TRACK-4 疾氷 1
「あいつの過去に何があったのか、詳しいことは俺にも分からん」
ヴォルフは呟くように話しながら、のしのしと歩を進める。エヴァンはその隣で、耳を傾けていた。
アンダータウンをあとにした二人は、おなじみの喧騒の中を並んで歩いた。さきほどまで地下の異空間にいたためか、地上の景色がいつも以上に整然として見える。
「俺があいつと初めて会ったのは、まだラッズマイヤーの部下だった時だ。お前と同じ年の頃だったな。その時期にルシアという娘と付き合っていた」
「ルシア……」
エヴァンは口の中で、見知らぬ、そして決して会えることのない女性の名を唱えた。
ヴォルフは話を続ける。
「俺たちはその頃、たいして交流がなくてな。ただ、昔のあいつは、お前に似ていた」
「俺とレジーニが?」
「ああ。お前みたいなまるっきりのバカじゃあなかったが、中身は通じるものがあったぞ。若さゆえの短慮さだとか、危なっかしさだとかな」
エヴァンには信じられない言葉である。自分の知るレジナルド・アンセルムとは、真逆ではないか。
それを伝えると、ヴォルフは頷いた。
「そうだな。だがなエヴァンよ。俺は今でも、根っこの部分じゃお前と同じものを持っていると思っている。いったん火がついたら止まらねえ。今の様子を見れば分かるだろ。今のレジーニは、ラッズマイヤーへの憎しみを糧に突っ走ってやがる」
「それってつまり、復讐ってことか?」
ヴォルフはこれには答えなかった。
レジーニが暴走しているのは、恋人を殺した人物を追っているからだ。では、何のためにそいつを追うのかと考えれば、答えは一つしか思い浮かんでこない。
(復讐、か)
鳩尾のあたりが、きりきりと軋む。
「なんでその、ルシアって子は殺されたんだ?」
「見せしめだ」
ヴォルフは嫌悪もあらわに吐き出した。
「レジーニはルシアと一緒になるために、ラッズマイヤーのところから足を洗おうとしていたんだ。奴は足抜けの代償に、ルシアの命を奪ったのさ」
「なんだよそれ、彼女関係ないだろ!」
「そういう男なんだ、ラッズマイヤーというのは。もし詳しく知りたけりゃストロベリーに聞くといい。あいつの方が事情をよく知ってる。だが、今はやめておいてやれ。ラッズマイヤーが戻ってきたことに、あいつも動揺してるはずだ」
頭上の高架線路を、スカイリニアが走っていった。何気なく視線を上げていたヴォルフは、車両を見送りながらぽつりと言った。
「ストロベリーにとっちゃ、ルシアは妹みたいなもんだったろうからな」
晴天の夜空を、寝転がって見上げる。コンクリートの地面は冷たい。
アパートメントの屋上は、エヴァン以外に誰もいなかった。冬の夜、こんな所に来る者は他にいるまい。
晴れてはいるのだが、星はほとんど見えなかった。地上の光が強すぎるために、天の輝きが降りてこられないのだ。
本当なら、ダイヤモンドの粒のような星々が、光の言葉を囁きあっているはずなのに。
冷たい風に身を晒していると、相棒のことが思い出される。
誰も触れられない氷の中に心を閉じ込め、自ら氷点下の世界に留まり、吹雪の
荒野を一人突き進んでいる。
呼び戻そうとしても、咆哮のような暴風に声はかき消され、届かない。
たった一人で、どこへ行こうとしているのだろう。
「バーカ」
何処にいるのか知れない相棒に向けて、いつも言われている言葉を返す。
と、屋上の扉が開く音がした。首を曲げてそちらを見る。扉から漏れる屋内の光を背に立っているのは、アルフォンセだった。
「アル」
愛しい名前を呟き、上半身を起こす。
「こんな所で何してるの? 寒いでしょう?」
アルフォンセは心配そうに首を傾げた。
「ちょっと考え事があってさ。珍しいだろ、俺にしちゃ」
おどけて笑ってみせる。
アルフォンセは風に揺れる髪を整え、しずしずと歩み寄ってきた。
「となり、いい?」
「いいけど、ここ寒いぜ? 風邪引いちまうよ」
「でも、エヴァンはまだここにいるんでしょ」
「ああ、うん」
頷くと、アルフォンセはエヴァンの横に、ちょこんと座った。彼女の纏うよい香りが漂ってきて、エヴァンの鼻孔をくすぐった。抱き締めて口付けしたくなる。
