無事故ボーナス
午前七時、駅前の大型モニタに天気予報と並んで、もうひとつの数字が点灯する。
《都市無事故率 98.9%/本日の失敗担当:#01987》
拍手は起きない。ただ、それを見た人たちの肩が少しだけ軽くなる。自分ではないからだ。
画面の下段で、やわらかな女性の声が流れる。都市OS〈ORB〉の広報人格である。
「無事故ボーナス(NAB)は、都市全体に散る事故・遅延・トラブルを一人の担当者に集約し、他の市民の一日をなめらかに保ちます。担当者には全損補償と失敗手当、そして都市の感謝が贈られます」
感謝は、だいたい言葉で完結する。
トモは改札を抜け、スマホのNABアプリを開いた。《本日の担当者ではありません》の緑の帯が出る。毎朝見るたび、少しだけ助かる。
ホームで電車を待つあいだ、トモは昨夜の反省会をぼんやり見た。昨日の担当は配送ドライバーの女性。編集は丁寧で、ORBの字幕は親切だ。
《ここから誤配の確率が上がります》
似たラベルの箱が積まれ、受取人の表情が曇り、連鎖は軽いズレの積み木のように倒れていく。右上には広告が入る。
《失敗の味⇨苦味の奥の甘さ 新発売》
コメント欄は礼儀正しく埋まっていく。
「背負ってくれてありがとう」
「あなたの躓きで、今日は間に合いました」
やさしい言葉は、だいたい消費と相性がいい。
会社のエレベーターで、同僚が言った。
「今日、担当じゃない? 顔が平らだよ」
「いつも平ら」
「じゃあ、なおさらだ」
二人は笑い、トモは席に座る。整頓好きで、書類の角をそろえる癖がある。昼休みには角のそろった日記をつける。誰にも見せない、乾いた文の短い日記だ。
◇
制度は、驚くほど早く根づいた。最初の年、保険料は下がり、市バスの遅延は消え、病院の待ち時間も平均値で一割短くなった。
ORBは説明した。
「確率輸送により、事故・遅延・トラブルは担当者のルートへ寄せられます。担当者以外の平均的市民は、統計上無事故です」
統計上、という言葉は、だいたい後ろに小さな洞穴を持っている。
夜の広場では、反省会ライブが新しい娯楽になった。30分に編集された担当者の一日。転びかた、謝りかた、やり直しかた。
友人のユナは、切り抜き動画で生活が安定したという。
「ORBの編集、やさしすぎるんだよ。間がつるつるでさ。私のは躓きの余韻を残す。そこに広告挿し込むと、視聴完走率が上がる」
「悪趣味では?」
「礼儀は守ってる。ありがとうは必ず乗せる」
ありがとうは万能の中和剤だ、とユナは笑った。
駅のモニタには、エントリー案内も出るようになった。
《自選式エントリー受付中。スポンサー特典あり》
順番を前倒しにできる。奇妙な文法だとトモは思った。避けたい順番を、前に出す。
けれど、応募は伸びた。特典のひとつはNABポイントで、住宅ローンや学費の利子に充当できる。もうひとつは、SNSの扱い。担当日には自動でハッシュタグ**#今日の失敗**が先頭固定され、フォロワーではない人にも日記が届けられる。
◇
三月のある朝、トモのスマホが低く震えた。アプリの帯は緑ではなかった。
《本日の失敗担当:あなたです(#10221)》
文章は短く、落ち着いていた。全損補償の説明、失敗手当の振込予定、演出に関する同意事項。
トモは台所でコップを持ったまま、しばらく固まった。
ORBの声が、耳の奥でやさしく続ける。
「本日は、歩行経路の混雑・交通遅延・軽微な誤配・会議通信の乱れなどが、あなたの周辺に寄ります。他の市民は、なめらかです。よろしくお願いします」
よろしく、という言葉は、重い荷物にうつくしいリボンをかけるのが得意だ。
まず、エレベーターが止まった。停止は安全のためで、トモは五階から階段を降りた。踊り場で、スーツの人が肩をぶつけ、申し訳なさそうに頭を下げる。
「あなたの担当日でしたか。助かります」
