TRACK-5 屑星恋歌 1
ここ数日暖かい日が続き、もう冬も終わろうかというこの時期だが、昨日の晩、急激に冷え込んだ。
北から吹いてくる風が肌を刺し、吐く息を白くする。吐いた息は北風にかき消され、すぐに見えなくなった。
灰色に濁った空には、陰鬱な乱層雲が広がっている。今夜は雪が降るだろう。
あの日もこんな空だった。
冬が間近に迫った十四歳の晩秋。すべてが壊れた。
*
「何を、してるんだよ、二人とも」
目にした光景が信じられず、呆然と立ち尽くす。声は喉に張りつき、ちゃんと言葉になったか分からない。
なぜ。
なぜ父の寝室で。
父と姉が抱き合っているのだ。裸で。汗にまみれて。
弟の存在に気づいた姉は、表情を引き攣らせ、大きな瞳を更に見開いた。その目が見る見るうちに潤み、大粒の涙があふれ出る。
「ジニー」
「姉さん……」
「見ないで。お願い、見ないでジニー」
匂い立つような姉の美貌が、苦痛に歪む。弟から顔を背け、すすり泣く。
姉に跨った父は、ぎしぎしとベッドを軋ませるのをやめない。薄ら笑いを浮かべて息子に向ける眼差しは、もはや生きる光を失っていた。どんよりと淀む瞳には、果たして本当に我が子が映っているのだろうか。
「おかえりジニー。今日は友達の家にお泊りじゃなかったのかい」
「父さん……」
父はまるで、いつもの日常会話をしているかのように言った。父はもう壊れている。自分の知っている父ではない。強く、優しく、有能な外科医として世間に名を馳せた、尊敬すべき父の姿はどこにもなかった。
「ごらんジニー。お前の姉さんは綺麗だろう? ああアリシア、とっても綺麗だよ。どんどんお母さんに似てきているね。綺麗だ、私のアリシア。私の、ニーナ」
ニーナ、ニーナと呼び続ける父。叫びたくなった。違う、それは姉さんの名前じゃない。母さんの名前じゃないか。
あんたが今抱いているのは、母さんじゃない。
止めなければ。そう思いはすれど、足は床に接着されたように動かない。
「ああ、そうだ。お母さんはね、いるんだよ」
「え?」
「家出なんかしてないんだよ。ずっといるんだよ。お母さんは」
「花壇にいるよ」
荒れ果てた花壇の土中から、白骨化した母親を見つけてからの記憶は曖昧だ。
気がついたら毛布に包まれて、階段に座り込んでいた。
家の外はざわめいていて、たくさんの赤色灯に照らされていた。私服と制服の警察官が大勢いて、家中をせわしなく動き回っている。
父が埋めた母の骨は、警察に連れて行かれた。
二台のストレッチャーを抱えた救急救命士たちが、二階から降りてきた。そのストレッチャーにはそれぞれ、姉と父が乗せられていた。
二人とも、裸のまま死んだ。
どこかに忍ばせていたナイフで、姉は父を刺殺し、その後自害らしい。
なにもかもが、遠い場所での出来事に思える。
視界の定まらない碧の目に映る世界は、薄墨を塗られたように不明瞭で、まるで悪夢が具現化したかのようだった。
そうだったなら、どれほど良かったことだろう。夢であってくれと、何度祈ったか分からない。
でも、どうにもならなかった。
一人の私服警官に引率され、警察署に連れて行かれたことは、少し覚えている。
調書を取られたのだ。何を訊かれたのかは思い出せない。家庭内の様子、両親や姉について、抱えていた問題、そんなようなことを訊かれたと思う。
訊かれたところで、うまく答えられるものでもなかった。母が不倫をしていたことなど知らなかったし、父と姉がいつから肉体関係を持っていたのかなど、知る由もない。
訊かれたくも知りたくもないことを、警察はずけずけと質問してくる。
うるさい。黙れ。そんなこと訊くな。人の家の事情を漁るな。知らないよ、知らない。何も知らない。黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
父の専属弁護士が迎えに来るまで、ずっと耳を塞いでいた。すべてを遮断し、何も受け入れなかった。