だがエヴァンは、先日のような本能に身をまかせた行動はとらず、代わりにパーカーを脱いでアルフォンセの肩にかけた。
「あ、ありがとう。でも、これじゃエヴァンが寒くなるわ」
「俺はいいよ。このくらい平気だ」
アルフォンセを凍えさせるわけにはいかない。それに、もっと寒いところに身を置いている男がいる。
冷たい空気に包まれれば、彼の気持ちに、少しは近づけるだろうか。
アルフォンセはパーカーを巻きつけ、そっとエヴァンに寄り添った。彼女の体温が伝わってくる。それだけで、充分幸せだ。
「何かあったの?」
吸い込まれそうな深海色の瞳が、気遣わしげに顔を覗く。
「何かあったように見える?」
「見える」
素直に頷くアルフォンセ。エヴァンは話すべきかどうか迷った。彼女には余計な心配をさせたくない。それはレジーニも同じ思いだろう。しかし、事情から一人取り残されるのがどんな気分かも理解している。
「レジーニが暴走してる」
「レジーニさんが?」
アルフォンセは大きな瞳を、更に大きく見開いた。
「暴走ってどういうこと?」
「昔の仲間……いや、あいつが部下としてついていた奴が、今アトランヴィルのどこかにいるらしいんだ。レジーニは血眼になってそいつを追ってる。恋人の仇らしい」
アルフォンセが小さく息を呑んだ。
「仇って、それじゃあ」
「殺されたんだ、そいつに」
「復讐するつもりなの? レジーニさん」
「うん。たぶん」
たぶん、ではない。間違いなくそのつもりのはずだ。
「でも、レジーニの過去に何があったのか、俺は知らない。ヴォルフに少し聞いただけだ。あいつの口からは、一言も聞かされてない」
エヴァンは胡坐をかき、夜空と地上の境目をぼんやりと眺める。
「レジーニは俺には、自分のこと話してくれないんだ。昔のこととか、いろいろ。訊いても無駄。助けたくても、事情が分からなきゃどうしようもないだろ? なのに」
柄にもなく、悩ましいため息をつく。マックスに言われた言葉が脳裏に蘇り、更に憂鬱になった。
――お前、相方のくせに信用されとらんのとちゃうか。
心に重くのしかかるのが、どうにも腹立たしい。ライバルからの指摘なので尚更だ。
「やっぱり俺、まだ信用されてねえのかな。いいコンビだと思ってんだけどな、俺は」
「私もそう思うよ。エヴァンとレジーニさん、すごくいいコンビだと思う」
と、アルフォンセはきっぱりと同意した。
「信用されてないなんて、そんなことはないんじゃないかな。私、少しだけ分かる気がするの、レジーニさんの気持ち」
「ほんとに?」
「うん。きっとね、怖いんだと思うの。誰かを信じるのも、誰かに信用されるのも」
「なんでそんなことが分かるんだ?」
「私がそうだったから」
意外な答えだった。エヴァンは思わず、アルフォンセの顔を覗き込む。アルフォンセは気まずそうに、少しだけ目線をそらした。
「私も一時期、他人を信じるのが怖かったの。近づいてくる人たちみんな、どこか打算的に見えてたのね。この人は“私”と関わりたいんじゃない、この人が求めているのは、“私の背景にあるもの”なんだって」
「背景って?」
「父のことよ。〈イーデル〉と国防研(国家防衛研究所)に勤めていた父には、各方面のコネクションがあったの。私と兄は小さいときから、そういう父のコネを頼ってくる大人たちに囲まれてきた。私たちをなつかせて、父とそのコネに近づくために」
兄。そういえばアルフォンセには兄がいたのだった、と、エヴァンは思い出す。彼女の兄は、父親と同様〈イーデル〉の研究者だったそうだ。十年前の大事件〈パンデミック〉で亡くなったという。
「私は小さかった頃、そんな大人の事情なんて分からなかったけど、兄は頭がよかったからすぐに見抜いていたわ。兄は人当たりのいい性格を装って、うまくやり過ごしていた。私が彼らに利用されないように、守ってもくれた」
兄のことを思い出したのだろう。アルフォンセの目は次第に潤んでいった。
「成長するに従って、私にもそういう事情が分かるようになった。そうなると、周りが向けてくる視線が怖くなってくるの。私のこと、ただの道具としかみていないんだろうなって。そんな中でもね、学校では本当の友情をもって接してくれる友達は何人かいてくれた。でも」
