婚約破棄が採点競技の国で、自分の婚約破棄の審判をしたら殿下は0.3点、なぜか隣国の大公様が私に満点をつけてきます
「ロゼリア・ベルクレール! お前との婚約を破棄する!」
婚約者のエドガー王太子殿下が私の名を叫んだ瞬間、社交の季節の幕開けを祝う王宮の夜会で、楽団の演奏がぴたりと止まった。
最初に動いたのは給仕たちだった。誰に言われるでもなく壁際から点数表示板を運び出し、玉座の横に据えつける。別の給仕は審判席の埃を払い、国王陛下は葡萄酒の杯を傍らの侍従の盆へ戻し、姿勢を正された。
この国では、婚約破棄は採点競技である。
表示板には、金文字で五つの項目が並んでいる。
【宣言の明瞭さ 満点1.0】
【罪状の具体性 満点2.0】
【証拠の提示 満点5.0】
【指差しの角度 満点1.0】
【退場の美しさ 満点1.0】
【合計 5.0を超えれば罪状成立】
婚約を破棄する側は、この順に演技をする。審判が一項目ずつ点をつけ、合計が5.0を超えれば罪状は認められる。そうなれば私は、落ち度のある女として婚約を破棄される。5.0以下なら罪状は消えて、破棄の責任は殿下が負う。
「審判は。本日の審判はどなたか」
夜会の進行役を務める式部官が声を張り上げたけれど、返事はなかった。
今夜の担当審判は私の師匠で、昼過ぎに腰を痛めて寝込んでいる。社交の季節の初日で、代わりの審判は全員よその夜会に出払っていた。
式部官が懐から規定集を取り出し、慌ただしく頁をめくる。会場の全員が、その指先を見守った。
「⋯⋯ございました。第八条。審判が不在の時は、婚約を破棄される側が審判を兼ねる」
式部官は懐中時計の蓋を開け、声を張った。
「第八条の適用により、ただ今より試合開始といたします。被破棄者は89秒以内に審判席へお着きください」
数百の視線が、一斉に私へ向いた。
89秒以内に審判席に着けなければ、棄権とみなされる。棄権すれば、罪状の中身を一度も問われないまま、破棄される側の有責で婚約は破棄される。泣いている令嬢が涙を拭いて顔を上げるまでの平均が88秒で、裾をさばく分の1秒を足したのだと、講習で習った。
婚約破棄は、たいてい何の前触れもなく始まる。言い返したり泣き崩れたりしているうちに89秒が過ぎて、有責になる令嬢が毎年いる。この規則を知らない若い方なら、なおさらだ。
殿下だけが、少しも驚いておられなかった。口の端が、わずかに持ち上がっている。
なるほど、と思った。
師匠が腰を痛めたのは昼過ぎだ。殿下はそれを聞きつけて、今夜に決めたのだろう。代わりの審判が来られない夜なら、第八条で私が審判を兼ねることになる。
殿下のお考えは、おそらくこうだ。自分の婚約破棄を採点させられて、平気でいられる女はいない。泣いて89秒のうちに審判席へ着けなければ、それで私の棄権になる。座ったとしても、私は自分に甘い点をつけるに違いない。そうなれば、不公正な採点として審判の交代を申し立てればいい。
どちらに転んでも、殿下の勝ちになる。
懐中時計を握る指に、力が入った。秒針は、もう20秒を過ぎている。
ただ、その計算には、私が泣かずに座って公平に採点する場合が入っていない。
私は手提げから白手袋を取り出し、指の一本一本まで丁寧にはめた。王立婚約破棄審判協会、公認一級審判。史上最年少で資格を取ってから、この手袋を忘れて家を出た日は一日もない。婚約を破棄されるとは知らずに来た今夜も、ちゃんと持っていた。
規定の歩幅で審判席へ向かう。前を通り過ぎる時、殿下の眉がぴくりと動いた。
「⋯⋯座るのか」
「規定ですので」
審判席に腰を下ろすと、式部官が懐中時計から顔を上げた。
「着席を確認。52秒」