親族が駆けつけたのは、翌日の昼頃だったか。
父方の叔父夫婦と叔母である。従兄弟たちの姿はなかった。
親族とはいえ、叔父叔母とはたいして仲良くない。従兄弟たちがいてくれれば、少しは気分も晴れたかもしれない。
叔父叔母たちは、弁護士と頭を寄せあい、何やらしかつめらしい表情で話し合っている。
その輪の中には入れない。入れてくれないのだ。子どもには分からないことだと、高を括っているのだろう。
しかし、どうでもいい。何もする気になれないのだ、話し合いにも参加したくない。
どうぞ勝手に話を進めてくれ。
父の稼ぎで建てた屋敷を、我が物顔で闊歩する弁護士や親族たちを、ただただ冷ややかに見つめた。
親身になってくれたのは使用人くらいだが、彼女たちはやがて弁護士によって解雇され、どこかへ去って行ってしまった。
家の外には連日、うるさいマスコミ連中が押しかけた。不躾に写真を撮り、質問に答えてくれとしつこく大声を上げる。
有名な外科医が妻を殺して庭に埋め、正気を失くして娘と肉体関係を持ち、その娘に殺され、娘は自殺。これほどのゴシップネタ、見逃せるはずがない。
近所からも白い目で見られた。それまでは外科医の一家というだけでもてはやしていた人々が、あっさりと掌を返したのだ。
マスコミのインタビューにも答えていた。
「遺された息子さんが気の毒に」
口ではそう言いながら、あることないことを嬉々として喋る。おかげで根も葉もないデマが広がってしまった。父と娘との間には不義の子が出来ただの、姉は男遊びが激しく大学の講師とも寝ただの、姉と弟も関係を持っているだの。
あの口どもは、一度開いたら、捻じ曲げた事実を周囲に撒き散らさなければ生きていけないらしい。自分たちの退屈を紛らせてくれるものならば、風評被害にあうのが一人の未成年者であろうが関係ないのだ。
――どいつもこいつも。
考えているのは自分のことだけ。生きている周囲の屑連中も、死んでいった肉親たちも、誰一人こちらのことは考えてくれなかった。
事件から一週間後にようやく登校した。いつまでも休んでいるわけにもいかず、弁護士にせっつかれて、渋々重い腰を上げたのだ。
学校に行ったってろくなことにはなるまい。どんな目に遭うのかは、容易に想像がつく。
だが、一縷の望みもあった。友人たちが慰めてくれるかもしれない、と。学校を休んでいる間、心配している旨を綴ったメールをくれたのだから、きっと大丈夫だ。
それが甘い希望だったことは、すぐに理解させられた。
教室に一歩踏み入るや、一斉に向けられた、いくつもの冷たい視線。突き刺すような視線に耐え、勇気を振り絞って友人たちに声をかける。
おはよう。
だが返事はなかった。彼らはよそよそしい態度で目を逸らし、その場を離れていった。
ちやほやしていた女子生徒たちも、一人も近寄ってこなかった。容姿端麗で文武両道でも、犯罪者一家の息子となった者を、いままでどおりにもてはやすつもりはないらしい。
彼女たちの心変わりは、男子よりもスムーズだ。不登校の一週間に、もう別の「学園の貴公子」を見つけていた。
昼食時に学生食堂に行けば、好奇と蔑みの視線は何倍にも増す。居心地の悪さを感じながらもどうにか耐え、ランチを載せたトレーを抱えて、席を探した。
友人たちを見つけたが、無視された。失意のままテーブルの間をさ迷っていると、何かに躓いて前のめりに倒れた。
トレーが落ち、ランチが床にぶちまけられる。倒れた原因を見てみれば、一人の男子生徒の足ではないか。
転ばせた本人は、にやにやと底意地の悪い笑みを浮かべていた。別のクラスにいる、リーダー格の少年だ。名前くらいは知っている。
彼の取り巻き連中も、同じように笑いながら、無作法にもこちらを指差す。
かっとなって立ち上がり、足をひっかけた少年に反抗した。
「何をするんだ、危ないじゃないか」
「『何をするんだ、危ないじゃないか』」
