月明かりの下で娘が令嬢を突き落としたそうですが、殿下、その夜は新月でございました
「リディア・ヴァイゼル。本日をもって、そなたとの婚約を破棄する」
王太子ユリウス殿下の声が、夜会の大広間の天井まで響いた。楽団の手が止まり、杯を持った貴族たちが一斉に私の娘を見た。罪状は、先月の満月の夜、庭園の噴水のそばで、娘がミレイユ・ローレン男爵令嬢を突き落としたというものだった。月明かりのもと、娘の顔をはっきりと見た、と殿下は言った。
私は杯を持ったまま、静かに思った。ひと月あまり前のその夜は、新月だった。そしてその夜、娘は国王陛下の隣で、星図を読んでいた。殿下はこれから、ご自分の言葉で、ご自分の話を崩すことになる。
「言い逃れはできぬ」と殿下は付け加えた。その隣で、ミレイユ嬢が両手で口元を覆い、肩を震わせている。殿下はその肩を抱き寄せ、勝ち誇ったように広間を見渡した。
娘の背筋は伸びていた。手袋をはめた右手の指先が、左の手首のあたりを強く握っている。リディアが泣かないときの癖だ。十八年、そばで見てきたので間違えようがない。
「お言葉は、承りました。お答えは、陛下の御前でいたします」
娘はそれだけ言って、深く膝を折った。私は殿下に一礼し、娘の肩にそっと手を添えた。
「帰ろう、リディア」
「はい、お父様」
広間の端で、誰かが小さく「新月だったのでは」と囁いたのが耳に入った。観星会に出たことのある若い貴族だったかもしれない。だが声は、すぐにざわめきに埋もれた。私は振り返らなかった。ここで口を開けば、殿下は話を作り直す。月の出ていない夜に、月の出ていた理由をいくつでも用意するだろう。私は二十年、空を相手に仕事をしてきた。相手が慌てて言い繕う前に、言い切らせるべきことがある。
帰りの馬車の中で、リディアは窓の外を見ていた。灯りの少ない通りを、車輪が低く鳴らして進んでいく。
「お父様。どうして、あの場で言わなかったのですか」
「言えば、あの方々は別の話を用意する」
「別の話」
「嘘は、足りない部分を足しながら大きくなる。足す前に、全部を話させたい。足りないところが、そのまま穴になる」
娘は少し考えて、小さく頷いた。
「天文台で星の位置がずれたとき、お父様が最初に私に言うことと同じですね。まず、今の観測値を全部読み上げなさい、と」
「そうだ」
「私が申し上げても、お父様の庇い立てと言われるだけですものね」娘は少し黙ってから言った。「あの場で黙っていたのは、そのためです」
それきり、娘は黙った。指先は、まだ手首を握っている。私は何か言うべきかと考え、結局、膝掛けを娘の肩にかけてやっただけだった。口下手は、星の話をしているときにしか直らない。
屋敷の玄関では、妻のマルガレーテが待っていた。事情を聞き終える前から、彼女の頬は赤くなっていた。
「あの小僧、何を言ったの。リディアが、誰を突き落としたですって。冗談じゃないわ。今から王宮へ行って、あの子の耳をつかんで」
「落ち着きなさい、マルガレーテ」
「落ち着いていられるものですか。あなたはどうして、そんなに平気な顔をしていられるの」
「平気ではない。ただ、明日、陛下にお目通りを願う。それまで、待ってほしい」
妻は私の顔をしばらく見つめ、それから娘を抱きしめた。リディアは母の肩に額をつけて、ほんの少しだけ、肩を揺らした。私は書斎に引き上げ、灯りを落とし、窓を開けた。
空は晴れていた。半分に欠けた月が、西へ傾きかけている。あの月が満ちて、また痩せて消えるのは、まだ先のことだ。ひと月あまり前のあの夜、夜空に月は最初からいなかった。私が見ていたのは、月のない空に、いつもより濃く散らばる星々と、その星を指で追う娘の横顔だった。
