TRACK-4 疾氷 2
さっきから鋭い目線が、心臓を抉り抜かんばかりに突き刺さってくる。
一直線に送られる目線の源は碧色で、その瞳には感情が見られない。
おそらくは怒っている。だが無表情なので、真相は分からない。今はいかなる物事でも、レジーニの感情を揺り動かすことは出来ないだろう。
たとえ愛車のボンネットに、どっかりと成人男子が座り込んでいても、だ。
ムラなく塗られたワックスでつやつやに磨き上げられた、黒い高級スポーツカーのボンネットに、エヴァンは胡坐を掻いている。靴底の汚れもそのままに。
普段こんなことをしたら、即刻叩きのめされている。しかしレジーニは眉一つ動かさなかった。怒鳴ることも、引きずり降ろして仕置きを与えることもしなかった。
その代わり、一切の感情を消した目で、冷ややかに見つめるのだ。
はっきり言って怖い。レジーニの無言の重圧は恐ろしい。だが退けない。
「おっす」
わざと軽い口調で声をかけた。
「待ってたぜ」
「轢き殺されたいのか」
ようやく発せられた言葉は、思ったとおりに辛辣だった。
「轢き殺されたかねえけど、お前が俺をおいていくってんなら、へばりついてでもついてくぞ」
「何の話だ」
「すっとぼけんなよ。どこに行こうとしてんのか、知ってんだからな」
ボンネットから飛び降り、つかつかと相棒に歩み寄る。
「ファイ=ローから聞いてる。今日、ラッズマイヤーって奴が現れる場所に行くつもりなんだろ」
情報源は、ローが身柄を確保したある男だ。その男こそ、ラッズマイヤーの居場所を聞き出すために、レジーニがアンダータウンで追い回していた人物である。
男はその昔、レジーニとともにラッズマイヤーの下にいた経歴の持ち主だった。ラッズマイヤーはアトランヴィルに帰還した直後、この男と接触したらしい。
「一人で乗り込むつもりだろ」
「だったら何だ。お前には関係ない」
「お前には関係なくても、俺には関係ある。俺たちはコンビだ。放っとくわけにはいかねえ」
レジーニは無言のまま、エヴァンを静かに睨み続ける。やがて目線をそらすと、エヴァンの脇を通り過ぎて、車に乗り込んだ。すぐさまエンジンがかかる。
エヴァンは慌てて助手席に乗った。レジーニは何も反応しなかった。
降りろとも言わなかった。
*
人気の多い表通りから離れた区域。海にも近い、寂れたその場所の一角に、打ち捨てられた工場廃墟がある。
敷地はかなり広い。もとは何の工場だったのか、それを連想させるものは見られない。防錆製の骨組みだけが、稼動していた当時の状態を保っていた。それがなんともいえない哀愁を漂わせる。
瓦礫と雑草と埃だらけの道を、十人ほどの男たちが歩いていく。皆、ひと目で「真っ当ではない」と分かる雰囲気を纏っていた。彼らのうちの一人は、革張りのケースを抱えていた。
男たちは、ある人物を囲むように陣を組んでいる。彼らに守られながら、悠々と歩を進めているのは、色白の男であった。
高級ブランドのスーツとコートに身を包み、黒い皮の手袋をはめている。色素の薄い金髪は後ろに撫でつけており、左目の下から顎にかけて生々しい傷痕があった。
男の目は整ったアーモンド型で、ハンサムといってもいい顔立ちだ。だがその目つきからは、温かい血が通っているようには見えず、生まれて間もない雛を追い詰めた蛇にも似た狡猾さを、鈍く光らせていた。
円陣よりやや後方を、二人の男が並んでついていく。小柄な男とひょろりとした長身の二人組だ。
「しっかしまー、いかにもな場所やな。悪い事するにはうってつけっちゅー感じや」
マキシマム・ゲルトーは、両手を頭の後ろで組み、廃墟を見上げる。
「こういう場所はとっとと新地にして、お子さまの教育によろしいレジャー施設なんか建てたったらええねん。いつまーでもこんなとこ残しとるから、悪い事する奴らがはびこんねんな。害虫もわいて、衛生的にもよろしくないわ」
「俺らも同じ穴の狢やけどね」
長身の男――ディーノ・ディーゲンハルトは苦笑する。