そいつは口真似を返してきた。口調が完全に馬鹿にしている。
「真似をするなよ、不愉快だ」
「『真似をするなよ、不愉快だ』」
「やめろ、何度も言わせないでくれ」
「『やめろ、何度も言わせないでくれ』」
「やめろったら!」
「『やめろったら!』 うるせえよ! 変態犯罪者一家の一員のくせに、罪のない俺たちに話しかけんじゃねえ!」
突き飛ばされた。強い力だ。
「犯罪者の息子が、こんな所に来るなよ。飯が不味くなるだろ? すました顔で来やがって、まだ王子様気取りか? もう誰もお前なんかちやほやしねえんだよ」
悔しくて睨むと、髪をつかまれた。
「なんだよ、その目は。お前のことは前から気に入らなかったんだ。女みてえな顔しやがってよ。勉強が出来るからって、いい気になってんじゃねえぞ。もうお前の居場所はここにはねえ。とっとと出て行け。それかいっそ死んじまえ」
理不尽だ。あまりにも理不尽すぎる。
どうしてこんな目に遭わなければならないんだ。何も悪いことはしていないのに。
爆発した感情は抑えることが出来ず、周囲に止められるまで、その男子生徒と殴り合った。
当然のように校長に呼び出された。因縁をつけてきた男子は、さきほどまでの威勢とは打って変わってしおらしくなり、すみませんでした、と謝罪した。
笑ってしまうような猿芝居だ。悪かったなどとは、当然思っていないだろう。
こちらも同じように謝罪の言葉を述べた。二人とも反省の意を示したが、男子生徒だけが先に解放された。
一人残され、困り果てた表情の校長と向き合った。五十代前半の校長は、教師や生徒、保護者からの信頼厚い人格者である。尊敬に値する人物だ。その校長を失望させたかと思うと、胸が痛い。
「騒ぎを起こして、申し訳ありませんでした」
もう一度謝罪すると、校長は深い溜め息をつき、かすかに首を横に振った。
「君ともあろう者が、こんなことをしでかすとは。気持ちが分からないわけではないよ、今はとても大変な時期だからね。不安で仕方がないだろうし、不満を周囲にぶつけたくなる気持ちも理解できる。だが、実行に移さないだけの分別が、本来の君にはあるはずだ」
「はい。反省しています」
うな垂れていると、校長はゆっくり部屋の中を歩き出した。
「君は我が校でもっとも優秀な生徒の一人であり、誇りでもある。君のような生徒の芽が摘まれてしまうのを見るのは忍びない。君を手放すのは非常に惜しいが、私は転校を薦めるよ」
「はい、分かります」
それしかないと、自分でも考えていた。もうこの学校にはいられない。この町にもいられない。どこか、別の場所でやり直さなければ。
「とはいえ、問題がなくもないのだ」
「分かっています。僕の受け入れ先が決まるのかどうか、ですよね」
犯罪者遺族である生徒を受け入れる、というのは、学校側にとっても評判によくないことだろう。受け入れ校の決定が難航することは覚悟していた。
校長は重々しく頷いた。
「もちろん、君は何一つ悪くない。家族に犯罪者がいるからといって、差別していいはずがない。周囲から不当な扱いを受けることも、あってはならない。しかしながら、そういった世間の目を完全に無視することが出来ないのが現実」
「はい」
「仮に転校先が決まったとしても、そこが“良い学校”ではないかもしれない」
「でも、この際文句は言えませんから」
「そうかね? 君ほど学力を持つ生徒ならば、少なくとも我が校と同等の転校先を望むだろうに」
母校は屈指の進学校だ。ここと同レベルの学校となれば、行き先は絞られてくる。そして、そういった学校であれば、なおのこと“犯罪者の息子”という属性が不利になるだろう。敷居の高い学校は、校風を守るために、出来る限り不穏分子を排除するからだ。
「ですが、今の僕には望めないことです」
「そうだね。だが、私なら出来る」
後ろから肩に手を置かれた。気遣いを見せてくれているのだろうと思ったが、そうではなかった。
