35.豪華客船の旅
風に混じって届く潮の香りと海鳥の声が、海の存在を知らせる。
その予感にたがわず、淡い木立を抜けて道が開けると、弧を描いた白い砂浜、規則正しく打ち付ける波、優雅に旋回する海鳥というまるでポストカードのように爽やかな景色に歓迎された。
ポストカードと違うのは、低い気温と冷たい風が一緒に私達を出迎えたことだろうか。
真珠を砕いたように美しい砂浜を目でたどると、先に町と沢山の船がある。
町は煉瓦仕立ての可愛らしい家が、こじんまりと集った小さなものだ。
それに対して港には、大きなマストの優雅な帆船や、魚介を取った網を載せた小舟など、様々な種類の船がついている。
「出港には余裕で間に合いそうですね」
懐から取り出した小さな円盤を確かめた後、ティザさんは身軽に虎から降り立った。
「今から船に乗るんですか?」
つられて腕時計を確認して尋ねる。
時計は午後3時半を指していて、ほぼ3時間虎の背に乗っていたことが分かった。
「ええ。今日の夜にはマリシャへ着けます」
ティザさんはそのまま手綱を引いて、港へと歩を進める。
虎はまるで“落ちるなよ”というように私を見上げた後、従順に主人について歩き出した。
「マリシャはラカン女王国の北西に位置する都市で、海洋貿易の一大拠点です。
各国の珍しい品がそろうので、観光地としても人気ですね」
これから船で渡る地を、ティザさんが軽く解説してくれる。
観光地っていうと、すごく賑やかで楽しそうなイメージだ。
「楽しそうですね」
ワクワクしながらそう言うと、期待でいっぱいの私の顔がおかしかったのか、ティザさんはふふっと笑い声をあげる。
ここまで元気に走ってきてくれた虎も、主人に合わせてがうっと嬉しげに鳴いた。
「次のマリシャ行きへ乗りたいのですが」
街中を通らず直接港へたどり着いたティザさんは、まるで祭りの夜店のような、簡易な造りの店に迷わず足を運んだ。
つるりとした頭髪と、それに反して豊かな髭を持つ店の主人は、胡散臭そうに私たちを見つめてくる。
「悪いがマリシャ行きは埋まってるよ。明日のフィベル経由なら空いてるがね」
髭は店の奥に陣取ったまま、放り投げるように言葉を返してくる。
「もっとも、少し高くなるが」
そう付け加え、店主は値踏みするような目線を送った後、はんっと鼻で笑った。
なんか感じ悪いな、とむっとする私に反し、ティザさんは無礼な態度に少しも動じず、まるで返事が聞こえなかったかのように笑顔を崩さない。
「次の船に魔女2名、虎1匹でお願いします。」
ティザさんのその言葉は、にやついていた店主の顔色を変えた。
「ま、魔女様! これはとんだ失礼を!」
そう言って文字通り飛び上がり、真っ青になってあたふたとデスクの引き出しを開ける。
店主はクシャクシャになった冊子を取り出すと、慌てて何か書きつけてページをちぎり、ティザさんに手渡した。
「ご苦労様です」
ティザさんは冷やかにそう言うと、震えている店主の手から紙切れを受け取って、銀貨を3枚主人に渡した。
店主は何度も頭を下げ、魔女様とは知らず、とかなんとかモゴモゴ言い続けている。
店を出てしばらくしても、店主は深く頭を下げたままだった。
「あの、もしかして、魔女って地位が高いんですか?」
正直言って今まで、魔女という職業について真剣に考えたことはなかった。
でも考えてみると、神殿でもティザさんは様付けで呼ばれていた。
何より今の店主の反応からして、魔女はとても恐れられているようだ。
「地位が高い、と言いますか……才能がものをいう世界なので、敬われはしますね。
ですが魔女は都市に集中するので、田舎では恐れられがちです。今の店主のように」
そう言ってティザさんは苦笑した。
その苦笑を見て、何となく察してしまう。
多分日本でのお医者さん信仰みたいに、魔女は職業でのイメージが強いのだろう。
どこの国でも同じようなことがあるもんね、とつい頷いてしまった。
「あれが今から乗る船です」
そういって指さす先を見ると、マストを煌めかせた美しい帆船が入港してくるところだった。
「すごい、本物の帆船だ」
思わず声を上げてしまう。
錨が王冠のような波しぶきをあげる中、ロープが何本も港に渡されて固定された。
周りの船がおもちゃに見えるほど大きくて立派な船だ。
木製の移動式になった階段を使い、船へと登る。
赤い絨毯が敷かれた階段は、虎がゆうゆうと登れるほど大きなものだ。
デッキにつくと、すぐに係りの人に案内されて、船中の個室に通される。
ドアプレートには一等個室、と誇らしげに掲げているだけあって、部屋はとても豪華だ。
磨き上げられた黒檀のデスク、棚に飾られた数々のお酒、活けられた大輪の花々、なによりふっかふかの2脚のソファ。素晴らしい。
「ごめんなさい、横になってもいいですか?」
何時間も虎に乗っていたせいで、足腰の感覚がほとんどない私は、恥ずかしさを押し殺してティザさんに尋ねた。
ティザさんが頷き、勿論どうぞと言ってくれた瞬間、ソファに倒れ込む。
行儀が悪いのは百も承知だけど、疲労の前には理性なんて何の役にも立たなかった。
泥の中へ沈むように、睡魔に襲われて意識が遠のいていく。
「おやすみなさい、エリカさん」
その声と、上着をかけてくれるティザさんの手が、ふと家族を思い出させた。