「あの人、俺らになんも言ってけーへんね」
ディーノが顎をしゃくって示すのは、円陣に囲まれた男である。
「俺らの“狩り方”には文句言わんて話やけど、これでええんかな」
「ええんや、これで」
マックスはきっぱりと肯定した。
「ええの?」
「ええねん。スケコマシのねちっこい性格考えてみ。そろそろ向こうから来るで。自分を呼んどるのが、因縁深い相手やったんならなおさらや」
「ほな、俺らはどうすんの」
「何も変わらん。俺らは俺らの仕事をこなすだけや。当初の予定どおりにな」
かなり音量を落としていたつもりだが、円陣の後方にいた連中には聞こえていたようだ。一人が振り返り、
「うるさいぞ賞金稼ぎ。ついてくるなら黙ってろ」
睨まれた。話の内容まで聞かれなかったのは幸いだ。
一行は廃墟の内部に踏み入り、更に奥へ進む。やがて到着したのは、建物の骨組みが露出した、開けた空間だった。
そこでは先客が待っていた。先客もまた、複数人の男らで固まっており、険しい表情で出迎えた。
先客グループの前には、工場の備品であっただろう古ぼけたテーブルが置かれていた。
マックスたちの一団は、そのテーブルの手前で行軍を止め、先客らと向かい合う。
マックスとディーノは少し離れて、相手側の様子も分かる位置に陣取った。
円陣の内側にいた男が、音もなく進み出る。先客グループを舐めるように見渡し、両手を広げた。
「ご足労だったな、親愛なる友人たち。今日は風が一層冷たいが、なあに、晴天だ。天気予報では雪も雨も降らないそうだぞ。商談にはうってつけの日だ。そう思わないか?」
場の空気に似合わない、奇妙なまでに明るい口調で、男は話す。
「さて、こんな気持ちのいい天気に、俺は機嫌を損ねたくない。滞りなくスムーズに、かつ大胆で刺激的に。商談はテキパキと進めるのが正解だ。ところがどうした、さっそく俺の機嫌を損ねかねない事態が起きているじゃないか。俺のクライアントはどこだ」
テーブルの向こうにいるうちの一人が、数歩進み出て答えた。
「本人は奥で待機している。こちらも危ない橋を渡っているんでね。お宅が信用できるという確証を得るまで、この場には立たない。かまわんか? ラッズマイヤー」
彼――ラッズマイヤーは、小刻みに肩を揺らし、声を殺してくつくつと笑った。
「信用できるかどうか? 疑ってるのか、俺を? 冗談はやめてくれ。いったい今までどれだけ対話してきたと思ってるんだ。毎回毎回、誠実に対応してきただろう? おたくらの無理難題を攻略するのに、どれだけ苦労したと思ってる。え? おたくら今まで、俺の何を見てきたんだ。疑うなんてひどい仕打ちじゃないか」
ラッズマイヤーは舞台俳優よろしく、大げさな身振り手振りで嘆いた。傷ついたように眉根を寄せてはいるが、心底からの気持ちでないことは、傍目にも明らかだ。
白々しいやっちゃ、と、マックスは鼻をこする。胡散臭い人間を前にすると、鼻がむずがゆくなって仕方がない。
ヴェン・ラッズマイヤーの悪名は、マックスとディーノが属するゾーンにまで轟いている。残忍無慈悲、冷酷にして凶暴。加虐的で陰湿。
だがその程度の評価のついた人物など、裏社会においてはそこらじゅうに存在する。ラッズマイヤーがそれらの括りから飛び抜けているのは、異常なまでの“執着心”だ。
相手側の男たちは、ラッズマイヤーの仰々しい訴えには動じなかった。
「なんと言われようと、まずは誠意を見せてもらいたい。ラッズマイヤー、あんたは手放しで信用するには危険すぎる」
これを聞いたラッズマイヤーは、鼻息を吹いて嘲笑した。
「そういう信用できない奴を取引相手に選んだのはどこのどいつだ。ご主人様の顔色に怯えながら、こそこそとキナ臭い裏取引やってる連中が笑わせる」
ラッズマイヤーは片手を挙げ、後方の部下に合図を送った。
皮のケースを持った男が進み出て、テーブルの上に置く。ラッズマイヤーはケースの留め具を外して蓋を開け、中身が見えるように相手側に向けた。