観衆の間から、ほうっと息が漏れた。私は金縁の点数札を机に並べた。0から10まで、0.1刻みで組み替えられる協会の支給品だ。
「それでは、エドガー殿下。規定演技をどうぞ」
◇◇◇◇
殿下は咳払いをひとつして、大広間の中央に進み出られた。
殿下が三日三晩、鏡の前で何かを練習なさっていたことは知っている。宰相府で次官を務める兄から殿下の浮気を聞かされて以来、我が家は王宮に密偵を一人入れていた。その密偵の報せによれば、夜中に何度も、殿下の侍従が「角度が」「もう少し顎を」と言っていたそうだ。何の練習なのかは、今わかった。
「私、エドガーは真実の愛を見つけた! よって、ロゼリア・ベルクレールとの婚約を、ここに破棄する!」
右手を天に突き上げ、左足を半歩引く。決めの姿勢まで一息に仕上げてくるあたり、練習の成果はたしかに出ていた。
私は点数札を組み替えて掲げた。
「一項目め、宣言の明瞭さ。0.9。ただし『真実の愛』の定義が不明につき、マイナス0.5」
表示板の一段目に、係が札を差し込んだ。
【宣言の明瞭さ 0.4】
「て、定義?」
「どのような愛を、何をもって真実と判定なさったのか。宣言の中でお示しいただく決まりです」
「そんなもの、見れば分かるだろう!」
「見ても分からなかったので、減点しております」
観衆の最前列で、誰かが小さく吹き出した。
「見ろ、低い! 自分に甘い採点だ! 不公正につき、審判の交代を申し立てる!」
思ったとおりの申し立てだった。
「審判の忌避は認められております」
私は規定集の該当頁を開いて、殿下に見えるよう掲げた。
「忌避が通れば、私は審判を外れます。審判が不在となりますので、第八条により、婚約を破棄される側が審判を兼ねます」
「⋯⋯それは誰だ」
「私です」
殿下はしばらく規定集と私の顔を見比べてから、黙って元の位置に戻られた。どちらに転んでも勝てるはずだった作戦は、これで二つとも尽きた。
「二項目め、罪状をどうぞ」
「くっ⋯⋯お前はミュリエルの教科書を破った!」
「罪状の具体性、0.6。いつ、どこで、どの教科書を。そこまで揃えば満点の2.0でした」
【罪状の具体性 0.6】
「三項目め、証拠の提示を求めます」
殿下が懐を探る。上着の内側を探り、袖を探り、なぜか靴の中まで覗いてから、最後に私を見た。
「⋯⋯ない」
「証拠の提示、0.0」
【証拠の提示 0.0】
「待て。証拠が0.0ということは⋯⋯」
殿下は表示板を見上げて、指を折り始めた。宣言が1.0、罪状が2.0、指差しが1.0、退場が1.0。
「⋯⋯残りを全部満点にしても、5.0ではないか」
「はい。5.0丁度では、罪状は成立しません。5.1からです。証拠がなければ決して勝てないように、作られております」
表示板の係が、いちばん下の段に札を差し込んだ。
【合計 1.0】
殿下の額に、うっすらと汗が浮いた。
「ま、まだある! お前は先月の十日、ミュリエルを王立学院の階段から突き落とした!」
今度は日付と場所が入っていた。学習が早い。
「罪状が追加されましたので、二項目めに戻って採点し直します。罪状の具体性、1.9。大変よくなりました」
【罪状の具体性 1.9】
【合計 2.3】
「そうだろう!」
「ただ、先月の十日でしたら、私は協会の国際会議でヴェルデ大公国におりました。出席記録の写しがこちらに」
手提げから書類を取り出すと、式部官が受け取って目を通し、頭上に掲げた。
「確認いたしました。ベルクレール審判、先月十日は国外にご滞在」
「なぜ持ち歩いているんだ、そんなものを!」
「審判ですので。いつ罪状を言い渡されてもよいように、不在の証明は三か月分持ち歩いております」
式部官が深く頷き、観衆の何人かが手帳に書き留めた。