「私の口添えがあれば、君を望みの学校に転入させてやれる。私は顔が広いのだよ。たとえ犯罪者の遺族であろうとも、生徒一人を転入させるなど造作もないことだ。とはいえ、無条件というわけにもいかない」
肩に置かれた手が、するすると腕を伝い下りていった。校長が背中にぴたりと張りつき、息が耳にかかる。
「校長先生、なにを……」
「難しいことじゃない。私のかける手間に見合ったものを、返してくれればいいのだよ」
卑猥な手つきで下腹部に触れようとする手から逃れるため、校長を思い切り突き飛ばした。
拒絶された校長は、人当たりのいい人格者の仮面を、たちまち脱ぎ捨てた。虫けらを見るような目つきで睨み、口の端を曲げて蔑笑する。
「し、失礼します」
暇を告げて部屋を出た。校長が声をかけてくることはなかった。
動揺を鎮めることができなかった。授業中だった教室に戻り、スクールバッグを掴んで出て行った。教師が制止の声をかけてきたが、足を止めることも、振り返ることもしなかった。
学校には味方がいない。友人は離れていき、尊敬していた校長でさえあんなことを。
なぜこんな思いをしなければならないのか。重い足取りで、どうにか帰宅すると、リビングに弁護士の姿があった。
まだいたのか。
親族連中が帰ったあとも、この男は居座り続け、毎日どこかに電話している。
忌々しい。早く出て行ってくれ。もう用は済んだだろうに。
今日も電話している、弁護士とは忙しい生き物だ。こちらに背を向けているので、帰宅したことに気づいていないらしい。
二階の自室に向かう途中、弁護士の話し声が、やけにはっきりと聞こえてきた。
「だから問題ない。あの親族どもは頭が緩い。少しはずませて金を渡せば、それで手を引くはずだ。問題は遺ったガキだよ。あいつは小賢しいからな。あのガキさえどうにかすれば、この家は俺たちのものさ、ハニー」
黙れ。
黙れ黙れ。
黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。
金が欲しいか。地位が欲しいか。家が欲しいか。身体が欲しいか。
これ以上何を奪っていくつもりだ。
部屋に戻って、すぐに荷物をまとめた。ボストンバッグに詰められるだけ詰めた。
深夜、弁護士が勝手に使っている客間で寝静まるのを待ち、家を出た。
かなり冷え込む夜だった。吐く息がたちまち白くなり、宵闇の彼方に消えていく。
見上げた夜空で、ちらちらと星が瞬いている。都会の空では、星があまりみえないが、今夜は空気が澄んでいるらしい。
南の空には半月が浮かんでいた。淡い銀白の光に包まれ、静寂の輝きを地上に落とす。
月を見ているうち、自然と携帯端末を握り締めた。口座には、今まで貯めてきた小遣いが貯金されている。無駄遣いせず、こつこつと地道に貯めてきた金だ。
その金で、天体望遠鏡を買うつもりだった。一般家庭が所有する程度のものより、少しグレードの高い望遠鏡が欲しかった。
自分だけの望遠鏡で、彼方の宇宙を、月を思う存分見たかった。
あの月には、打ち捨てられた廃墟が残っている。その昔、〈政府〉によって月面学術都市が建設される計画が立てられていた。しかし、建設途中で爆発事故が発生し、計画は頓挫してしまった。以来、計画は凍結したまま、再開のめどが立たないままでいる。
いつか。
いつかあの月に行って、都市開発に携わりたい。そんな風に思っていたけれど。
少しずつ、少しずつ積み重ねていって、もう少しで手が届きそうだったけれど。
この金を、望遠鏡のために使う日は、二度と来ないだろう。
握ったエレフォンに、雫が一粒、ぽとりと落ちた。
それが雨ではなく、頬を伝い落ちる涙だったと気づいた時には、喉が張り裂けんばかりに、声を上げて泣いていた。
やがて空からは、冷たく白い粒が舞い落ちてきた。
例年より早い初雪が降った日。
生まれ育った町を出て、それから二度と戻らなかった。