ケースの中には、透明袋に入った白い粉が、ぎっしりと詰まっていた。ラッズマイヤーは一つを手に取り、宙に放ってはキャッチして弄ぶ。
「正真正銘、イウィア産の新作だ。無味無臭、感触は片栗粉に近い。溶かしてもいい。炙ってもいい。検査をパスしたけりゃ炭酸を飲め。警察犬も反応しない。これだけの性質で混じりっ気なし、効果は抜群」
ラッズマイヤーは弄んでいた一袋を、相手側に投げた。テーブルに落ちたそれを拾った彼らは、顔を見合わせた。
「どうだ。オーダーをクリアしたぞ。これを三ダース用意してある。まずは一ケースやる。代金も一ケース分で結構だ。残りは二つに分ける。指定の銀行にそれぞれ振込されたのを確認できたら渡す」
「本物だろうな」
「疑うなら好きにしろ。この取引はなしだ。羽振りのいい客はよそにもいるんでね。俺は一向に困らない」
「分かった。少し待て。奥で話をしてくる」
彼らが退席しようとすると、ラッズマイヤーはそれを止めた。
「いや、待つのはそっちだ。奥で話だと? 俺の言い分を聞いてなかったのか。俺は最初に、クライアントはどこだ、と尋ねたな? 俺は、俺のクライアントとしか取引しない。代理人は認めん。分かったら今すぐここへ連れて来い」
ラッズマイヤーは人差し指を立て、神経質に地面を指した。
「この場に立つかどうかは本人が決める。逃げやしない。いいから待っていろ」
(どうでもええから、早よ顔見せえなドアホ)
悪人どものやり取りを遠巻きに見守るマックスは、苛々と爪先を踏み鳴らした。ラッズマイヤーのクライアントとやらには、ぜひともこの場に現れていただきたいものだ。でなければ、わざわざラッズマイヤーと“手を組んだ”意味がない。
「マックス、ちょっと落ち着きや」
ディーノが小声で注意したその時、あたりに怒号が響き渡った。ぎょっとした賞金稼ぎコンビは、そろって怒号の震源地に目をやる。
「御託は聞き飽きた! 俺の言うとおりにしろ! クライアントを、ここへ、連れて来い! 今すぐにだ!」
痺れを切らしたラッズマイヤーが、勢いよくテーブルを殴りつけた。それが合図かのように、彼の部下たちが一斉に銃を抜く。取引相手側も、ほぼ同時に得物を構えた。
一瞬にして、その場の空気が張り詰める。
「おお? こりゃドンパチ始まるか?」
きらりと瞳を光らせ、両陣営を交互に見るマックス。対するディーノはげんなりして肩を落とした。
「参加しようとか思わんといてよ。ドンパチ始まるなら、俺らはその間に」
「分かっとるわ。誰が参加するかい」
「ほな、なんで銃持ってん」
「深い意味はないわ。子どもがぬいぐるみ抱えて寝んのが落ち着くんと、心理的には一緒や。つまりこれは、俺にとってのぬいぐるみやな」
「もう大きいんやから、ぬいぐるみは卒業しなさい」
ディーノはマックスの肩を軽く叩いた。
「これ以上怒らせるなよ、な?」
一触即発の現場では、ラッズマイヤーが声色を抑えて、忠告を述べている。
「立場が危ういのはお互い様だろう。だからこそ、ここではできるだけ穏便に済ませたいと思わないか? 無駄な血が流れるのは心が痛む。俺の言うとおりにしてくれれば、そんな悲しいことにはならない。神に誓おう」
片手を挙げるラッズマイヤー。その言葉が嘘偽りにまみれていることなど、マックスとディーノは理解していた。
「しゃーないな、もう。始まったら、さっさと奥に行くで」
マックスは相方に顔を向け、頷いて応えるのを確認する。
その時、視線の先に、新たな訪問者の姿を見た。
コツコツと響く靴音に気づいた男たちが、一人また一人と後ろを振り返る。
そのうちの一人が、ラッズマイヤーに声をかけた。
ラッズマイヤーが後方に身体を向ける。
人のぬくもりのない蛇の眼差しが、不気味に歪む。彼は部下たちに、左右に分かれるよう指示した。
十戒の如く割れた男たちの間を、訪問者の二人が進んでいく。
先に立つのは眼鏡をかけた、スーツ姿の美男子。その後ろに、茶色交じりの金髪の若者。
ラッズマイヤーは訪れたスーツの男を見て、声を上げて笑った。