままでは誤解されるだけだ。だが、こんなひどいことをして、誤解されるもなにもない。
かけるべき言葉は言葉にならず、虚しい息となって吐き出されるばかり。
「ご、ごめん」
そんな簡潔なことしか言えなかった。
沈黙が流れ、エヴァンもアルフォンセも、その場から動けなくなってしまった。
己の軽率さに呆れ、絶望し、泣き出しそうになった時だ。
エヴァンの携帯端末の呼び出し音が鳴った。
おぼつかない手つきでエレフォンを取り出し、発信者名を確認してから、通話機能をオンにする。
発信者は、エヴァンが応答するより先に、用件を告げた。
『仕事だ。第三倉庫街まですぐに来い』
それだけ言うと、相手は電話を切った。普段どおりの、冷たく突き放した口調である。しかし今のエヴァンには、救いの言葉だった。
「えっと、し、仕事、だってさ。すぐ来いって」
しどろもどろに言い訳を述べる。アルフォンセは俯いたまま、何も答えてくれない。
無言の批難は、エヴァンの胸を更に深く抉った。
「アル、ごめん。ほんとにごめん」
彼女に届いたかどうかは分からない。待っても返事はしてくれないだろう。
エヴァンはエレフォンを握り締めたまま、逃げるように部屋を出て行った。
*
蒼い光が一閃。垂直にひらめくと、凍てつく息吹を放出しながら、腐りかけた肉を斬り裂く。刃の触れた部分は瞬時に凍りつき、化け物を不気味なオブジェクトに変えた。
凍っていない胴の一部が、ぴくぴくと僅かに蠢いている。引導を渡すため、蒼い機械剣〈ブリゼバルトゥ〉を構え直したレジナルド・アンセルム――レジーニは、二つに分かれた化け物の首を、同時に薙ぎ落とした。
ぐしゃりと厭な音を立て、化け物は完全に地に倒れた。と同時に、肉塊からは悪臭を孕んだ蒸気が立ち昇り、分解消滅が始まる。
レジーニが倒した化け物――メメントは、最後の一体だった。今夜は三体同時に出現したが、知能も低く大した相手ではなかった。
レジーニは消え行くメメントを見ながら、ふむ、と片手で眼鏡を押し上げる。
秀麗な眉を少しだけゆがめ、しばし考え事をしていると、周りが妙に静かなことに、ふと気づいた。
静けさの原因は相棒だ。いつもなら一仕事終えると「腹減った、何か食おうぜ」と、育ち盛りの小僧のように騒ぐのであるが、今日はやけにおとなしい。
首をめぐらせ、相棒の姿を捜す。
相棒――エヴァンは、仕留めたメメントが分解消滅している側で、体育座りしていた。膝を抱え、死んだ魚のような目でどこともつかぬ方向を眺めている。
負のオーラがどんよりと漂っていた。今にも身体のどこかから菌類が発生しそうな空気だ。放っておけば、そのうちカビが生えてくるかもしれない。
振り返ってみると、呼び出しに応じて集合した時から、こんな空気を醸し出していたように思う。
「立て馬鹿猿。仕事は完了した。さっさと帰るぞ」
エヴァンは、ああ、だか、にゃあ、だかよく分からない生返事をしたものの、立ち上がろうとはしなかった。
「何をふてくされているんだ。こっちまで辛気臭くなるからやめろ」
叱っても、相棒は動かない。
イライラが募ってくる。喜怒哀楽の振り幅が大きくて、付き合わされる方も大変なのだ。
いっそほったらかしのまま帰るか。
そう思いはすれども、普段底抜けにポジティブなエヴァンからは考えられないほどの落ち込みように、ほんの少し気持ちが揺らぐ。レジーニはため息をついた。
「何があった。言ってみろ」
一応訊いてみる。エヴァンをここまで落ち込ませる理由は、一つしかないのだが。
「俺、やらかしちまった。とんでもないことやっちゃったよ」
「だから何だ」
「アルを襲いそうになった。嫌われたかも」
やはりあの子が原因か、とレジーニはもう一度ため息をついた。腹の底では、襲うだけの度胸があったのかと、ちょっとだけ感心している。恋愛経験が足りてない馬鹿猿とはいえ、エヴァンも健全な男であったということだ。
「後ろから抱き締めたら、なんかもう抑えきれなくなって。でも、拒絶された」
