9 でも我慢したんだ
は、は、と短い呼吸音。
――切っ先から滴る雫はなんなのか、解らない、見えてはいる、けど、認識できない、何を、今、オレは、何をした?
脳味噌がグチャグチャに掻き混ぜられたような不快感。
視界に男の姿はない。衝動的に目も耳も塞ぎたくなったその刹那、聞き覚えのある凛とした声が鼓膜を震わせる。
「大丈夫だった?」
「――!」
びくんと肩が跳ねる。……が。
「え……エマさん……」
どっと全身の力が抜け、地面にへたり込む。しっとりとした風が吹き抜けアステルの身を震わせた。
呼吸を整え自らの剣を改めて見つめる。
冷たく透明な水が滴り落ち、濡れた地面の色をさらに濃くしていた。
「さ、さっきの男の人は?」
「……」
裏返りそうになった声でそんな質問をすると、戻ってきた返答は沈黙。どういう意味かは厳密には解らないが、彼女の雰囲気からしても良い返事でないことは明らかだ。暫くの間ののち、エマは口を開く。
「……あのね。すごく言いづらいんだけど、これ、私の夫なの」
「……、は?」
「『さっきの男の人』ってコレの事でしょう?」
そう言って地面を指差すと同時に下から聞こえる「あだっ」という悲鳴。見れば、さっきのマントの男が倒れている。その背中に焦げ茶のブーツ、すなわちエマの足が軽く蹴りを入れた。
「は……?」
先程こぼしたばかりのがもう一度口をつく。
彼が聞きたかったのは、さっきの男性が『無事なのか』ということ。しかしエマは『誰なのか』という意味だととってしまっていた。
アステルが事態を消化している間に、不審者男はエマに叫ぶ。
「言いづらいって! やっぱりお前、そういうことなんだな!」
「え? ちょ、意味がわからないんだけど……。何の話かしら?」
怪訝そうに首を傾げるエマに、男はばっと立ち上がり「とぼけんな!」と怒鳴って彼女の顔に指を突きつけた。
人差し指と、中指と薬指の3本を。
「3ヶ月だぞッ! エマに会いたくて会いたくてしょうがなくて、でも我慢したんだ! 3ヶ月も! それなのにっ……、男と並んで歩いて何のつもりだッ!!」
「は? ちょっと、なに勘違いし」
「うるせえうるせえうるせえ! 大体なんだよお前、年下趣味かよどーりで俺は捨てられる訳だよ27だもんな俺はよ!」
たたみかけるように喋る男の言葉の意味がアステルには一瞬解らなかった。
そして僅かな間ののち、あっそういうこと? と他人ごとのように理解する。
「エマさんとオレが、浮気……してると思ったんですか?」
「黙れお子様ッ! 俺はエマを殺して俺も死ぬんだ、その後お前も殺してやる!」
「その手順だとあなた1回生き返る計算になってるわよ」
指された指をぺしんと払い、エマはアステルを手で示す。
すました顔でこう言った。
「昨日の夜、用水路あたりで見かけたので保護した旅人のアステリオン・ライト君です。一緒にいたカーラ・サリヴァン君は脚を怪我していたので家に残ってもらいました。報告は以上」
次に彼女はアステルの方に向き直り、男を示す。
「こちら、私の夫。3ヵ月くらい都の方に召集されて出張してた、私と同じ森番。ジャンっていうの」