初
少女は、じっと頭上を見つめた。青々とした雲ひとつない晴天、上空をぐるぐると旋回する鳥。空に突き刺さるかの様に天高く伸びる、武骨な石壁。どれもこれも、仮想世界とは思えないほどリアリティに富んでいる。
この世界は、NPCの言動から建物のオブジェクト、天候の変化に至るまで他のVRゲームとは一線を博していた。
「きなこ、何見てんだ? 落ちるぞ」
水の張られた堀のギリギリにしゃがみ込み、城壁を見上げる少女の背中に女性の声が掛けられる。その声に振り返らずに、少女――プレイヤー名『きなこ』は蔦の絡まる城壁上部を指差した。
「……セレネ、あそこに矢が刺さってる」
「どれどれ? ああ、本当だ。相変わらずこまけーなぁ、このゲーム」
うん、と頷きながらきなこは背後を振り返る。セレネは常と変わらずに、肩に重そうな狙撃銃を担いでいた。片手が使えなくて不便ではないのかと過去聞いたことがあるが、なんでも「ロマン」らしい。きなこも同じような理由で身長より大きなロッドを持ち歩いているため、その気持ちはよくわかる。
きなこは辺りをきょろきょろと見回した。他のみんながいない。セレネが言うには、クエストの受注に手間取っているらしい。
このゲーム――Fortum Auroraのスタート地点、通称始まりの街からは東西南北四つの街道が伸びている。
始まりの街でレベリングしたり、βテストの実施地が北にあると聞き北に行ったり、東に大きな山脈があると聞き東に行く人も、南に王都があると聞き南に行く人もいた。プレイヤー達は各々の好き勝手に今後の行動を決めていたが、きなこのギルドはリーダーが棒を倒す事で行く方角を決め、棒が倒れた方角は西。
西には広大な森林が広がっている。事前情報はそれだけだった。プレイヤーの殆どはβテストのあった北や王都のある南のルートを選び、山や森があるという東西を選択する人は疎らだ。東のルートが一つ二つ村を行ったら行き止まりだったため、尚更に。
「いつもの事だから……」
先に進む人が居らず攻略情報が無いためにゲーム内で一年半の時間を費やして、きなこ達はようやく広大な森林のある都市に辿り着いた。
初めてプレイヤーが足を踏み入れた都市では何もかもが手探りで、しかもこのゲームでは地方ごとに独自のルールが決められている。手間取るのは、いつもの事だ。きなこは立ち上がり、堀に沿って歩き出した。
城塞都市、という名前を冠したこの都市は、その名の通り城塞に囲まれている。高い壁に、深い堀。かかる橋は二つしか無く、籠城に有利。「戦争でもあったのかな」と呟くと、セレネが「かもな」と返した。
「この都市が王国で一番西にあるらしいし、この先に進むにはなんかやらなきゃいけねーらしいぜ」
めんどくせぇ、とセレネがぼやくように言った。
少し歩くと、石で出来た跳ね橋に着いた。丁度交代の時間だったらしい、門の中から衛兵が二人出て来て、門の左右で足を肩幅に開き静止する。
「すみまっせーん、ちょっといいすか?」
穴だらけの敬語でセレネが片方の兵士に話しかけた。衛兵たちは肩に乗った武骨な狙撃銃を見て警戒心を露わにしたが、その防御する気が微塵も感じられない、ラフな服装にすぐに警戒を解いた。
警戒の解除にはセレネの立派な胸部装甲も一躍買っている。ハニートラップはNPCにも有効だ。
「……なんだ」
「あそこに刺さってる矢なんですけどぉ」
セレネが門の上部、ちょうど跳ね橋の鎖の下りてくる辺りを指差した。きなこもそちらを見上げると、確かにそこにも矢が刺さっていた。気づかなかった。さすが狙撃手、索敵値が高い。
「ああ、あれは百年前の戦争の時に刺さった矢だろう」
「戦争?」
「境界の森の向こう側の――公国との戦争だよ。酷いモンだったらしいぜ。此処も戦場になった。ま、境界の森は焼いても舗装し埋め立てもなくならない資源だ、躍起にもなるさ」
「へぇ……」
「結局話し合いで終結したんだがな。おかげで境界の森は誰でも立ち入りできる無法地帯だ」
境界の森はつい先日行ったダンジョンの名だ。森というよりも樹海に近く、アイテムである方位磁石が使えない。マッピング機能があるゲームの中やデバイスを付けていなかったら、方向音痴の気のあるきなこは迷子になって餓死していたと思う。
「なるほどー。ちなみに、公国に行く方法とかってないっすかね」
「公国との国交は断絶中、豪商か限られた人間にしか渡航の許可は下りんぞ。……十年に一度の街道の補修工事で作業員として雇われればタダで行けるが――今年整備されたばかりだ、十年後にゃーお前たちも旅なんかする年齢じゃないだろうな」