潤んだ瞳が、寂しげに下を向く。
「心から信じるのが怖かった。この人は本当に私と友達でいてくれるんだろうか、本当は別の目的があるんじゃないかって、疑心暗鬼になっちゃうの。そんな考え、とても失礼だって分かるんだけど」
かすかに震えるため息ひとつ。
「信じることが怖いのは、いつか裏切られるかもしれないと思うからだけじゃない。信じた人を失ってしまうことも怖いの。自分にとって大切な存在だった人が、ある日いなくなってしまったらどうしようって、そんなことを考えるようになるから。失って傷つくのが怖いのよ」
アルフォンセは顔を上げ、エヴァンの方に身体ごと向き直った。
「誰かを信じるということは、自分のいろんな面を見せるっていうこと。自分をすべて曝け出してもいいと思える相手が出来るっていうこと。だけどその分、失った時のショックが大きくなる。失う痛みを知っていれば尚更。レジーニさんもそうなんじゃないかしら。大切な人を奪われて、心に深い傷を負ってしまっているの。だから、また誰かと深い関係を築いて、失くして傷つきたくないの」
「あいつが、そんな風に……」
いつもクールに澄ましている相棒の顔が思い浮かぶ。言動はスマートで無駄がない。仕事も身なりも完璧。加えて容姿端麗。まさに非の打ち所なし。
ポーカーフェイスで感情をあらわにしない相棒が、内にそんな暗い思いを抱えているとは考えもしなかった。
レジナルド・アンセルムが、何かに怯えながら生きているなどとは、まったく想像できなかった。
「アルは今でも、他人に対してそんな風に思ってるのか?」
自分のことも、もしかしたら疑っているんだろうか。やや不安になりつつもそう尋ねると、アルフォンセは柔らかく首を振った。
「ううん、違う。今は心から信じられる人たちがたくさんいるわ」
彼女の瞳は、もう乾いていた。双眸は、星の瞬きを映した水面のように、ささやかにきらめいている。
「そうなれたのは、あなたのおかげ。あなたは真っ直ぐに人と向き合う。傷つくかもしれないのに、逃げないで受け止めようとする。そうやって受け入れてくれる存在が救いになるの」
「アル」
「だからエヴァン。レジーニさんのそばにいてね。あの人を一人にしちゃ駄目。心は氷の中で閉ざされているかもしれないけれど、氷は溶かすことができる。それには太陽の光が必要なの」
「俺に、出来るかな」
「出来るよ、エヴァンなら」
細い指がエヴァンの指に触れる。エヴァンはアルフォンセの冷えた手をとった。指と指とが、自然に絡まり合う。
「エヴァンにしか出来ないと思う。レジーニさんを救って。私を救ってくれたように」
星を宿した深海色の瞳が、揺らぐことなくエヴァンを見つめる。冷たい空気にさらされ続けた頬と耳が、急速に熱を帯びた。絡んだ手をそっと引き寄せると、拒むことなく身を預ける。
アルフォンセの額から顎にかけての輪郭を優しく撫でる。恥ずかしそうに俯いた彼女を、顎に手をかけて上に向かせた。
互いの吐く白い息が溶け合って、風の中に消えた。
唇がほんのわずか、触れるか触れないかという一瞬。
突然、別の衝動がエヴァンを襲い、慌てて顔を横に向けた。
「へっくし!」
気の抜けるような声とともに、強い呼気を発した。ちょっとだけ鼻水が出る。
「だああああああッ! くっそーーーーッ! 肝心な時にキマらねーなこんちくしょー!」
あまりにも悔しかったので、思わず声に出した。すぐそばにアルフォンセがいることを思い出し、慌てて取り繕う。
「あ、その、つまりさ、えーっと」
照れ隠しに頭を掻くエヴァンを見て、アルフォンセはぷっと吹き出した。
「ごめんなさい。私がパーカー借りたままだから、すっかり冷えちゃったね」
「いや、いいんだそれは、ほんと」
アルフォンセは朗らかに、くすくす笑っている。そんな彼女を見て、
(まあ、いいか)
非常に惜しかったが、彼女の笑顔が見られた。それだけでもいいとしよう。
「戻ろうか」
「ええ」
立ち上がり、手を差し伸べると、アルフォンセは頷いて握り返すのだった。