(だろうな)
アルフォンセは純情な女性である。それにおそらく未経験だ。そんな彼女のこと、いくら両想いの相手であろうとも、心の準備も出来ていないうちにそんなことをされれば、拒絶してしまうのも無理はない。
「焦りすぎだ馬鹿者」
「だってさあ」
「だってじゃない。粗忽にも欲情のままに行動したツケだ。拒絶されて助かったと思え。でなければそのまま突っ走っていただろうからな。そうなっていたら、もっと悲惨な結果を招いただろうよ」
「そ、そっか。そうだよな。俺ほんと、危ねーとこだった。だってアルってさ、すげえいい匂いするんだぜ。細くてすべすべしてて、柔らか……」
何を思い出したのか、茹でダコのように顔を赤らめたエヴァンは、頭を抱えて地面を転げまわった。
「わああああああ俺の馬鹿ああああああああ! せっかくいい雰囲気だったのにいいいいいい! イチャイチャしてえにゃあああああああああああ!」
ごろんごろんごろんごろん、右へ左へ本当に転がっている。まるでおもちゃを買ってもらえずにだだをこねる子どもだ。非常に見苦しいので、こちら側に転がってきた瞬間、顔を踏んづけてやった。
(まったく。これで元・軍部の強化戦闘員とは)
エヴァンと――不本意ながらも――コンビを組んでから八ヶ月ほど経つ。
死骸が変異した怪物、メメントを退治する裏稼業者〈異法者〉として、これまで数々の案件を二人で解決してきた。
エヴァンは軍部に所属していた強化戦闘員だ。何に特化した戦闘員かといえば、ずばりメメント駆逐である。
全身が細胞装置という対メメント専用システムであり、スペックに応じて肉体を変形させる兵士。名称をマキニアンという。
メメントと戦うために生まれた存在なだけあって、“仕事”は確実にこなす。要領の良し悪しなどは別として。
だが“裏稼業者”としての自覚はまだ薄い。おまけに仕事以外では、てんであてにならない馬鹿である。
ことアルフォンセ・メイレインに関しては、この有様だ。
あまりにも彼女のことが好きすぎて、やることなすことが大抵空回りしている。たしかこの馬鹿は、初めて出会った時、つまり一目惚れした時も、上半身裸で迫り、拒絶の平手打ちを食らったのではなかったか。
にも関わらず、今では両想いなのだから、男女の理は分からない。
厄介なのは、アルフォンセのみならず、エヴァンにも男女交際の経験がないという点だ。
おかげでことあるごとにアドバイスやら何やらを求められ、鬱陶しいことこの上ない。
早く付き合ってしまえばいいものを、アルフォンセを大事に想いすぎて、どうにもこうにも手が出せないでいるようなのだ。
その抑え込んでいた感情が、今日になって爆発した、というところだろう。
(まあ、拒まれればやめる分別があるだけ、ましな方だな)
とはいえ、公私混同されては困る。
改めて“躾”し直す必要があるかもしれない。
「なあ、嫌われたかなあ、俺」
点数の悪かったテストを親に見せねばならない子どものような表情で、エヴァンは情けないことを言う。
まともに相手をするとしつこいので、適当に返す。
「かもな」
「嘘だろ~~~、マジかよ~~~」
「そんなことより、メメントの出現特性に関して妙な符号があるんだが、気にならないか?」
「全然」
猿に訊くのが間違いであった。
メメント出現には、何か規則性のようなものがある。レジーニはそう考えているのだが、まだ推測の段階である。もう少しデータを集め、検証する必要がありそうだ。
「愚痴は訊いた。これ以上踏まれたくなかったら、さっさと起きろ。帰るぞ」
転がったままの相棒に背を向け、レジーニはすたすたと歩き出す。
「ちょっと待った!」
エヴァンの声が追いかけてきた。
「こんなことで、俺はくじけねーぞ! この失態は必ず取り返してみせるぜ。俺は絶対にアルとラブラブな仲になるんだからな。そういうわけだから、参考にお前の体験談を」
言い終わるより先に、レジーニの一本背負いが決まり、悩める猿は宙を舞った。