ところがどっこい、これはゲーム。十二倍速だから十年後は――300日、約10ヶ月後だ。意外と長い。セレネが覚えていればいいけど、ときなこは心の中で呟いた。セレネは興味が移ろいやすいし、きなこは境界の森を突っ切りたくないので覚えていても教える気はない。湿気は女の敵だ。
キャラメイクで特に力を入れたさらさらとしたブロンドのロングヘアーを手で梳きながら、きなこがセレネと衛兵の談笑を観戦していると、門の奥から三人の人影がやってきた。残りのメンバー達だ。
「ごめんね、遅くなって」
白銀の鎧に身を包んだ優男が、リーダーのタイガ。何がどうなったのか、焼いたら美味しいモンスターの話題になっていたセレネと衛兵の会話を打ち切らせ「ここじゃ邪魔になるから、早く行きましょう」とほほ笑んだのがマイカ。柔和な顔に似合わず職業は重騎士、このパーティーのタンカー役である。
マイカに促され――というよりもこの中ではマイカがヒエラルヒーの一番上に立っていて逆らったら恐ろしい目に合う――集まった5人は舗装された真新しい道を歩き出した。
「んで、今回はどんなクエスト選んだンだよ。モンスター100匹狩りか? それとも薬草100本集めろってか?」
セレネに負けず劣らず口が悪い男が、トキツ。狼獣人の武闘家、戦闘狂。腰から垂れ下がるそのふわふわとした尻尾に両手を伸ばすも、翻される。きなこはむぅと口端を下げた。相変わらず気配察知が高い。
「今日はちょっとダンジョンから離れてみようと思って」
言いながら、タイガが空中で指を動かす。
きなこも同じようにして空中で指を動かし、モニターを出した。半透明のモニターの中、クエストの文字を指で押す。
「んーなになに? 薬剤搬送の仕事――戦闘関係ねーじゃん」
横着したセレネが、きなこのモニターをのぞき込みながら言う。きなこは自分の肩に乗せられた顎を振り払った。フード越しとはいえ、後頭部に銃が押し付けられて痛い。「んだよ、けっちくせーなー」とぶつぶつと文句を言っていたセレネは、マイカの笑顔を向けられて口を噤んだ。ざまぁみろ。
「うん、確かに非戦闘系クエストだけど……宛先見てみてよ」
「城塞都市領主館、王都国立病院、皇都埜坂城――」
「そう。期間制限も無いし、それを届けながらマップ埋めていこうと思って」
宛先には、掲示板でしか見たことのない地の名前が書かれていた。なるほど、確かに効率が良い。きなこは頷き、同意を示した。
「そんでよォ、どこに取りに行こうとしてンだよ俺たちは」
モニターも開かず話だけを聞いていたトキツが首を傾げる。依頼人の欄は――「城塞都市 錬金術師」としか書いていない。
「ああ、うん。僕も気になって聞いてみたんだけど……とりあえず道なりに行って、境界の森に近付けばわかるらしいよ」
「つまり教えてもらえなかったのよ~」
タイガが口ごもった事実を、マイカがあっさりと口にする。がっくりと肩を落としたタイガを見ながら、きなこは小さくため息を吐いた。我らがリーダーの格好が付かないのは、いつもの事だ。
境界の森に近付いて、きなこ達は受付の人が言っていたという言葉の意味が分かった。森のほど近く、森の木々の影にぎりぎり入らない場所に、屋敷が立っていた。敷地は長身のトキツの肩辺りまで積まれたレンガの塀に囲まれているが、これで本当にモンスターが侵入して来ないのだろうか。少しでも塀に穴が開いていたらアウトな様な気がする。
立派な家だが、住みたくないな。きなこは内心そう思いながら、門に掲げられた絵を見た。
この世界のNPCは、家の前に板をはめ込んでいる。現実世界では滅多に見なくなった表札――ではなく、職業の絵だ。
店の看板はまた別で、さすがにパン屋の店先と玄関先、その二ヶ所にパンの絵が掛けられていた時は突っ込まざるを得なかったが、わかりやすくてゲーム的にはいいと思う。
さて、この屋敷にかけられている絵は――
「……壺?」
「茶釜だろ」
「火にかかっているし……窯じゃないかしら?」
「初めて見たな、この絵は」
「……薬剤師か!」
「薬剤師は乳棒と乳鉢だろうが鳥頭」
「ンだとこら」
依頼者は錬金術師となっているし、恐らく錬金釜の絵なのだろう。それを頭から消し去って絵の前で男女4人が唸る姿は、少し滑稽だ。
恐らく錬金釜の絵は、赤色に鈍く光っている。この光はその家に住むNPCがどこに居るかを示していて、赤の場合は大体在宅中だ。
とりあえず、後で攻略情報としてスレッドに上げておこう。きなこはそう思いつつ玄関先の絵と、屋敷の全景をスクリーンショットに収めた。屋敷を撮る際に、絵の前でケンカするセレネとトキツの姿が映ってしまったが、黒塗りすれば多分大丈夫。きっと。
