TRACK-5 屑星恋歌 4
上に鎮座したまま、男はこちらの顔をしげしげと眺める。
掴んだ顎を左右に振り、あらゆる角度から、舐めるように見回した。
「お前、本当に男か? さもなけりゃ胸のない女か、どっちだ?」
「お、男に決まってるだろ。重いからいい加減にどけよ」
「こっちの質問に答えてねえぞ。どこのどいつだって訊いてんだろ。喋れるなら答えられるだろうが」
顎を掴む手に力がこめられ、両頬に指が食い込む。高圧的な男の言動に腹が立ち、乱暴にその手を払いのけた。
「ただの〈メッセンジャー〉だよ。答えたんだからどいてくれ。重いって言ってんだろ!」
強気な態度で言い返すと、男は面白がるように、声を上げて笑った。
「この俺にそんな口を利くとは大したガキだ。メッセンジャーだと言ったな。それじゃあなにか? ここ最近単独でチョロつく奴がいると聞いたんだが、お前のことか」
「さあね」
鼻で笑い、目を細めて男を睨む。男は狡猾そうに口の端を持ち上げた。薄い唇から、今にも蛇の長い舌が、ちょろりと見えるのではないかという気がした。
「誰の下で働いている? 本当に単独なのか?」
「誰の下にもついてない。別に反則してるわけじゃないぜ」
男は更に邪悪な笑みを浮かべると、そこでようやくベッドから離れた。
「お前の名は?」
「月並みな返しで悪いけど、人に名を訊く時は、先に名乗るもんだろ」
布団の中で下着とジーンズを履きながら、ぶっきらぼうに答えた。反抗的な態度をとると、男は何故か喜ぶ。妙な趣味でもあるのかと勘繰ってしまう。
見目についての自覚はそれなりにあった。この容姿のおかげで、世話焼き女に欠くことはないのだが、結構な割合で男からも誘われる。
こちらにその趣味はないので、毎度毎度断っているのだが、この男もそちらの気があるのだろうか。女との付き合いもあるのなら、両刀使いというところか。
「俺はヴェン・ラッズマイヤー。〈長〉から、この一帯の管理を任されている」
〈長〉と聞いて、ぎょっとした。面には出さなかったが。
裏社会の頂点に立つ〈長〉から、ゾーンの一部の管理を任されているというのであれば、かなり高位にいる人物だということになる。そういう位置にいる者は〈管理者〉と呼ばれている。
「ほら、名乗ってやったぞ。お前の名を言え」
「……レジナルド」
「レジナルドか」
ラッズマイヤーは口の中で名前を転がした。
厭な視線を受けながらも、我慢して着替えを済ませると、
「よし。お前、俺と来い」
ラッズマイヤーは唐突にそんなことを言い出した。
「は? 何をしに」
「つべこべ言うな。俺に逆らえる立場じゃねえってことを忘れるなよ。来いと言ったら来るんだ」
下っ端にとって、〈管理者〉の命令は〈長〉の命令そのものに近い。やり過ごすには、おとなしくついて行く以外になかった。
「ちょ、ちょっと」
去り際、それまで突っ立っているだけだった女が、慌てた様子でラッズマイヤーにすがりついた。
「それだけ? 私はどうでもいいの?」
ラッズマイヤーの片目尻が吊り上がった。と思った次の瞬間、拳を振り上げ、女の頬を殴り飛ばした。
女の口から絶叫が迸る。殴られた勢いで後ろに吹き飛び、テーブルに衝突して倒れた。
慌てて駆け寄り、女を抱き起こす。哀れなことに、白かった左頬が赤紫色に腫れ上がり、唇が血で濡れていた。涙を流して泣く彼女を、ラッズマイヤーはまるで汚物を見るような目で睨む。
「ぎゃあぎゃあ騒ぐな、あばずれの分際で」
「何してんだよ、女を殴るなんて!」
あまりの仕打ちに憤りを隠せなかった。普段なら揉め事には首を突っ込まないのだが、こんなふうに、女に対して暴力を振るうとなれば話は別だ。
「殴るんなら俺を殴れよ、あんたの女の部屋に転がり込んだのは俺だ」
「そのあばずれが“俺の女”だと? もう必要ない。俺を裏切るような尻軽女は願い下げだ。股を開くだけの女なら、他にいくらでもいる。そいつは用済みだ」
「そんな言い方があるかよ!」
「男がいる女に手を出した奴が、偉そうにのたまうな。そいつの代わりにお前をもらうと言ってんだよ。ついて来なけりゃ、その女の前歯全部へし折るぞ」