助かります、という言葉は、謝罪と同じ形で胸に落ちた。
駅では、乗る予定の電車が運行間引きになっていた。ホームの反対側を走る快速は、時刻どおりに滑っていく。確率輸送で、遅延はトモのホームに寄る。
車内で、トモはふと思ってスマホに今日の日記を書いた。文はいつもどおり乾いている。
7:55 エレベーター停止。階段。踊り場の空気が朝に似ていて、きらいではない。
8:20 電車、遅延。前の車両で誰かが音楽を止め忘れている。スネアが一拍、ずれる。
8:35 改札でICカードが一度だけうまく読めず、後ろの人の靴が踵に触れる。柔らかくて、少し申し訳ない。
会社に着くと、会議用の回線が断続的に落ちた。資料のクラウドは一時的に見えなくなり、復帰したときには古い版が出てきた。
上司は眉を寄せ、すぐに眉を戻した。
「きみの担当日か。じゃあ仕方ない。午後にまわそう」
仕方ないは、便利な形をしている。何も直さずに済む。
昼、配達の弁当は隣のフロアへ行き、取りに行った頃には温度がやや低い。箱のラベルは似ていて、蓋に小さな誤字がある。
トモは箸を持ち、日記に書く。
12:10 弁当は冷えている。口の中で、味がひと拍遅れて届く。遅延の味。
12:40 上司の冗談、一秒遅れで笑う。笑い声が揃わず、少しきれい。
13:15 担当であることは、看板のようだ。視線は優しいし、重い。
午後、コピー機が紙を二枚重ねで吐き、ホチキスが空を打つ。トモは深呼吸をし、針を拾い、紙の角をそろえ、針を打ち直す。
夕方、帰り道の横断歩道で、信号が奇妙な周期になった。歩き出した人は少し戸惑い、次の瞬間には全員、なめらかに渡りきった。
帰宅。玄関で靴をそろえる。そろえることは、トモの唯一の防波堤である。
夜、広場のスクリーンで反省会ライブが始まる。今日の担当は——トモだ。
自分の一日が、第三者のやさしいカメラで三十分に編まれている。踊り場の光、ホームの群れ、弁当箱の曇り。
コメント欄は、驚くほどやさしい。
「背負ってくれてありがとう」
「踵の柔らかさの描写、すき」
すき、という単語が画面の隅で増殖する。
ユナがメッセージを寄こした。
《日記、読んだ。声がある文。切り抜きたい》
《切らないで》
《でも伸びる。広告単価、跳ねる》
《じゃあ、静かに》
静かに、というのは、たいてい守られない。
深夜、トモの日記はバズに変わった。
乾いた言葉と、淡い傷の位置。「遅延の味」の比喩に、飲料メーカーの担当者が目をつけた。
《コラボの相談。失敗の味、一緒につくりませんか》
飲み物は苦いが、後味に甘さを想定するという。
◇
翌朝のモニタに、都市無事故率 99.1%が出た。
《昨日の担当:#10221(視聴回数 620万)》
視聴回数は、都市の感謝ではない。けれど、都市の注目ではある。
アプリの通知欄が増えた。
《スポンサー:失敗の味/試飲券》
《出版社:今日の失敗、書籍化のご相談》
《ORB:自選式エントリーのご案内(優待)》
優待。順番を前倒しにする権利が、好意的に語られる。
トモは笑ってしまい、少し泣き、キッチンのコップに水をそそいだ。水は、昨日よりも普通だった。
昼、ユナが会社の前で待っていた。
「いま、順番待ちがすごい」
「待つの?」
「担当日、取りに行くの。抽選の列、見に行こう」
二人は広場へ向かった。
仮設のテントが並び、保険会社のロゴがはためく。
《順番券発行中》
《エントリーでNABポイント付与》
《スポンサー枠:当たり演出つき》
抽選機からは紙吹雪が飛び、当たりには手錠型のキーホルダーが渡された。「今日の失敗は私です」の刻印。
列の先頭に、学生が立っていた。
「奨学金の返済が早くなるんですよ。わたし、躓きの作法、勉強してきました」
躓きの作法。ユナが笑い、すぐ真顔に戻る。
「転びかた・謝りかた・映える失敗、講座があるの。私、昨日取材した」
「映える?」