「⋯⋯待て。そんなに都合よく書類が出てくるものか。お前、不正をしたのではないか!?」
「審判の不正が確定した場合、審判は交代となります」
「よし、交代だ!」
「交代すれば審判が不在となりますので、第八条により、婚約を破棄される側が審判を兼ねます」
「⋯⋯それは誰だ」
「私です」
殿下は、さっきとまったく同じ顔で黙り込まれた。
「三項目め、証拠の提示。引き続き0.0」
「四項目め、指差しの角度をどうぞ」
殿下は大きく息を吸い、表情を作り直された。夜ごとの練習の本命は、ここにある。
「ロゼリア・ベルクレール!」
腕がまっすぐ私へ伸びた。指先に一分の迷いもない、見事な指差しだった。
私は懐から分度器を取り出して、殿下の腕に当てた。
「な、なぜ分度器を持っている!」
「規定ですので」
審判の携行品は、規定集の巻末に一覧で載っている。白手袋、懐中時計、点数札、分度器。殿下は三日三晩、そこまでは読まれなかったらしい。
「指差しの角度、60度。規定は45度です。0.0」
【指差しの角度 0.0】
「0!? 一番練習したところだぞ!」
「練習なさった角度が、60度だったのかと」
壁際に控えていた殿下の侍従が、そっと目を伏せた。夜中に「角度が」と言い続けた声の主だろう。
「そ、その分度器が狂っているのだ! 審判の交──」
「私です」
「⋯⋯まだ最後まで言っていない」
その時、ぱたん、と乾いた音がした。
最前列のブランシュ侯爵夫人が、扇ではなく小さな札を掲げている。ご自分用の点数札だ。数字は0.2で、余白に達筆で「指が震えていて見苦しい」と添えてあった。
それを皮切りに、隣のご令嬢が「顎が上がりすぎ」、その隣の紳士が「靴の中を覗いたのは何故か」と書いた札を、次々と掲げていく。
観衆の札は記録に残らない。ただの感想だ。それでも出す。夜会の季節に自前の点数札を懐に忍ばせておくのは、高位貴族の中でも、競技に通じた方々のたしなみだ。殿下がご存じないのも無理はない。
「な、なぜ皆、札を持っている⋯⋯!」
殿下の悲鳴に答えるように、玉座からも一枚、札が上がった。
「ち、父上まで!」
「余も観衆のひとりである」
陛下の札には0.1とあり、理由の欄には「余の葡萄酒がぬるくなった」と書かれていた。
「い、今の合計は何点だ!」
「0.4と1.9で、2.3です。残る項目は退場の美しさのみで、満点は1.0。すべて足しても3.3です」
殿下は表示板を見上げたまま、しばらく動かなかった。
「さ、再演技を要求する!」
殿下が叫ぶと、あちこちで規定集をめくる音がした。観衆の皆様もお持ちなのだ。
「認めます。再演技は一回まで。なお、再演技の点数は前の点数に代わって採用されます。前の点数のほうが高くても、です」
「望むところだ!」
望むところではなかった。
二度目の宣言で、殿下は「しんじつの、あ、あいを」のところで舌を噛まれた。決めの姿勢では引いた左足がもつれて、突き上げた右手がふらふらと泳ぎ、最後は指先がまっすぐ天井を差していた。
指の先には、シャンデリアしかない。
罪状は、緊張のあまり一つも出てこなかった。
「一項目め、宣言の明瞭さ。0.9から、定義不明でマイナス0.5、噛みでマイナス0.1。0.3です。二項目め、罪状の具体性。0.0。罪状がございませんでしたので」
「さっきの1.9は!?」
「再演技の点数が採用されます。先ほど申し上げました。三項目め、証拠の提示。0.0」
「ゆ、指差しは!? 今度は指したぞ!」
「四項目め、指差しの角度。対象が天井でしたので、0.0です」
「天井ではない、私の愛を指したのだ!」
「愛は、証拠として提出できません」
表示板の係が、上から順に札を差し替えていった。
