四
その日は朝から、石造りの広い工房内に何とも言えない、腐卵と汚水が混じり合ったような猛烈な臭いが充満していた。
半分以上が地中に埋まっている構造故に天井付近に備え付けられた窓は閉め切られ、おまけに一昨日降った大雨のせいか泥で下半分をコーティングされ開きそうもなく、室内は完全な密室と化していた。
常人ならば室内に足を踏み入れた瞬間引き返し、鼻の良い獣人などは気絶してしまうのでは、と思えるほど強烈な悪臭。
それは火に掛けられた、たった一つの錬金鍋から放たれていた。
驚くべきことに、昨晩からその錬金鍋の前に腰掛けているというのに、工房の主は顔色も変えずに淡々と作業を続けている。
古より伝わりし、神の御業を人が再現する学問……錬金術を持ってしてこの工房内の惨状を作りだした、ある意味で諸悪の根源である美貌の錬金術師――アルファードは、立ち上る湯気が顔をかすめようとも僅かに目を細め、眉を寄せるのみで黙々と手を動かし続ける。
アルファードが鍋の底に沈んでいた玉杓子をすくい上げれば、濃い青色の粘度の高い液体がどろりと銀色を伝い鍋に落ちた。
使い古された錬金鍋を覗きこめば、その中ではおおよそこの世の物とは思えない、不気味なことこの上ない液体が精製されていた。
ぽこりぽこりと底からわき上がる気泡の色は黄色。眼に痛い蛍光色の気泡は周りの色と混ざり合い、真っ青だった鍋の中を徐々に緑に染めていく。時折しゅうしゅうと音を立てながら湧き上がる煙は紫色をしている。
どす黒い葉が液体の上に落とせば、葉は酸に浸したように周囲から徐々に溶けだし、残った繊維は底なし沼に引き込まれるかの如く沈んでいく。
それを琥珀色の双眸で確認した後、アルファードは杓子を反時計回りに回しながら作業台に置いていたフラスコ瓶を手に取ると、鍋の上で傾け、入っていた金色の液体を静かに注ぎ入れ始めた。
液体を最後の一滴まで振り落としたら、今度は時計回りにぐるぐると。
一回、二回と杓子が回る度に鍋の中の不気味な液体は眼を疑うほどの変貌を遂げ、悪臭が徐々に収まり、今までとは180度毛色の違う香りを放ち始める。
アルファードがかき混ぜていた手を止める頃には、不気味な液体は透き通るサファイアグリーンへと姿を変えていた。室内にはあの悪臭が跡形も無く。不自然なくらい爽やかな柑橘系の香りが鍋からふわりと香る。
鍋の底に沈んでいる銀の杓子の様子が容易に見て取れる程の透明度になった所で、アルファードは火を止めた。
冷めない内に隣の机に並べていたガラス容器を手に取り、液体を注ぎ入れる。
ガラス容器を光に翳せば中の液体はきらきらと輝き、コルクを抜けば爽やかな柑橘系の匂いが鼻孔をくすぐった。
作る工程を知らなければ、誰もが喜んで飲みほしてしまいそうなその出来を確認して、アルファードは満足げに目を細めた。
城砦都市の冒険者ギルドは、城砦都市の中心街と商業街の丁度境目に存在した。
両隣を背の高い立派な建物に挟まれているせいで酷く小ぢんまりとして見えるその外観は、初見で見つけることが酷く難しく、冒険者達には不評だと言う。
そんな冒険者ギルドの扉を開け中に足を踏み入れれば、キィという扉の音が響くと同時に入口付近のテーブルで酒を煽っていた、冒険者を自称するゴロツキ達の殺気を帯びた視線がアルファードに殺到した。
それは自らよりも弱い者を甚振ろうという、嗜虐と愉悦を孕んだ悪趣味なものだ。
数多の初心者達を怖気づかせてきたそれを涼しい顔で交わして受付のある奥へ進めば、今度は何故此処にいる、という驚きと疑問を帯びた視線が背中に殺到する。
さもありなん、アルファードは冒険者ギルドを介して依頼のやり取りをする事が多いが、冒険者ギルドに足を踏み入れる事自体は一年のうち片手で数えられるほどだ。
城砦都市の掲示板にはアルファード関連の依頼が少ない時でも週に一度張り出され、この場所にいる冒険者全員が一度は顔を合わせた事のある相手でもある。「城砦都市の冒険者で、はずれに住む錬金術師の顔を知らない奴はモグリ」と言われる所以だ。
受付の手前で足を止めれば、奥に腰掛ける受付嬢達は露骨にアルファードへ秋波を送っていた。
髪を整え、襟を正し、恥じらいの表情で持って此方を見つめる。そんな素振りも見せず頬を染めながらただただ恍惚とした視線を注ぐのは、今までその姿を見た事の無かった新米の受付嬢か。
ちらりちらりとこちらを見つめる媚を孕んだ瞳と背に感じる羨望と僅かな嫉妬の視線に、喉元までせり上がった溜息を飲みこみ、アルファードは壁際の一番奥に目を閉じて座っている受付嬢の前へと足を動かした。