ラッズマイヤーの言葉に怯えた女が、縮み上がって泣き叫ぶ。なぐさめようと肩を抱いたが、突き飛ばされた。
「触らないで! もう行ってよ、二度と来ないで」
こんなことになったうえで、また会うつもりなど起きない。もとより、大層なことを言えた立場ではないのだ。
従わなければ女に累が及ぶ。非常に理不尽だが、選択肢はなかった。
ラッズマイヤーの電動車に押し込まれ、連れて行かれたのは彼のオフィスだった。
促されるまま部屋に入ると、待機していた部下たちが、一斉に視線を向けた。
「今日からこいつをファミリーに加える」
開口一番、ラッズマイヤーは宣言した。誰も抗議の声を上げない。ラッズマイヤーの意見に、異を唱えられる者はいないのだろう。
「待てよ、勝手に決めるな。俺は今まで、特定の人間に雇われたことはないし、これからも雇われるつもりなんかない」
ラッズマイヤーはこれを聞くと、ニヤニヤ笑いながらデスクチェアに座り、どっかりと卓上に足を乗せた。
「聞いたかお前ら。気の強いガキだろう? こいつは最近噂のメッセンジャーだそうだぜ。こんな細い形で、よく一人で生き抜いてこられたもんだ」
ハハハ、と渇いた笑い声を上げるラッズマイヤーは、椅子の背に深くもたれ、傲岸な態度で言い放った。
「レジナルド、勘違いするな。お前を雇うとは一言も言っていない。俺は『ファミリーに加える』と言ったんだ。ここにいる連中と同じ、お前は俺のものになるのさ」
「あんたに穴でも捧げろっての? 冗談じゃないね。変なもん突き刺そうとしたら噛み千切ってやる」
ラッズマイヤーは愉快そうに、一層声を上げて笑った。
「こりゃ傑作だ! 綺麗な顔して、なかなかエグいことを言う。ますます気に入った」
それから、狡賢く目を光らせ、指を突きつけた。
「肝に銘じておけレジナルド。お前は今から俺のものだ。お前の意思など必要ない。俺がそう決めたのだから、拒むことは許さん。だが安心しろ、身体をよこせと言ってるんじゃあない。俺だって、抱くのは女だけで充分だ。
お前は俺の下で働くのさ。なあに、普通に真面目にやってくれりゃあ、働きに見合った報酬をくれてやる。厳しい掟で縛ることはない。俺の下はやりやすいぞ? よそに比べりゃ天国だ。保証してやってもいい。守るべきはたった二つ。『俺に逆らうな』『俺のものに手を出すな』。これだけだ、簡単だろ?」
なんとも身勝手な申し出だが、断れば何をされるか知れたものではない。自分一人に制裁を加えられるだけなら致し方ないと納得できるが、あの女のように、無関係な誰かが巻き込まれる可能性を考えると、寝覚めが悪い。
――ここが、終点なのか?
正直なところ、流れ続ける生き方にも疲れた。一匹狼を貫くのも悪くはないが、明日をも知れない根無し草の身。どこかで野垂れ死にする末路よりは、幾分ましかもしれない。
「あんたの下にいれば、関係のない奴に手を出したりしないのか」
「ああ、もちろん。お前がここにいれば、何の問題もないわけだ」
「本当だろうな」
「二つの規則を守ってくれりゃあいい。たったそれだけだ」
きっぱりとした答えに、
頷いてしまった。
頭の片隅で、誰かが忠告を発している。だが、その声はあまりに遠く、言葉という輪郭が薄れてしまっていて、何を言っているのか分からなかった。
記憶の彼方にわずかに残っていた、道標だったはずのその声に背を向け、耳を塞いだ。
その声は以来、二度と聴こえることはなかった。
*
ラッズマイヤーの言葉に偽りはなかった。
おとなしく側にいて、与えられた仕事をまともにこなせば、充分な金額を支払った。
失敗に対しては挽回のチャンスをやり、期待以上の働きを見せれば、報酬を上乗せする。
言うことを聞いてさえいれば、確かに悪くはない状況だ。それは他の部下たちにとっても同じである。
端から見れば、理想的な環境だ。
そんな中にあって、レジナルドはもっとも気に入られる存在になっていた。初めは、妙な下心があるのでは、という疑いを拭えず警戒していたが、本当に男の趣味はないらしいことが分かった。