【宣言の明瞭さ 0.3】
【罪状の具体性 0.0】
【証拠の提示 0.0】
【指差しの角度 0.0】
【退場の美しさ 未採点】
【合計 0.3】
殿下はその場に膝をつかれた。
それもそのはず。三日三晩の成果が、0.3だったのだから。
◇◇◇◇
「お待ちくださいませ!」
膝をついた殿下の前に、淡い金髪の令嬢が飛び出してきた。ミュリエル・ラスク男爵令嬢。殿下のおっしゃる「真実の愛」のお相手で、今夜の罪状の被害者ということになっている方だ。
「わたくし⋯⋯ずっと、ロゼリア様にいじめられておりましたの」
震える声とともに、大きな瞳から涙がこぼれ落ちた。一粒、二粒。小柄で可愛らしい姿が、庇護欲を掻き立てる。会場のあちこちから、案の定、同情のため息が漏れた。
殿下が勢いよく顔を上げた。
「そ、そうだ! 証拠ならある! このミュリエルの涙こそが証拠だ!」
大広間がざわついた。証拠の提示は、演技者が退場するまで受け付ける決まりになっている。
私は頭の中で点を数えた。涙が証拠として認められれば、三項目めに5.0が入る。今の0.3と足して、5.3。
5.0を超える。罪人になるのは────私だ。
「承りました。申立人側の証拠として、ミュリエル様の涙を審査いたします」
私は審判席から身を乗り出して、ミュリエル様をまっすぐに見た。
涙の量は申し分ない。頬を伝う筋も綺麗だ。夜会の灯りの下で一番映える角度に顔を傾けているあたり、よく研究されている。
ただ、濡れているのは右の頬だけだった。
私は懐中時計の蓋を開け、秒針を目で追った。10秒、20秒、30秒。
「涙は右目のみ。30秒間の瞬きの回数、0回」
ミュリエル様の肩が、ぴくりと跳ねた。
「人は泣くと、瞬きが増えます。本当に泣いている方の瞬きは、1分間に平均31回。第206試合から177試合分、私が計測して協会に提出した記録です」
「そ、そんな⋯⋯悲しすぎて、わたくし、瞬きを忘れておりましたの!」
「それでしたら、左目も泣いてよいはずです」
ミュリエル様は、はっとした顔で左目に力を込めた。眉間に皺が寄り、左の頬がひくひくと引きつり、鼻の穴がわずかに広がる。観衆が固唾を呑んで見守るなか、左目は最後まで乾いたままだった。
「左目、0.0。眉の動き、1.0。⋯⋯眉は採点項目にございませんが」
「でしたら採点なさらないで!」
会場のどこかで、また札が上がった。余白には「鼻」とだけ書いてあった。
涙が本物か偽物か、確かめる手段はひとつしかない。ここで私が動かなければ、この涙はそのまま「証拠」として記録に残る。
私は審判席を立った。
「審判権限により、所持品の提示を求めます」
「わ、わたくしを疑うとおっしゃるの!?」
「疑うのが審判の仕事です。疑いが晴れれば、その涙には満点を差し上げます」
ミュリエル様の顔から、すうっと血の気が引いた。彼女はよろめいて額に手を当て、細い声で「目の前が⋯⋯」と呟くと、ふわりと崩れ落ちた。
見事な気絶だった。採点項目にあれば、満点に近い。
ただ、倒れた拍子に、袖口から小さな硝子の瓶が転がり出た。
瓶は大理石の床を澄んだ音を立てて転がり、私の靴の先でこつんと止まった。拾い上げて灯りにかざすと、瓶に貼られた小さな紙には【王都薬舗 目薬 徳用】とある。
中身は、あと二、三滴しか残っていなかった。今夜のために、ずいぶん練習なさったのだろう。
会場の空気が、みるみる冷えていく。気絶しているはずのミュリエル様の睫毛が、ぴくりと動いた。
「捏造の疑いあり。審議に入ります」
そう宣言してから規定集の該当頁を開いて、私の手が止まった。
第十一条。捏造の審議は、審判二名以上をもって行う。
この大広間に、審判は私ひとりしかいない。