目の前に立つと、受付嬢は閉じていた瞼を上げてガラス玉のような無機質な瞳でじっと美貌の錬金術師を見つめた後、ぺこりとおざなりに頭を下げた。
その仕草に、アルファードの行動を見張っていた冒険者たちの目が見開かれる。男でさえ頬を染めずにはいられない美貌を直視した上で、この受付嬢はいたって日常通りに振る舞っているのだ。
よほど肝が据わっているのか、美しい者を美しいと思うだけの感性がないのか。
女性というよりも少女と言った方が良い容貌をした受付嬢は、下げていた頭を上げた後またじっと無表情でアルファードの顔を見つめ、暫くした後にゆっくりと口を開く。
「ようこそ、冒険者ギルド城砦都市支部へ。ご登録ですか、依頼の受注ですか、発注ですか。受注でしたら依頼は掲示板へ、発注でしたらこちらの紙に依頼内容を――…」
「依頼の品を持って来た」
感情のこもっていない無機質な声がすらすらと読み上げるマニュアル通りの長文を遮り、カウンターの上に懐から出した紙を置けば、受付嬢はピシリと石のように固まった。
一分少々ほどしてようやく動きだしたかと思えば、紙とアルファードの顔を無機質な視線が忙しなく滑り始める。
事の成り行きを見守っていた受付嬢達はしまったとでも言いたげに額に手を当て、冒険者たちは様子のおかしい受付嬢へ訝しげな視線を向ける。
アルファードは一つ溜息を落としてから受付嬢の額に軽く親指を押し当て、耳元へ顔を寄せた。
「第32項、ギルド側がした依頼への対応」
「…………支部長、ないし副支部長を呼んできます」
耳元で囁かれた言葉に数拍ほど間を置いてから答えて、受付嬢はすっと立ち上がるとカウンターの上に置かれた紙を手に取り、受付の奥へと姿を消す。
その後姿を見送りながら、アルファードは実用化には程遠い、と判を押した。
この建物には、常時一体のホムンクルスが受付嬢として常備されている。
ホムンクルスは女性型でも成人男性以上の力を兼ね備え、ゴロツキの多い冒険者からか弱い受付嬢を守るには確かにこれ以上ない用心棒だろう。
……と、いう建前で冒険者ギルドには錬金術協会から貸与された量産型のホムンクルスが常に受付に座り続け、冒険者たちの事を見張っている。
しかし、量産型のホムンクルスは頭の出来が悪く、本来の使用目的である戦闘を除き教えられた以上の事は対処できない。
だからこそ、あの受付嬢は人目のつかない一番奥でひっそりと座っていたのだ。
おまけに月日が経つと情報過多故に一番初めに教えられた事――主に常識関係――から少しずつ消去していき、勝手に自分で捏造した常識に従って行動するという試作品だから、では済ますことのできない重大な欠点が存在する。
だからこそ整備する技術を持つ錬金術協会所属の錬金術師や、いざという時に破壊することが可能な力を持つ冒険者達が在住する大都市のギルド以外にホムンクルスが置かれる事はない。
「お待たせしました」
アルファードが協会への報告書用のメモを書きつけていると、カウンターの奥から一人の女性が現れた。
きっちりとおくれ毛の一筋も無く纏められた髪に、すらりと背の高い身体を折り目正しい服装で包んでいる。
若くして冒険者ギルド副支部長に抜擢されたリゼット・ブノワは、神経質そうな顔立ちに見合ったお手本のような完璧なお辞儀をしてから、こちらですと奥の扉へ手のひらを向けた。
リゼットの後に続いて扉をくぐれば、件のホムンクルスが後をついてくる。
斜め後ろを足音も立てずに歩くホムンクルスをちらりと確認してから、このギルドに寄こされた五体のホムンクルスについて前を歩くリゼットに尋ねれば、特にお気を煩わせる事はありません、と背筋をピンと伸ばし、歩きながら返される。
「その個体は五つの内で最も優秀です。羽ペンと髪飾りの見分けが付かないのが困りものですが」
皮肉を交えているのか本気で言っているのか。
明らかに欠落の生じている様子のホムンクルスを横目でもう一度見てから今月中にでも五体共のメンテナンスをする旨を伝えれば、それは良かったと振り向きざまにリゼットは言った。
その足は止まっていた。目的地に着いたのだ。
「せめて愛嬌笑いが出来るようにしていただけるとありがたいのですが」
ホムンクルスのピクリとも動かない人形のような顔を見ながらリゼットが言った言葉に、アルファードは肩をすくめた。
表情筋を作るには、一度この少女の形をしたホムンクルスを壊す必要があるからだった。