リディアが初めて星の名を言えたのは、五つのときだった。膝に乗せて見上げた空で、北の七つ星を指さして、父様の星、と言った。以来、あの子は私の助手になり、私は娘の言葉の正しさだけは、誰にも疑わせないと決めている。星を読み違えない子が、見てもいないものを見たと言われる。これほど筋の通らない話はない。
翌朝、謁見の間には、国王陛下と王太子殿下、ミレイユ嬢、そして私と娘が揃った。隅の椅子には、第二王子のアルベルト殿下も控えている。呼ばれたわけではなく、兄上の話を聞くために自分から来たのだと、後になって聞いた。
陛下は、玉座で額に手を当てておられた。
「ヴァイゼル伯爵。夜会の件は聞いた。余の長子が、そなたの娘に不躾なことを申したそうだな」
「陛下。恐れながら、お願いがございます。殿下とミレイユ嬢に、あの夜のことを、もう一度、詳しくお話しいただきたく存じます。私は口を挟みません」
陛下は私を見て、短く頷いた。殿下は胸を張った。
「望むところだ。あの夜のことは、私もよく覚えている。何度でも話そう」
殿下は、よく通る声で語り始めた。
「先月の満月の夜だった。私はミレイユと庭園を歩いていた。噴水のそばに出たとき、ちょうど満月が水面に映って、庭じゅうが昼のように明るかった」
私は黙って聞いていた。
「そこへ、リディアが現れた。薄い緑のドレスだった。月明かりで、裾の刺繍の色まではっきり分かったほどだ。そして、ミレイユの背中を押した。ミレイユは噴水に落ちた」
「あの、雲も出ておりましたわ」とミレイユ嬢が小声で補った。
「そうだ。さっきまで雲に隠れていた月が、ちょうど顔を出した瞬間だった。その光の中で、リディアの顔が見えた。目が合った。間違いない」
殿下はそこで言葉を切り、満足そうに隣を見た。ミレイユ嬢は涙を拭い、続けた。
「私は水の冷たさで、息ができなくなりました。見上げると、月がとても大きくて。リディア様の顔が、月明かりで、青白く光っておりました。あの冷たい目を、私は忘れられません」
二人の話は、細かいところまでよく揃っていた。揃いすぎているほどだった。私は長いこと星の観測者をやってきたが、見たものを何度も語り直す者は、語るたびに少しずつ明るくなっていくことを知っている。記憶は光を足す。足された光が、今の二人の話を照らしていた。
私は、娘の横顔を見た。リディアは正面を見たまま、動かなかった。指先だけが、手首を握りしめている。アルベルト殿下も、隅の椅子から兄を見ていた。何か言いたそうに口元を引き結んでいたが、私の願いどおり、まだ立たずにいてくださった。ありがたいことだった。陛下は、時折、小さく頷いておられた。二人の話に頷いたのか、別のことを考えておられたのか、そのときの私には分からなかった。
殿下は話しながら、何度も自分の言葉に頷いていた。ミレイユ嬢が涙を拭うたびに、その頷きは深くなった。二人とも、嘘をついているつもりはないのだろう。見栄と思い込みが、記憶の隙間を、ちょうどよく埋めてしまっただけだ。
「以上だ」と殿下が言った。「これ以上、何を詳しく話せというのだ」
「十分に、承りました」
私は一歩進み出て、陛下に深く頭を下げた。そして顔を上げ、殿下とミレイユ嬢のほうを向いた。
「では、一点だけ、申し上げます。ひと月あまり前の、あの夜は、新月でございました」
謁見の間の空気が、わずかに動いた。
「新月」と殿下が繰り返した。「何を言っている」
「月が空に出ない夜のことです。その夜、月は日の出とともに昇り、日の入りとともに沈みます。夜の間、空のどこにもございません。噴水に月は映りません。月明かりは、ございません」
私は声を荒らげないように、ゆっくり話した。月のこととなると、つい口が回る。妻にはよく、星の話になると別人のようだと笑われる。だが、今ここで早口になれば、ただの理屈に聞こえてしまう。月は、毎晩ほんの少しずつ形を変える。細く生まれ、半分になり、満ち、また痩せて消える。そのひと巡りを、私は二十年、観測と計算で追ってきた。その積み重ねを、一言で崩せる者はいない。