「⋯⋯審議には、審判がもう一名必要です」
今度は会場中が規定集をめくり始めた。陛下も、侯爵夫人も、給仕までもが頁を繰っている。けれど第八条には「審判を兼ねる」とあるだけで、二人目の兼ね方までは書いていない。
「では、捏造は⋯⋯審議なしか?」
膝をついたままの殿下の声に、かすかな希望が混じった。
◇◇◇◇
大広間の扉が開いた。
「遅くなりました。協会国際審判オズヴェン・シュワルツ、第二審判席に着きます」
旅装の外套に協会の審判章だけを留めた、背の高い男性が立っていた。黒髪に灰色の瞳。ヴェルデ大公国の大公殿下だ。今夜の夜会には外交使節として招かれていて、国境の雪で到着が遅れていると聞いていた。
先月の国際会議でも、議場の一番後ろの席にいらした方だ。言葉を交わしたことは一度もない。
大公殿下は誰の案内も待たずに第二審判席へ向かい、腰を下ろした。
「い、今来たばかりで、何が分かる!」
「宣言から、扉の外ですべて聞いておりました。演技の最中は扉を開けない決まりですので」
大公殿下はエドガー殿下にそれだけ答えると、表示板の0.3を一瞥して、何も付け加えなかった。
私は審判席から立ち上がった。審議に入る前に、確かめておかなければならないことがある。
「大公殿下。この試合の審判は、婚約を破棄される当事者の私です。私の採点が公平だったかどうか、第二審判として先に審査なさってください」
「その必要はありません」
「⋯⋯根拠を伺っても」
審判は、根拠のない判断を認めない。自分に有利な判断であっても、そこは譲れなかった。
大公殿下は、一度だけ目を伏せた。
「婚約を破棄された方は、たいてい泣きます。泣いて、審判席のほうを見ます。誰か自分を守ってくれないかと」
ざわめきが、すっと引いた。
「十年前、この国で審判が欠場した試合が一件ありました。第八条が適用され、被破棄者が審判を兼ねることになった。ですがその方は泣き崩れて、89秒のうちに審判席へ着けなかった。棄権とみなされ、罪状の中身を一度も問われないまま、有責で婚約を破棄されました。エドガー殿下が今夜狙ったのも、同じ形でしょう」
懐中時計を握る指に、力が入った。
「被破棄者の名は、オディール・ベルクレール。あなたの叔母上です」
叔母様は、証拠のひとつもない罪状を背負ったまま社交界を去った。あの夜会は、ベルクレール家の屋敷で開かれていた。九歳の私は寝室を抜け出して、階段の手すりの陰からそれを見ていた。89秒が過ぎても誰も座らなかった審判席を、ずっと見ていた。
その翌年、私は協会の審判講習に申し込んだ。誰にも話したことのない理由だった。
「今夜のあなたは、泣かずに審判席へ歩いた。叔母上が座れなかった席に、ご自分で座った。そういう方の採点を、私は疑いません」
大公殿下は懐から点数札を取り出した。
札が上がった。上がるところは、誰にも見えなかった。気づいた時にはもう、札は私へ向けて掲げられていた。
10.0。
「審判を採点する規定はありませんので、これはただの感想です」
「⋯⋯どうして、そこまでご存じなのですか」
「七年前の第114試合。師匠の隣で113試合を見習ったあと、デビュタントも済ませていない十二歳のあなたが、協会の審判として、初めて一人で審判席に座った試合です」
大公殿下の声は、最後まで静かだった。
「被破棄者は、ヴェルデからこの国へ嫁ぐ予定だった娘でした。罪状は三つで、証拠はひとつもない。あなたは採点表の余白に『証拠なし。よって罪状は成立しない』と一行だけ書いた。その一行で、彼女は修道院に送られずに済みました」
灰色の瞳が、まっすぐ私を見た。
「私の妹です」
私は何も言えなかった。