ではなぜ、そこまで気に入られたのだろう。何度も考えてみたが、ピンと来る答えは見つからなかった。
命令にへこへこ従うのは癪に障る。しかし、迂闊に機嫌を損ねて、暴れられても困りものだ。だから素直に従った。
ただし、頭は決して下げなかった。これをやれあれをやれと、命じられたことは遂行したが、望まれた以上の結果を出し、ラッズマイヤーに取り入るようなことだけはしなかった。
どうもそういった反骨精神が、気に入られた要因であるらしい。媚びもせず、持ち上げもせず、恐れもしないレジナルドの態度に、ラッズマイヤーは満足げに頷くのである。
ラッズマイヤーは表向き公平であるが、その実、部下全員に恐れられていた。
原因は異常なまでの執着心にある。
常日頃から申告しているとおり、ラッズマイヤーは“所有物”に対する支配欲が非常に強い。一度“自分のもの”と決めたものに、他人の手が触れることを、蛇蝎の如く嫌うのだ。
所有物に触れた者は、徹底的に制裁する。泣いて許しを請うても、ラッズマイヤーの気が晴れない限りは無駄なのだ。
そうやって部下たちの目の前で、裏切り者に暴力を振るう。頬の骨が砕け、歯がいくつも折れ、目は腫れ上がり、元の人相が分からなくなってしまっても、気が晴れなければ止まらないのだ。
もうやめろ、と、周囲から羽交い絞めにされても効き目はない。怒りの矛先が、違う人間に向くだけだ。
嫌気が差して、ラッズマイヤーから離れることを考えたのは、一度や二度ではない。
だが。
レジナルドが解放を訴えると、ラッズマイヤーは暴力を振るった。
レジナルドにではなく、無関係な他者に。
理不尽な暴力に巻き込まれた者を、見捨てるだけの覚悟と非情さを持ち合わせていれば、別離も可能だったかもしれない。
しかし、出来なかった。
目の前で、無関係な人間が、見せしめに傷つけられる様を黙って見過ごせるほど、裏社会の闇に染まりきれていなかったのだ。
旅の歩みを止めるべき場所ではなかった。
過ちに気づいた時には、すでに手遅れな状況に陥っていたのである。
恐るべき蛇に囚われてから、一年近く経った頃。
オフィスに一人の男がやってきた。ラッズマイヤーに用があるというその男、レジナルドは初めて見る相手だったが、裏では名の知れた人物らしく、すんなりと面通しが叶った。
樽のように膨らんだ筋肉と、丸太の如き手足を持つ男は、熊が人間に変化したような印象を与えた。
聞くところによると、裏稼業者に仕事を斡旋する〈窓口〉の一人であるそうだ。〈長〉の信頼も厚いという。
熊男は太い眉を寄せ、険しい表情でデスクの向こうのラッズマイヤーと対峙している。彼らの様子を、レジナルドは廊下からそっと伺った。
「ヴォルフ。俺のオフィスに来るとは珍しいな」
「ラッズ、俺がわざわざお前の所に足を運んだ訳を、まさか理解してねえなんてこたァねえだろう?」
ヴォルフと呼ばれた熊男は、ラッズマイヤーに一切気後れすることなく、堂々とした態度で接した。
「なんだよ。ブラッドリーの代わりに説教しに来たのか?」
「説教なんてもんじゃねえ。警告だ」
ヴォルフは丸太の腕を腰に当て、威圧的にラッズマイヤーを睨んだ。
「今に始まったことじゃあねえがな、このところのお前の行動は目に余る。これまで散々言い聞かせてきたことを、全部無視しやがって。これ以上好き勝手やるつもりなら、それなりの覚悟を決めてもらわにゃあならねえ」
「覚悟? ほう。そりゃ一体、何に対しての覚悟だ? 俺を今の地位から引きずり降ろすってことか? それとも〈長〉御自ら俺を懲らしめにでも来るってのか?」
「全部だ。あらゆる場合を想定しておけ。ジェラルドがお前に何をしようとも、俺は決してお前を庇いはせんからな」
二人の会話は、しばらく続いた。
やがて部屋から出てきた熊は、待機していたレジナルドの存在に気づき、片眉を上げた。
「お前が、ラッズのお気に入り、とかいう小僧か」
「そういう言い方やめてくれ」
ヴォルフは嘲笑うように鼻を鳴らし、首を横に振る。
「もとは単独行動のメッセンジャーだったらしいな。そのまま一人でやってりゃあよかったものを。あの野郎に目をつけられたのが運の尽きか」