「前の満月も、次の満月も、あの夜からほぼ二週間離れておりました。殿下がお話しになった夜に、月は明るくなかった。雲から顔を出す月も、ございませんでした」
「天文官の言い分だ」殿下が声を高くした。「暦を読み違えたのではないか。月の満ち欠けなど、日付とずれるものだろう」
「おっしゃるとおり、王国の暦は太陽に合わせてあり、月とは日付がずれます。だからこそ、私どもは毎晩の月齢を、観測と計算で押さえております。曇りの夜も、計算は止めません。月が出ていたか、出ていなかったかを読み違えることは、私にはできません」
殿下は何か言いかけて、口を閉じた。かわりに、鼻で笑った。
「それでも、お前の言葉だけだ。父親が娘をかばっているにすぎない」
「はい。ですから、私は自分の言葉だけで終わらせるつもりはございません」
私は陛下を見上げた。
「陛下。あの夜、陛下ご自身が、天文台にいらっしゃいました」
陛下の手が、額から離れた。
「新月の夜は星がよく見える、と陛下はおっしゃって、毎度のように観星会にお越しくださいます。あの夜も、日が落ちる少し前から、夜半近くまで」
「あの夜」陛下はゆっくりと言った。「あの夜は、確かに暗かった。月がなく、星が濃く、南の空に赤い星が低く見えた。階段を降りるのに、灯りを二つ持たせたほど暗かった」
「はい」
「そして、隣で……」陛下の視線が、娘に向いた。「リディアが、星の名と位置を、順に読み上げてくれたのだったな。余は老眼で、星図の細かな字が読めぬ。娘御が、暗がりで、一度も間違えずに」
「恐れ入ります」リディアは小さく頭を下げた。
そのとき、隅の椅子で、アルベルト殿下が静かに立ち上がった。
「父上。私もおりました」
王太子殿下が弟を振り返った。アルベルト殿下は、兄の視線を受け止めて、いつもの低い声で続けた。
「あの夜、私は望遠鏡の筒を支えておりました。リディア嬢は、日の入りから夜半まで、父上のお隣を離れませんでした。星を読み上げる声を、私は途切れなく聞いておりました。庭園へ行く暇は、一度もありません。それに、あの夜は月がなかった。庭を歩けば、足元を照らす灯りが要るほどでした」
王太子殿下の顔から、血の気が引いていくのが分かった。
「兄上のおっしゃる、薄い緑のドレスの刺繍まで見える月明かりを、私は、見ておりません」
陛下が、ゆっくり、王太子殿下とミレイユ嬢のほうへ向き直った。
「ユリウス。そなたは、月明かりで顔を見たと言った」
「それは……月は、確かに、明るかったのです。私は、あの夜、暗がりで誰かが動くのを見て、ミレイユが泣くのを聞いて、リディアだと思い込んで」
「ミレイユ嬢」陛下の声は静かだった。「そなたは、あの夜、何を見た」
ミレイユ嬢の顔は、真っ白になっていた。彼女は唇を震わせ、小さな声で答えた。
「暗い庭で、足を滑らせて、噴水に落ちました。誰かに押されたのかと思いました。人影が見えた気がして。……でも、殿下が、リディア様だと、先におっしゃったので。月が出ていたと、おっしゃったので、そうだったような気がして。話すたびに、どんどん、はっきり見えるようになって」
ミレイユ嬢はその場に崩れ、声を殺して泣いた。殿下は何も言わなかった。月の話を、自分の口で何度も明るくした人が、その口から、もう一つも言葉を出せずにいた。
陛下の裁定は、その場で下った。
婚約は、王家の側の責により解消する。王太子ユリウスは、半年の謹慎とし、その間、公の席に出ることを許さない。ミレイユ・ローレンは、ローレン家へ戻す。王宮への出入りは、しばらく控えさせる。王太子の座については、半年ののち、改めて余が定める。