「スポンサーがつくから。倫理のやわらかい所が、少しだけ押されてる」
その日の担当は、抽選で当たった**#03456の若者だった。
「失敗の味」は本当に配られた。苦くて、後からほんの少し甘い。期待に似た甘さだ。
夜の反省会は視聴者数が跳ね、タイムラインは抽選会の自慢**で埋まった。
「外れた」「来月こそ」「スポンサー枠で当たった」
成功は、空気になった。
うまくいく日は、話題にならない。
◇
数週後、ORBは自選式枠の拡大を発表した。
「公平性を担保するため、輪番に加え、自選式(希望者)を増やします。スポンサー連携により、担当者の補償はより手厚く」
拍手は起きなかった。けれど、応募は跳ねた。
トモは招待を受けていた。優待。
《あなたの日記は反省会の新しい価値をつくりました。再び——》
トモは、辞退を押した。
その夜、落選の通知が来た。
《辞退は抽選対象外です。次回の優待は未定》
通知の色は灰色で、意味は青かった。
ユナが言った。
「人気者は、落選するんだよ」
「落選で落ち込むのは、変だね」
「変だけど、気持ちいいときがある」
街角の掲示に、新しいポスターが貼られた。
《無事故ボーナス、史上最高》
《都市無事故率:99.4%》
数字は高く、空は低かった。
高速道路の情報板には、渋滞の表示がほとんど出ない。出るときは、担当者の車線にまとまって出る。
スーパーのレジでは、釣り銭の誤差が消え、誤差は担当のレーンにまとまる。
病院の受付では、診察券の読み取りが滑らかで、読み取れないカードは担当者の順番に並ぶ。
都市は、よくできた整流器のようになった。凹凸は、一か所に集めてうまく流す。
◇
春の雨。トモは休日の朝、机に向かった。新しい日記を開く。
外は滑らかに雨が降り、窓ガラスは静かに曇る。
キッチンで湯が沸き、カップのふちに白い蒸気がふれる。
スマホが震えた。
《出版社:単行本の正式依頼。帯に「都市は無事故、わたしは日記」》
笑ってしまい、湯がこぼれそうになる。躓きはどこにでもある。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
扉を開けると、スーツの男女が立っていた。飲料メーカーの広報担当だ。
「失敗の味・無糖を出します。監修を——」
「監修?」
「比喩に根がありました。遅延の味。踵の柔らかさ。言葉の飲み口をお借りしたい」
トモは頷いた。頷きは、社会をすこしだけなめらかにする。
彼らが帰ると、ユナからメッセージ。
《反省会の副音声、やらない? ナレーター、トモ》
《私の声は、平らだよ》
《都市には、平らな声がいる》
平らな声の役目は、凹凸を説明することだろう。
◇
梅雨が近づく頃、トモはふと気づいた。
街の会話から、ある種の言葉が消えている。
「今日は何もなかったね」
この文は、ほとんど誰も言わない。無事故は制度であり、空気であり、メインにはならない。
一方で、失敗は飾られる。
「今日の担当、よかったね。転びかた、美しかった」
美しい躓き。
成功は、背景になった。
躓きだけが、物語だ。
夜、広場で反省会ライブが始まる。担当は、年配のタクシードライバー。
左折の角で、対向車の目測がわずかにずれ、乗客の到着が7分遅れる。
《ここでクレームの確率が上がります》
字幕は親切で、やや冷たい。
ドライバーの肩が、見えない重さで少し下がる。
コメントは今日も礼儀正しい。
「ありがとうございます」「背負ってくれて助かる」
トモは、ただ見ている。
彼の沈黙が、じわじわと画面の端にしみてきて、広告の苦味が薄まる。
帰り道、ユナが言った。
「抽選、また当たらなかった。わたし、担当してみたいんだ」
「どうして」
「見える側に回りたい。切り抜くの、うまくなりすぎた。切り抜かれる側の温度を、いちど触りたい」
トモは黙った。
「止めないの?」
