32.図書館は縄張り
「では、今日の勉強はここまでにしましょうか。
仕事の報告をしてから首都に向かうので、出発は正午ごろになると思います。
それまではゆっくり眠ってください」
朝早く起こしてしまったので、と付け加えてからティザさんは立ち上がる。
腕時計を見ると午前9時を回っていて、思ったより長く話していたことが分かった。
「あの、ありがとうございます。いろいろ説明してもらって本当に助かります」
仕事の疲れを押して授業してくれたことに、深く頭を下げて感謝する。
これから首都に向けて移動するのに、魔法の知識を授けてもらったことはきっと役立つだろう。
ティザさんは軽く微笑み、気にしないでくださいと気さくに言った。
美人の笑顔って素敵だ。見ただけで得した気持ちになる。
「ああ、丁度いい。これを渡しておきます」
デスクの上にあった本を片付けていたティザさんが、小さめの辞書のような本を私に手渡す。
臙脂色の表紙に金糸で題字が縫い込まれていて、すごく高価そうだ。
でも何より私の目を引いたのは、題名の流麗な日本語だった。
「『紫紺椿の写本』……なんですか、これ?」
手触りは思ったよりざらついていて、見た目より古い本かもしれないと思わせた
ページを捲ってみると中もすべて日本語だ。図がところどころに入っているが、幾何学的でよくわからない。
「それは30代目の女王である、紫紺椿様がお書きになった魔導書です。
基礎をよく網羅していますので、魔女の間で入門書として使われています」
私の持つ本を眺めながら、ティザさんが懐かしそうにそう答える。
入門書ってことは、ティザさんが魔女の卵だった時に使ったものだろうか。
「どうぞ受け取ってください。エリカさんに使っていただいた方が、この魔導書も喜びます」
そんな大切なものを受け取れない、と遠慮が顔に出たらしい。
ティザさんは私に魔導書を握らせ、本は読んでこそ価値あるものだ、と続けた。
優しさを無下にできず、何度もお礼を言いながら開いていた本を閉じ、慎重に持ち直す。
「では正午に。荷物はまとめていてくださいね」
最後にそう言って、ティザさんは部屋を後にした。
「はあ……」
ため息をつきながらベッドに寝転がる。
正午まで眠るようにと言われたのに、朝一番に魔物との死闘を見たせいか、睡魔の気配は全く感じない。
今日の正午、首都に向けて神殿を発つ。
ふと今頃実感がわいてきて、なんだか変な気分になった。
知らない場所へ行く恐怖や、神殿を離れることへの不安が渦巻く。
でもその中に、帰るための手掛かりが見つかるかもしれないという希望があった。
それに、旅はティザさんと一緒だ。
私のことを色眼鏡で見ず、誠実に接してくれた人だ。きっとティザさんは信頼できる。
私の素性を知っても、なお協力してくれる人が現れるなんて思ってもいなかった。
森の中でたった一人、知らない世界をさまよっていた時を思い出す。
もうあの孤独に苦しまなくて済む。
どこかエゴイストな考えだけど、そう思うと安心するのも事実だった。
ふと、デスクの上に置かれた魔導書に目が留まる。
そういえば、これは異世界に来て初めて手にする“自分のもの”だ。
部屋を見渡してもチェストにしまったコートと衣服、ベッドに置いた鞄とその中身以外、自分のものはない。
日本から持ち込んだもの以外に所有物が増えたことは、ちょっとだけ嬉しかった。
ベッドに腰掛け、魔導書の表紙をめくる。
本が好きでよく読んでいたので、久しぶりに日本語の文が読めると少しにやけてしまう。
おまけに魔導書なんて、日本では読んだことがない。
最初の序文は思ったより短く、2ページほどで終わっていて、そのあとには長い目次が続いている。
少し意外に感じて序文を見返してしまう。
普通魔導書って、もっと仰々しい前書きが付いてるんじゃないだろうか。魔導書読んだことないけれど。
序文を軽く読むと、これは魔法の技術が発達し、口伝に限界を感じたために書かれたものであることがわかった。
「なるほど。だから徹底した実用書なわけね」
思わず納得した気持ちを口に出してしまう。
高校生として、教科書の長い序文は非常に邪魔な存在なので、紫紺椿という女王に深く共感してしまった。
『もくじ。
1、魔法習得に必要な基礎知識
2、属性の区別ー10の分類
3、詠唱呪文と魔方陣の関係……』
声に出して読みふける。
見慣れない言葉ばかりだけど、どこか数学や英語の参考書に似通っている気がして面白い。
いつしか私は、時間を忘れて読書に夢中になっていた。