「それから私は、あなたの採点記録をすべて取り寄せました。382件、一件残らず覚えています」
「⋯⋯全部、ですか」
「第206試合から続けておられる、瞬きの計測も。あれは良い研究です」
382件の試合のなかで、私の採点を覚えている人に会ったのは初めてだった。
「では、審議を」
大公殿下が、第二審判席から立ち上がった。
◇◇◇◇
審議は、驚くほど短く済んだ。
目薬の瓶と右目だけの涙、0回の瞬き、そして申立人がその涙を証拠として提出したという記録がそろっている。大公殿下と私が互いの採点表を交換し、同じ結論に丸をつけたところで、陛下が玉座から立ち上がられた。
「この規定は百年前、我らの祖先が定めた。証拠のない断罪で、娘たちの一生が奪われぬように。王家とて、規定の外にはおらぬ」
陛下は侍従の盆から、ぬるくなった葡萄酒を取って一口召し上がってから続けられた。
「エドガーの合計は0.3。5.0を超えなかった。よって罪状は消え、婚約破棄の責任はエドガーが負う。ベルクレール家へ慰謝料を支払え」
そこまでは、規定どおりの結果だった。陛下はもう一枚、書類をめくられた。
「加えて規定第十二条を適用する。罪状の捏造により、エドガー、失格」
陛下が言い終える前に、第二審判席では【同意】の札が上がっていた。やはり、上がるところは見えなかった。
「ち、父上! 捏造したのは私ではなく────」
「捏造された涙を、証拠として出したのはお前だ」
殿下は口を開けたまま固まった。
「失格者は王位継承順位を再審査のうえ、協会の試合への出場を三年間停止する」
息子の廃嫡にも等しい裁定を、陛下は明日の天気でも告げるような声でおっしゃった。
「ち、父上、せめて王太子の身分だけは⋯⋯!」
「規定である」
陛下が真顔でそうおっしゃると、観衆の間に小さなどよめきが走った。侯爵夫人が、陛下に向けて札を上げている。9.5。余白には「間が良い」とあった。
「お、お待ちくださいませ!」
床に倒れていたミュリエル様が、がばりと身を起こした。
「その目薬は、目が乾いたから差していただけですわ! 涙とは関係ございません!」
「目が乾いていたのなら、瞬きは増えるはずです。ですがあなたの瞬きは、30秒で0回でした」
第二審判席から、大公殿下が静かにおっしゃった。その先は、私が引き取った。
「それに、乾いた目に差すのなら両目に差します。濡れていたのは、右の頬だけでした」
ミュリエル様は口を開き、何も言わずに閉じた。陛下が、静かに続けられた。
「ミュリエル・ラスク。虚偽の証拠を用いた者は、協会の試合への永久出場停止とする」
この国では婚約も、その破棄も、すべて協会の規定の下で行われる。試合に出られない令嬢は、婚約の場にも立てない。身を起こしていたミュリエル様は、その場で白目を剥いて後ろへ倒れた。今度の気絶は本物で、見事でも何でもない倒れ方だった。
衛兵に両脇を抱えられて、殿下が立ち上がる。扉へ向かう途中で、殿下は一度だけ振り返った。
「⋯⋯45度、だったのだな」
「はい」
「来年、また出られるか。次こそは45度で指してみせる」
「失格者は、三年間の出場停止です。それに、婚約を破棄なさるには、まず婚約者が要ります」
殿下は、しばらく何もない宙を見つめておられた。
やがて肩を落とし、それから背筋を伸ばして、扉の前で一礼してから大広間を出ていかれた。鏡の前の練習のどこかで、そこだけは身についていたらしい。
「退場の美しさ、1.0。満点です」
私が札を掲げると、観衆から小さな拍手が起きた。
「失格後の演技ですので、記録には残りません。ですが、今夜殿下が満点を取られたのは、この項目だけです」
◇◇◇◇
大広間に、ようやく楽団の音が戻ってきた。