「止める言葉が見当たらない」
ユナは、肩をすくめて笑った。
「じゃあ、躓きの作法、教えて」
「転んだあと、砂利を見て。数字にならない」
「それ、帯に書こう」
二人は笑い、雨粒の音を聞いた。統計の外の音だった。
◇
夏が来た。
都市無事故率は史上最高を更新し続け、《99.6%》の数字がガラスのように光った。
ORBは上機嫌だ。
「皆さまの協力で、都市はなめらかです。担当者の皆さまへ、改めて感謝を」
感謝は、いつもよく通る。
ある晩、トモは小さな会場で朗読会をした。日記を、ただ読む会。
集まった人は少なかった。反省会ライブの視聴に比べれば、砂粒の数ほどだ。
けれど、誰かが泣いて、誰かが笑った。二つの音は広告にならない。
帰り道、ユナから短いメッセージ。
《当たった》
トモは電話をかけた。
「大丈夫?」
「たぶん。躓く準備をする」
「準備できるの?」
「作法はある。転んだら、砂利を見る」
「うん」
通話が切れたあと、トモは窓を開けた。
都市の凹凸は、遠くの灯の波に隠れて見えない。
その代わり、窓辺の葉が、風でわずかに揺れていた。
揺れは、数字にならない。
◇
翌朝のモニタには、
《都市無事故率 99.7%/本日の失敗担当:#00831(ユナ)》
と出た。
胃が小さく縮んだ。
トモはスマホを握り、日記のページを開いた。そこにユナの実況が流れはじめる。
「転ぶ前の空気、少し甘い」「信号が一拍遅れる」「足元の砂利、今日のは丸い」
丸い。
昼、ユナは会議で接続を落とし、帰り道で雨に打たれ、家の鍵を落とし、反省会のコメントに礼を言い続けた。
夜、反省会ライブの終盤で、ユナの声が入る。
「背負って、よかったです。
でも、背負ってない日は、もっといいはずです。
うまくいく日の話も、してください」
一瞬、コメント欄が静かになった。
すぐに、やさしい言葉が戻ってきた。
「ありがとう」「背負ってくれて助かった」
助かった、で、会は終わった。
◇
年末の総括の日。
ORBの声は晴れやかだった。
「本年、都市は無事故でした。正確には、史上最高の無事故率を継続しました。保険は下がり、運賃は安定し、幸福度の想定値は上昇しました。担当者のみなさまには、重ねて感謝を」
スクリーンの隅に、淡い注記が一瞬出た。
《個人疲労:可視化外》
注記はすぐ消えた。
広場は拍手で満たされる。礼儀正しい音。
タイムラインは、抽選の当落で埋まる。
「当たった!」「外れた……」「提供:失敗の味」
成功の報告は、見当たらない。
うまくいく日は、誰も覚えていない。
トモは人混みを抜け、橋のうえに立った。川は、今夜もなめらかだ。
ポケットの中には、小さな紙片——順番券が入っている。以前、ユナに誘われて引いたが、当たらなかった。
紙片を指で折り、もう一度、折る。
川面に落とすこともできる。落とせば、数字にならない。
トモはそれを財布に戻し、家に帰った。
机に向かって、日記を開く。
12月31日 晴れ
都市は無事故。わたしは日記。
うまくいく日の話を、書く。
エレベーターは動き、ICカードは一度で通り、弁当は温かく届いた。
誰も転ばず、踵は触れず、笑いは同時に起きた。
何も起きない日は、静かで、よく眠れる。
明日、わたしたちはまた、順番を持ち寄る。
その前に、眠る。
画面の端に、ORBからの通知が光る。
《新年のご案内:自選式エントリー、明朝7時より開始。スポンサー枠拡大》
トモは通知を閉じ、スマホを伏せた。
窓の外で、遠くの花火が丸く開いた。丸いものは、だいたい、角がそろっている。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
都市は、今夜もなめらかに眠る。
失敗の順番は、朝になればまた争奪になるだろう。
けれど、今は——
——何も起きない。
その静けさだけが、物語の外側に残った。