そしてリディア・ヴァイゼルの名誉は、宮廷の布告をもって、広く元に戻される。
「ヴァイゼル伯爵」陛下は、裁定のあとで私を呼んだ。「そなたからは、何か言いたいことはあるか。余の息子が、そなたの娘を、あれほど公の場で傷つけたのだ」
「ございません、陛下」
「ないのか」
「娘が、暗がりでも星の名を一度も間違えぬ者だと、陛下がご存じでいらっしゃいました。それで十分でございます」
陛下は短く笑い、それから、少し長く息をついた。
「余は、よい観測者を持った。そして、よい助手を持っていたことを、危うく忘れるところだった」
王太子殿下は、謁見の間を出るとき、一度だけ娘のほうを見た。何か言いたそうな顔をしていたが、結局、頭を下げただけで出て行った。ミレイユ嬢は、侍女に支えられて退出した。誰も、二人を追い詰めはしなかった。必要がなかった。
控えの間に戻ると、マルガレーテが待っていた。昨夜の勢いはどこへやら、彼女は私の袖をつかんで、声もなく何度も頷いた。それから「やっぱり、あなたは憎らしいほど落ち着いているわ」と言い、泣き笑いの顔になった。
私は勝ったとは思わなかった。ただ、空のずれを一つ、正しい位置に戻した。それだけだ。
その日の夕方、娘と私は天文台の石段を上っていた。夜の観測の準備のためだ。婚約が解けても、星は昇る。観測は休めない。
「お父様」
「うん」
「ありがとうございました」
「礼を言われるようなことは、していない。あの夜、私は陛下の隣にいなかった。お前がいた」
リディアは少しだけ笑った。手袋の指先は、もう、手首を握っていない。
「昨夜、馬車の中で、少しだけ怖かったのです。皆が殿下の言葉を信じてしまうのではないかと。でも、お父様が黙っておられたので、きっと大丈夫だと思うことにしました」
「黙っていただけだ」
「お父様が何もおっしゃらないときは、たいてい、空の様子を見極めておられるときですもの」
私は何も答えず、石段を一段、余計に上った。
石段の途中で、背後から足音が追ってきた。振り返ると、アルベルト殿下が、肩で息をしていた。
「ヴァイゼル伯爵。リディア嬢。お待ちください」
私は眉を寄せた。第二王子が走って階段を上がってくるなど、天文台の歴史にもあまり例がない。
「次の新月の観星会に」と殿下は言った。そこで一度、言葉を探すように間を置いた。「同行してよいでしょうか。望遠鏡の筒を、また支えたいのです。今度は、父上の隣ではなく、できれば、リディア嬢のお隣で」
リディアは、目を瞬いた。
「アルベルト殿下は、これまでも毎回、いらしていたではありませんか」
「そうです。ですが、毎回、お誘いを受けたわけではなく、父上のお供という名目でした。今度は、自分の足で行きたい」
娘がこちらを見た。私は、できるだけ渋い顔を作った。実際、渋かった。観星会の常連が、一人、別の意味を持った常連になる。それは、父親としては、あまり喜ばしい事態ではない。
「殿下。観星会は夜が冷えます。足元も暗い。筒の重さを甘く見る方は、すぐにお帰りになる」
「承知しております」
「手袋もお持ちなさい。金具は冷えると、素手に貼りつく」
「用意いたします」
「持ち場を勝手に離れる者は、次から呼びません」
「はい」
「……遅れずに来られるなら、断る理由は、ありません」
殿下の顔が、ぱっとほどけた。娘は手袋の指先を口元に当て、笑いをこらえている。
「では、新月の夜に」リディアが、笑いを含んだ声で言った。「筒の金具は、思っているより冷たいですよ、殿下」
階段の上の空は、ちょうど夕闇に変わるところだった。南の空高く、半分の月が白く浮いている。あの月は満ち、やがて痩せて、また消える。
月はいつでも欠け、いつでも満ちる。人の噂のように、勝手に明るくなったりはしない。それが私の仕事の誇りだ。
次の新月が待ち遠しい。