白手袋を外しかけて、私は手を止めた。第二審判席を立った大公殿下が、まっすぐこちらへ歩いてくる。審判席の前で足を止めると、彼はその場に片膝をついた。
楽団の音が、また止まった。
「ロゼリア・ベルクレール嬢。先ほど、382件の記録を覚えていると申し上げましたが、ひとつ訂正させてください」
「⋯⋯はい」
「そのうち41件は、記録ではなく観衆席で見ていました」
大公殿下は懐から、紐で束ねた点数札を取り出した。ずいぶん分厚い。一枚目の裏に、几帳面な字で日付と試合番号が書いてある。
「先ほどの一枚が、初めての感想ではありません」
表に返された札は、41枚すべてが10.0だった。
「国境の雪で遅れたと聞いておりましたが」
「雪は本当です。ただ、あなたが審判を務める試合がある日は、どこの国にいても馬を替えて来ました」
観衆の最前列で、侯爵夫人が扇で口元を隠した。
「そして、383件目は私の番にしていただきたい」
大公殿下は懐から小さな箱を取り出して、蓋を開けた。指輪の石が、シャンデリアの灯りを弾く。
観衆の皆様が、一斉に懐へ手を入れた。侯爵夫人はもう札を構えていて、陛下は侍従に新しい葡萄酒を頼んでおられた。
「私の求婚を、採点していただけますか」
会場中が息を呑んだ。
採点しなければ。私は審判だ。宣言の明瞭さは申し分ない。罪状はない。証拠の提示は、指輪と札の束がある。指差しの角度は、そもそも指差されていない。
点数札に手を伸ばした。
────札が上がらなかった。
指先が震えて、0から10までのどの札も組めない。懐中時計の秒針を追おうとしても、目が滑る。382件の試合で、こんなことは一度も、なかったのに。頬が熱い。心臓は早鐘を打っているようで、脈を数えようにも、30を過ぎたところで分からなくなった。
「⋯⋯さ、採点、不能です」
口に出してから、私は自分の言葉に驚いた。
会場中で、規定集をめくる音が一斉に鳴った。陛下も、侯爵夫人も、式部官も、給仕も頁を繰り、やがて一人、また一人と顔を上げる。
「⋯⋯ございません」
式部官が、震える声で告げた。
「審判が採点不能に陥った場合の規定は、どこにもございません」
「では、採点していただけるまで毎日求婚します」
大公殿下は膝をついたまま、目元だけで笑った。無表情な人が笑うと、こういう顔になるらしい。
「明日も、明後日も。規定がないのなら、私が生涯をかけてその理由を確かめます」
ぱたん、と音がした。
最前列の侯爵夫人が札を上げていた。10.0。余白には「ようやく」と書いてある。隣のご令嬢が、その隣の紳士が、次々と10.0の札を掲げていく。給仕と式部官までが、どこから出したのか分からない札を掲げていた。玉座の陛下の札は、理由の欄に「葡萄酒はぬるくなったが、構わぬ。続けよ」とあった。頼んだばかりの新しい葡萄酒にも、陛下は口をつけておられなかった。
大公殿下だけが、札を上げなかった。
今夜、誰よりも速く札を上げ続けた人が、手にしていた点数札を静かに床へ置いた。
「この一件だけは、採点する側でいたくないので」
私は震える指で、一枚ずつ時間をかけて点数札を組んだ。1と、0と、0。
今夜いちばん遅い札が、ようやく上がった。
「⋯⋯10.0」
「減点は?」
「追って審議いたします。減点するところを探すのに、時間がかかりそうですので」
「どのくらい」
「そうですね」
私は、外しかけたままだった白手袋を脱いで、差し出された大公殿下の手を取った。
「おそらく、生涯ほど」
点数表示板の前で、係の給仕が最後の札を差し込んだ。
【10.0 減点審議中】
ーFINー
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