マイカが喧嘩を収め、一行はやっと家の敷地内に足を踏み入れることができた。HPを削らずに、けれど制御された痛覚の中で『すごく痛い』と感じる拳骨を落とすことができるマイカは偉大だと思う。
薬草畑に挟まれた煉瓦道を通り、数段の階段を上る。玄関ポーチに全員が立ったことを確認すると、タイガは備え付けられたドアノッカーを鳴らした。
小気味良い音が辺りに響いて、三分ほど経った後。きなこは小さく首を傾げた。
「居留守……?」
「んたことあるめーよ。便所だ、便所」
背後で堅いものを殴る聞き覚えのある音がしたが、きなこは振り返らずにじっと扉を見つめた。
ゆっくりと、銀色の取っ手が下に傾く。ぎぃ、と音を立てて扉が開いた。内開きだ。
ガシャンと、後ろで何か大きなものを落とす音が聞こえた。きっとセレネだと思う、彼女は重度の面食いだ。
超絶美形。扉の隙間から顔を出した人物を見て、きなこの頭をよぎったのはそんな単語だった。
まず目を惹くのは、左頬に刻まれた刺青。滑らかな肌の上で大胆に、だが繊細に複雑な文様を描く入れ墨は、瞼から始まり頬や顎、首を通過し白いYシャツの中まで続いている。
彼――そう、これだけの美貌を持ちながら、この人物は男だった――は小さく欠伸をしてから、気だるげに髪をかき上げた。毎朝せっせと髪をセットする世の女性を馬鹿にするかのように無造作に結われた艶やかな髪は、腰を越すほどに長い。
女の様にずるずると髪を伸ばし、顔の三分の一が刺青に覆われているというのにきなこが微塵も嫌悪を感じないのは、偏にその顔立ちが絶世といえるほどに整っているからだろう。ただしイケメンに限る、というやつだ。
「……何の用だ?」
NPCとして、男として、人として異常なほど並外れて美しく、そして背が高い男だった。180代後半に設定してキャラメイクしたというトキツと同じくらいだろうか。
どこもかしこも分厚いトキツと違い、細身でしなやかな体躯をしている。白いシャツと黒いスラックス、シンプルな装いをしているからか、それが顕著に見て取れた。
きなこやタイガ、玄関先に集った面々を金色の瞳で見回すと、男は小さく眉間に皺を寄せた。
「こんな朝っぱらから大勢で何事だ」
きなこは慌ててモニターを起動させた。時刻は7時46分。確かに家に訪問するには少し非常識な時間帯だったかもしれない。
スクリーンショットをしっかりと撮ってから、きなこは固まったタイガの腰をぺしぺしと叩いた。
「あ、えっと……朝早くから申し訳ございません。私共は、冒険者ギルドの者でして……依頼板に貼ってあった薬剤搬送の仕事についての件で少しお話が――」
タイガの敬語は、丁寧すぎて少しばかり怪しい。マイカに頼めばよかったかもしれない。タイガの話を黙って聞いていた男は、「少し待て」と言い残し家の中へ戻っていった。
「やべぇよ……今までの人生の中で一番タイプかも知れねぇ」
震える声で、セレネが呟く。確かに外見重視のセレネからしたらドストライク一直線、よだれが出るほどタイプの男だろう。
今のご時世、生身だけでなく電子アイドルも芸能界では活躍し、作られた美人美形は世の中に溢れかえっているが。あの男はきなこが見てきた中でも一番美しい人型だった。
誰かがセレネへのからかいを口にする前に、扉が再び空いた。腕には紙袋が抱えられている。それにしてもこの男、ラフな格好だというのに手袋だけはしっかり嵌めている。何かキャラクターデザイン的に譲れないものでもあるのだろうか。
依頼書の写しだろう、少し古ぼけた紙切れを見ながら男が小さく首を傾げた。
「待たせたな。王都や皇国に薬剤を運んでくれる依頼、で合ってるか?」
「はい」
「なら他に5件ほど行き先を追加したい。何せ、2年ほど放置された依頼だったものでな。宛先は全て王都や皇都だ、給金は弾む」
「構いませんよ」
助かる、と言いながら男が紙袋をタイガに差し出す。続いて「これを受付に差し出せば、追加分の給金も支払われるはずだ」と小切手台の小さな紙をきなこに差し出した。
「……ありがとうございます」
受け取った紙には見慣れない文字が数行書かれている。解読のため補助ウィンドウを開こうとするも、開かない。そこまで設定がされてないのだろうか。
最後にタイガが判を押された依頼達成の紙を受け取ると、家の扉が閉まった。これで依頼達成、という事だろう。いや、厳密にいうと宛名まで薬剤を届けてやっと達成なのだが。
一行がさて帰ろうと錬金術師の家に背を向け、塀を通り抜けたその時。セレネが「あー!」と濁音が何個も付きそうな、女失格なだみ声を上げた。
「彼の名前……聞いて無い」
絶望を多分に含んだその声は、セレネと一番付き合いの長いきなこも初めて聞くものだった。
修正点は随時修正していきます。