そんなことは、もう嫌というほど分かりきっている。心の内に押し込めた不安を見透かされたような気がして、レジナルドは静かに動揺した。
だが、そんなことはおくびにも出さず、きっとヴォルフを見上げる。
「大きなお世話だよ。自分の意思で決めたことだ、他人にとやかく言われる筋合いはないね」
「そうかよ。だったら小僧、てめえはこの世でもっとも愚かな選択を一つした、ってことになるな。せいぜい足掻け、馬鹿野郎が」
ヴォルフは吐き捨て、のしりと背を向けた。そのまま去るかと思いきや、わずかに首を動かしてこちらを見た。
「何かあったら、サウンドベルの〈パープルヘイズ〉って店に来い。俺の店だ」
それだけを言い残し、ヴォルフは今度こそ帰って行った。
――この世でもっとも愚かな選択をした。
ヴォルフの言葉が、耳に焼きついて離れない。
惨めな現状を認めたくないばかりに目を背けていた事実を突きつけられ、足元が揺るがされる。
無理やりにでも落ち込んだ気分を晴らそうと、街をそぞろ歩いた。
特にどこへ向かおうと決めていたわけではなく、ただのろのろと歩き続けた。
辿り着いたのは公園だった。うららかな陽気の下、ピクニックを楽しむ家族、ベンチでおしゃべりしている恋人たち、アクティビティに興じる若者たちであふれる様は、闇の社会とはまったく無縁の、至極平和な光景だった。
そんな中にあって、自分一人だけ、異質な存在のように思えた。
太陽の光を浴びながらも、この身には汚泥のような闇がまとわりついている。光を受ければ受けるほど、闇は存在を主張し、光の下はお前のいるべき場所ではないと責められるようだ。
陰鬱な気持ちのまま、公園の中心にある円形花壇の縁に腰掛ける。花壇には、色とりどりの可憐な花々が咲き誇っており、人々の視界を潤している。だが、レジナルドの目に、美しい花の姿は映らなかった。
どこで間違ったのだろう。なぜこんな状況に陥ってしまったのか。
目を閉じ、いつの頃からか聴こえなくなった、優しい声を思い出そうとした。
正しい道に進むよう、忠告してくれていたあの声。もう聴こえなくなって久しい。
「くそったれ……」
膝に腕を置き、項垂れる。
すると。
背後から、わあっという歓声が聴こえてきた。
長いこと自分の内側だけに意識を傾けていたから、周囲の音が耳に入ってきていなかった。歓声によって意識を引き戻されたレジナルドは、何事かと振り返った。
円形花壇の向こう側に、人だかりが出来ていた。さほど大人数ではない。十二、三人程度だろうか。
彼らの視線は、一人の人物に捧げられていた。レジナルドから見て真後ろに位置する場所で、こちらに背を向けて立つ人物。ほっそりとしたシルエットから、女であることは分かった。
ギターの音が聴こえてくる。どうやら彼女が弾いているらしい。ストリートミュージシャンなのだろう。歌ってはおらず、曲だけを奏でている。
今日の陽気にふさわしい、アップテンポなメロディだ。最近ヒットしたポップナンバーである。
なかなかうまい、と思った。ストリートミュージシャンの演奏は、夜の街を歩いていれば、どこからでも聴こえてくる。彼女の演奏は、これまで耳にしてきたミュージシャンの中では、かなりうまい部類に入るだろう。
ただ、少しくせがある。それが彼女の持ち味なのかもしれない。
いつの間にかレジナルドは、名も無きストリートミュージシャンのギターに聴き入っていた。
やがて演奏が終わり、彼女は深々とお辞儀をする。観客たちは拍手を送り、蓋を開けたギターケースにチップを投げ入れ、去っていった。
彼女はチップを受け取るたびに、溌剌とした声で律儀に礼を言い、演奏を聴いてくれた人々に、もう一度頭を下げた。
ギターを片付け、もらったチップをバッグにしまい、彼女は円形花壇の縁に座る。
携帯タンブラーの中のドリンクを一口飲んだところで、ぴたりと動きが止まった。
レジナルドの視線に気づいたのか、ぐるりと首をめぐらせた。
向日葵色の大きな瞳が、真っ直ぐにレジナルドを見つめる。
視線が絡み合うと彼女は、
「こんちは」
朗らかに笑った。